大名の領地とその支配機構を藩と呼ぶようになったのはいつ?

「江戸時代の大名の領地・組織・構成員の総称」は一般的に「藩」と呼ばれるが、これを公式に「藩」と呼ぶようになったのは、実は明治時代に入ってからのことである。

大名領の公称は「領分」「領地」「知行所」などであり、「藩士」は通常○○家中とか〇〇家家来、「藩主」は水戸侯など領地名+侯と呼ばれた。

「藩」と言う言葉は元々は中国周代の封建制度下で周王から領地を与えられた諸侯を指す「藩屏」「藩鎮」から取られた言葉で、幕府から領地を与えられた諸侯という意味で、元禄年間以降に一部の儒学者の間で私的に用いられているにすぎなかった。

公式に「藩」と呼ぶようになったのは慶応四年(一八六八)閏四月二十一日に明治新政府が出した政体書である。この政体書で旧幕府の直轄地のうち城代・京都所司代・奉行の支配地を「府」、それ以外を「県」、諸大名の領地を「藩」と呼び府藩県三治制が敷かれた。

このとき、「藩」という儒教色の強い言葉を公称として使ったことで、「天皇から領地を与えられた諸侯」という意味が強くあらわされた。この背景には明治維新の原動力となった勤皇思想がある。その後、藩という名称が広く普及し、江戸時代の大名領も遡って藩と呼ぶようになり、江戸時代からすでに使われていたかのような思い違いが一般的になった。

われわれが常識だと思っている歴史、特に「伝統」と呼ばれるものの多くは近代に作られていることが多い。それは日本だけのことではなく、英米をはじめとする近代国民国家の形成・発展期(1870年~1914年)に集中して起きた(このあたりはエリック・ホブズホーム「創られた伝統 (文化人類学叢書)」、フジタニ・タカシ「天皇のページェント―近代日本の歴史民族誌から (NHKブックス)」など名著が多数ある。どちらも未読だが)。その創られた伝統を一旦相対化することこそ、今現在とても大事なのだが、それは何か不思議な魔力があるかのように我々を呪縛して、相対化されることを強く拒否しているようにもおもう。

参考書籍
勝田 政治 著「廃藩置県―「明治国家」が生まれた日 (講談社選書メチエ)
島薗 進 著「国家神道と日本人 (岩波新書)

参考サイト
藩 – Wikipedia
府藩県三治制 – Wikipedia
太政官布告:第1次府県統合
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