元禄赤穂事件が浮き彫りにした徳川幕藩体制の二重構造

江戸時代に人形浄瑠璃や歌舞伎の題目として人気を博し、今まで数えきれないほどドラマ化、映画化されて親しまれてきた忠臣蔵。その元ネタになった元禄赤穂事件は多くの人達がそのあらすじを知るところです。
元禄十四年(一七〇一)三月十四日、播州赤穂藩主の浅野内匠頭長矩が、旗本吉良上野介義央に江戸城内で斬りつけ、切腹を申し渡され、赤穂藩は取り潰し。それを不服とした旧赤穂藩家老大石内蔵助以下四十七名が翌元禄十五年(一七〇二)十二月十四日、江戸城下の吉良邸に討ち入り、家人などを含めて殺害したという事件です。
この事件は当時の江戸幕府を揺るがす大事件で、その四十七名の処罰を巡って意見は大きく割れました。この赤穂事件をめぐる意見の対立は徳川幕藩体制の二重構造が浮き彫りになった事件でした。
徳川家康によって全国統一が成し遂げられ、江戸に幕府が開かれると、戦乱の世が終わります。その徳川幕藩体制を維持するためには、旧来の戦国武士的価値観ではなく、平和な時代に向いた新しい武士観が必要になってきます。そこで家康はその新しい武士の道徳観を基礎づける思想として儒教を採用し、林羅山など著名な儒学者、朱子学者が多く御用学者として幕府に取り立てられ、徳川幕府による支配イデオロギー確立が推し進められていきます。
この間、その支配イデオロギーについて様々な議論が登場するのですが、それについては別の機会に書くとして、徳川体制下での新しい武士の道徳観を確立したのは山鹿素行(一六二二年~一六八五年)でした。山鹿素行は中江藤樹、熊沢蕃山らと同じく浪人出身の儒者・軍学者で、林羅山の門下生として朱子学を学んだ後、朱子学を批判して赤穂藩に預けられ、そこで赤穂藩士の教育を担当します。若き日の大石内蔵助もその教えを受けました。
彼は「生産に従事しない武士の職分は、人倫の道を実現し、道徳の面で万民のモデルになるところにある」として、戦闘の専門家であった戦国時代の武士観から、秩序下での儒教道徳の体現者としての武士観へと転換させました。
具体的にはまず(1)気を養う(2)度量(3)士気(4)温籍(5)風度(6)義理を弁ずること(7)命に安んずること(8)清廉(9)正直(10)剛操の10の心術を身につけ、第二段階としては(1)忠孝に励む(2)仁義に拠る(3)事物を詳らかにする(4)博く文を学ぶ等道徳と教養を身につけなければならないとしました。
その上で、彼は「心のあり方は外のかたちに必ずあらわれる」として威儀=立ち居振る舞いを重視し、武士の衣食住にわたる日常の威儀のあり方をいちいち規定し、武士の教養人化を図る思想を確立していきます。
特に切腹や殉死は固く禁じられ、また主君が暗君であっても忠義を尽くすことが美徳とされます。

「我が身たとへ生きながら敵人の手に渡るとも、命は卒爾に棄つべからざると存ずる也。己が一時の怒に身を棄て、恥を思うて早く死し、死を潔くして一時の思を快くせんことは忠臣の道にあらざる也。」(源了円著「徳川思想小史 (中公新書 (312))」P82 「山鹿語録」)

この山鹿素行の士道は道徳律として当時の武士階級に強く影響を及ぼし、江戸時代中期ごろまで支配的な道徳となっていきました。
つまり、赤穂事件はこのような秩序維持のために作り上げられた新しい武士道徳を忠実に実践した結果、秩序を揺るがす事件となったという矛盾を幕府に突きつけるものだった訳です。

源了円著「徳川思想小史 (中公新書 (312))」P68
大石良雄以下の浪士たちをどのように処分するかは、幕府当局にとっては重大な問題であった。というのは徳川の体制は、一方においては、武士たちの情誼的関係を基礎として成り立つ封建的支配組織であるとともに、他方では、それは全国的規模において効力をもつ法によって運営される公権力として中央集権的性格をもっている(浪士たちの行為との関係でいえば、武士たちが主君や親の仇討をすることを義務づけられているのが前者の側面を示すし、殿中で人を殺傷した者は死刑になるという法は後者の側面を示している)。多くの助命論者は期せずして前者を代表する立場であったし、厳刑論者はもちろん中央政府としての幕府権力の強化を支持する人々であった。幕府は、その政治権力としての構造上の矛盾を創業以来もっていたのであるが、浪士の処分問題は、この二重構造のいずれを選ぶかという決断を幕府に迫るものであった。

議論は紛糾し、どちらとも決めかねる中で解決させたのが江戸時代を代表する思想家で、当時老中だった柳沢吉保のブレーンとして政治上の問題に意見する立場にあった荻生徂徠(一六六六年~一七二八年)でした。
徂徠の意見を簡単にまとめると、彼ら四十七名の浪士が主君の為に仇討ちを行ったのは義である。これは武士としてあるべき姿だが、義とは「」の論だ。そもそもこの原因は浅野が江戸城内で刃傷沙汰に及んだ罪に対して処罰されたことであり、それについて幕府の許可なく復讐を行ったことは許すことは出来ない。ただし、武士の礼を持って切腹させることで、吉良の一族である上杉家も、浪士たちも面目を潰さずにすみ、「」の論といえる。「私」の論で「公」の論を害せば、以後法秩序を保つことは出来ない。ということになります。
封建的体制と中央集権的体制という相矛盾する二重構造に「私」としての武士規範、「公」としての法秩序という二つの概念を持ち込み、さらに「武士を、「私」を持ちつつも「仁」という公共的な徳のために責任を果たす存在」(山際直司著「公共哲学とは何か (ちくま新書)」P83)という入れ子構造とすることで幕藩体制に一つの支配イデオロギーを確立させました。徂徠は十七世紀末の時点で近代的な公私二元論に近い立場を取った先駆的な思想家として知られています。
しかし、このとき徂徠も含めて誰一人想像していなかっただろうが、この幕藩体制を基礎付け、秩序維持の正当性を与えることとなった公私二元論的思想は、ある化学変化によって「公」が幕府である必要が無くなったとき、様々な思想と混ざり合い、影響させあいつつ、巨大な革命原理の一端として幕府の秩序を崩壊させることになる・・・が、それはまだ百数十年先のお話。
参考サイト
元禄赤穂事件 – Wikipedia
山鹿素行 – Wikipedia
荻生徂徠 – Wikipedia
参考書籍
源 了圓 著「徳川思想小史 (中公新書 (312))
子安 宣邦 著「江戸思想史講義 (岩波現代文庫)

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