ムバーラク政権が与えた屈辱~エジプト現代圧政史

少し、エジプトのこれまでとこれからについてまとめておこう。

承前(サーダート台頭以前については以下記事で簡単に)
イスラム原理主義思想の父サイード・クトゥブの生涯

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■サーダートの台頭

1970年、急死した前任者ナセルに代わって大統領となったサーダートは、1973年10月6日、腹心ムバーラクを空軍司令官としてイスラエルに奇襲攻撃を行い大打撃を加えると、そのままアラブ周辺諸国の対イスラエル連合軍を形成、アメリカの支援を受けたイスラエルの反抗もあったが有利な条件で停戦を行い、エジプトをアラブ世界の盟主の座に押し上げた。

この第四次中東戦争の成功で政権基盤を固めたサーダートは親ソだったナセルの方針を大転換してこれまで敵対してきたアメリカに接近、積極的な市場経済政策を採用するとともに、外交的にも対米協調路線を堅持。1977年、カーター米大統領の仲介の元、イスラエルのベギン首相と歴史的なエジプト=イスラエル和平を実現。このキャンプデービッド合意で翌78年にはノーベル平和賞を受賞する。

サーダートはこのような外交的な成功者としての顔の反面、エジプト国内に対しては老獪かつ冷酷なファラオ(独裁者)として君臨した。

■上下エジプト地域の社会と格差

エジプトは伝統的に上エジプト地域と下エジプト地域に分かれる。上エジプトは首都カイロ以南、アスワンあたりまでのナイル川流域で、下エジプトは首都カイロから大都市アレクサンドリア、地中海沿岸に至るナイル川下流域の地域である。

下エジプト地域は伝統的に政治・経済・文化の中心地帯である一方で、上エジプト地域は貧しい農村が主体でこの両地域間には圧倒的な格差が現在も存在する。90年代前半でも、上エジプトの一人あたりの国民所得は年330ドルで、下エジプトの半分に過ぎない。また、伝統的な生活様式が強い上エジプト地域の人々は下エジプト地域の人々から”サイーディー(上の人々)”と、若干差別的なニュアンスで呼ばれる。

さらに、上エジプト地域のイスラム社会内にも大きく三つの社会階層が存在する。「アシュラフ」「アラブ」「ファッラーヒーン」という三つの部族があり、「アシュラフ」は預言者ムハンマドの末裔を自称する最上層階級、「アラブ」はアラビア半島から移住した者たちを祖とする「アシュラフ」に次ぐ階級、「ファッラーヒーン」は農民を意味し、エジプトのイスラム改宗以前から住んでいた人々の末裔として最下層におかれている。

また、上エジプト地域にはイスラム教徒だけではなくキリスト教の一派であるコプト教徒が多数居住している。エジプト全体では約7%に過ぎないがそのほとんどは上エジプト地域に居住しており、上エジプトの中心都市アシュートでは50%近くがコプト教徒である。彼らは二世紀ごろにエジプト全土にキリスト教が広がった際の最大宗派であったが、七世紀以降イスラム教の拡大によって多くがイスラム教に改宗し、さらにマムルーク朝やオスマン帝国など歴代のイスラム教政権にたびたび迫害を受けたが、改宗せずに今まで残ってきた一派である。

上エジプト地域にあって現在までイスラム社会から排除、差別されながらも、西欧キリスト教社会からの支援によって富を蓄え、高い教育水準を保っている。そして、そのことが反コプト主義の台頭を招き、イスラム社会からの迫害を受けている。

このような上下エジプト間の格差、上エジプト内の階級差別、上エジプトイスラム社会からのキリスト教徒の迫害という複雑に絡み合った対立構造が存在している。

■サーダートの「開放(インフィターハ)政策」

サーダートはまず、「開放(インフィターハ)政策」を進めるにあたって富裕層を重視する。地方の伝統的地主層の支持を集めるべく、地主層の再台頭を促す政策を打ち出すとともに、貧農、小作農への抑圧を強めた。

60年代、サーダートの前大統領ナセルは社会主義政策に沿って農地解放を行い、地主たちの所有する土地を制限して貧農小作農であったファッラーヒーンに分配、さらに上エジプト地域に無料の大学をいくつも開校して、貧困層の若者にも教育機会を与え格差縮小を目指したが、その一方で伝統的なイスラム教的文化・生活様式、組織に対しては社会主義的立場から徹底した弾圧を加えた。多くの若者が大学に行く一方で、その大学で学んだ若者たちの多くが「ムスリム同胞団」などイスラム復興運動に傾倒し、そして弾圧された。

サーダートの「開放政策」はこのような上下エジプトの社会構造を背景として、いわばナセルの反動として行われた。「開放政策」は70年代のオイルショックを背景とするオイルブームに乗って一時的に成功するかに見えたが、結果としては一部の富裕層を富ませただけで、経済格差のさらなる拡大を招き、官僚の腐敗、不十分な福祉、顕在化する社会的不正義に人々の不満が蓄積していった。

■イスラーム主義過激派組織の誕生とサーダート暗殺

一方で、地方の低所得者層や貧農、インテリ層などが中心だった代表的なイスラーム主義勢力「ムスリム同胞団」を積極的に支援し、ナゼル前政権の支持勢力だった左派勢力に対抗させ、反体制的な「ムスリム同胞団」を取り込んで骨抜きにしようと画策し、この試みは成功するかに見えた。

しかし、体制寄りになる「ムスリム同胞団」に不満を覚える貧困層や低所得地域である上エジプト地区出身の若者たちを中心とした人々は60年代にナセル政権下で獄死したサイード・クトゥブの思想に傾倒していき、反体制武力闘争を行うイスラーム主義組織を次々と結成していく。のちに世界を震撼させる様々なイスラーム主義過激派テロ組織はサーダート時代のエジプトで誕生していった。

1981年10月6日。第四次中東戦争開戦記念式典が行われ、ミラージュ戦闘機のアクロバット飛行が行われている最中、一人の士官が突如サーダート大統領が立つ観閲台に向けて手りゅう弾を投擲、さらに自動小銃を乱射しながら駆け寄った。突然の暴挙に警備隊の応戦が遅れ、サーダート含めた八名が死亡、二十八名が負傷する惨事となった。犯人の男は武装グループ「ジハード団」のメンバーで上エジプト地域の貧困層出身の下士官だった。

さらにその二日後、上エジプト地域の中心都市アシュートで、もう一つの過激派グループ「イスラム集団」100名が武装蜂起し、市警察を襲撃して抵抗した警察官二十名を射殺、警察本部は完全に制圧され、全土拡大が懸念された。

ここで辣腕を振るうのが第四次中東戦争の英雄で副大統領に就任していたムバーラクで、すぐさま空挺部隊を中心とする主力軍を投入してその日のうちに武装蜂起を鎮圧。この事件に関連した容疑者1500人を逮捕し、その後も手を緩めず年内に4000人を逮捕した。

ムバーラクは大統領代行だったターレブを退け、軍の支持を受けて第四代大統領に就任すると前任者サーダート以上の専制政治を展開した。

■ムバーラク政権の誕生と圧政

ホスニー・ムバーラクは1928年5月4日、下エジプト地域ミヌフィア県(カイロ県の北部に位置する)の地主の家に生まれ、士官学校を優秀な成績で卒業すると、第三次中東戦争での敗戦による空軍の立て直しに取り組み、第四次中東戦争で空軍司令官として対イスラエル奇襲作戦を成功させた。75年、副大統領に就任。一日に十八時間も執務する勤勉さで知られていたという。

ムバーラクは大統領に就任後、1958年制定の非常事態法を元にして非常事態を宣言、この非常事態法には集会・移動・居住の自由の制限、あらゆる表現手段の検閲・押収・制限等が含まれており、これを根拠として内務省に国家治安捜査局(SSI)という秘密警察を設置すると、イスラーム主義勢力の徹底的な弾圧に乗り出した。

SSIでは正当な手続きを踏まない無期限の拘留、拷問などが常態化しており、常々アムネスティ・インターナショナルやミドル・イースト・ウォッチなどが声明を発表しているが、いまだに改善されることなく続いている。(参考:2011年1月24日付記事

藤原 和彦著「イスラム過激原理主義―なぜテロに走るのか (中公新書)」P165
拷問は通常SSIの事務所で行われる。そこでは被勾留者は外部との連絡を絶たれ、弁護士との接触も禁じられた。拷問の被害者は常に、彼らがどこにいるか、拷問者が誰なのか知られないように、目隠しをされていた。衣類の一部あるいは全部が脱がされた。拷問の方法は、電気ショックをかけたり、足で蹴ったり、固い物体で殴ったりするやり方だった。時には棒に手首を縛り、ぶら下げることもあった。家族を拷問にかけるとか脅したり、拷問されている者の叫び声を聞かせたりするといった心理的な拷問も加えた。

さらに「原理主義活動家」とされる容疑者に対する裁判を通常の裁判ではなく軍事裁判所に所管を切り替えた。軍事裁判は一審のみで、裁判官は軍人のみで構成され、軍事裁判で言い渡される死刑判決の是非は、大統領を議長とする「軍事控訴局」で検討の上、大統領の裁可によって行われる。

藤原 和彦著「イスラム過激原理主義―なぜテロに走るのか (中公新書)」P167

「エジプト人権機関(EOHR)」が九九年四月に発表したレポートによると、それ以前六年半に軍事裁判所が担当した原理主義事件は三二件に上る。被告数は一〇〇一人ですべて民間人だった。うち九四人が死刑判決を受け、六七人が処刑された(このレポート発表の時点で二七人の処刑が行われていないが、これら未執行者の大半は逃亡犯で、その死刑判決は欠席裁判で下されている)。実際、死刑の手続きは迅速で、死刑囚は判決後きわめて短期間に処刑されている。

■アラブ・アフガンズ

1979年12月27日、ソ連がイスラム教国であるアフガニスタンへと侵攻した。社会主義政党「アフガニスタン人民民主党(PDPA)」政権の維持は帝政ロシア以来の悲願である不凍港確保のため避けられない政策だった。これに怒ったのがアラブ世界の若者たちで、次々と義勇兵としてアフガニスタンへと向かった。

アメリカのレーガン大統領はこのソ連によるアフガニスタン侵攻に猛反発し、ソ連と戦うアフガニスタンのムジャヒディン・ゲリラやアラブ諸国の義勇兵に資金・武器供与や軍事教練など徹底的な支援を行った。サーダート政権とサーダート以上の親米路線で突き進むムバーラク政権もエジプトの若者たちが義勇兵としてアフガニスタンに向かうことを積極的に奨励した。

1989年。アフガニスタン戦争がソ連軍の退却で幕を閉じたとき、義勇兵として身を投じたアラブ世界の若者たちは徹底的に鍛え抜かれた戦闘のプロに成長していた。彼らは「アラブ・アフガンズ」と呼ばれ、恐れられた。この「アラブ・アフガンズ」をもっとも恐れたのがムバーラクである。イスラーム主義に傾倒する戦闘モンスターたちが、イスラーム主義を弾圧する自身に牙を向くのは必至と考えたムバーラクは一転して「アラブ・アフガンズ狩り」に乗り出す。

上記の「原理主義活動家」の軍事裁判適用などは「アラブ・アフガンズ狩り」の一環であった。そしてムバーラクはアメリカやパキスタン、アラブ諸国とともに徹底的に弾圧、国際指名手配等に乗り出し、次々逮捕、処刑されるなか、かなりの数の「アラブ・アフガンズ」が地下へ潜伏し国際的なテロリズムのネットワークを形成していった。

■ムバーラクの経済自由化政策

このような恐怖政治とともに、ムバーラクが重視しているのがサーダート路線を継承する経済自由化政策である。

80年代半ばになるとオイルブームは完全に終わり経済停滞は明白となり、オイルブームを背景として湾岸諸国に出稼ぎに出ていた上エジプトの「ファッラーヒーン」を中心とする”サイーディー”たちは希望を見失い始めていた。そこに90年~91年の湾岸戦争が彼らを襲った。ナセルの農地解放で農地を与えられたかと思ったらサーダートの開放政策で農地を制限され、オイルブームに乗ってなんとか出稼ぎで財を成そうと頑張っていたら、湾岸戦争が襲いかかってきたのである。

命からがら帰国した彼らを待っていたのはムバーラクによるさらなる追い打ちだった。

1992年、(地主出身の)ムバーラクはサーダートの開放政策路線をさらに進め、ナセルの農地解放政策の全面撤廃を内容とした「新土地法」を制定。「小作農を土地から放り出すための法律」と陰口を叩かれるその法律で徹底的に貧農層を追い詰め、富裕地主層を優遇した。

一度は弾圧され沈静化しつつあったイスラム主義組織による反政府武装闘争は、地下へ潜伏した「アラブ・アフガンズ」と上エジプト地域の貧困層を中心に、1992年以降過激さを増し、次第に狂気に駆られていくことになる。

■ムバーラク暗殺未遂

1995年6月26日、エチオピアの首都アディスアベバで国際会議に出席するムバーラクの大統領専用車をカラシニコフAK47自動小銃等で武装したテロ組織「イスラム集団」のメンバー四人が襲撃した。大統領専用車は十二発被弾したが防弾装備のため無事で、すぐに銃撃戦となり銃撃犯二名が射殺され、残る襲撃犯も7月1日、アジトに潜んでいるところをエチオピア警察が発見し射殺した。

この暗殺失敗によってムバーラクはさらに徹底的なイスラーム主義者の弾圧に乗り出した。イスラーム主義過激派を支援するスーダン政府に対する経済制裁を国連に申請するとともに、ハッサン・アル・アルフィ内相指揮の元で容赦ない強圧策を取り、イスラム集団などの組織のエジプト国内での指揮命令系統は寸断され、首脳陣はほぼ逮捕か海外逃亡した。

96年4月~8月の四か月間の間でエジプト国内でのテロは0件だったという。だが、96年8月~97年10月で再び11件と増加、そして一件一件の犠牲者数が増加傾向を見せ、テロの残虐化が指摘された。そのような中で悲劇ルクソール事件が起きた。

■ルクソール事件

1997年11月17日午前8時45分ごろ。上エジプト地域ルクソールのハトシェプスト女王葬祭殿の前庭には200人前後の観光客が訪れていた。葬祭殿第二テラスには日本人11人を含む約80人の観光客がおり、「遺跡警察」の警官3名が警護に当たっていた。そこに突如、赤いバンダナを被った六人の男が現れ自動小銃を乱射、瞬く間に葬祭殿は殺戮の場と化した。

事件の知らせを受けた警官隊100名が到着したのは発生から30分以上後で、被害は大きく拡大してしまっていた。襲撃犯たちは近くの山に逃げ込んでいたが、包囲する警官隊と銃撃戦となり午前10時ごろ、全員射殺された。

事件の悲惨さはすぐに明らかになった。死者は外国人観光客58名、エジプト人警察官4名。日本人犠牲者10名のうち7名が新婚旅行中であった。そして、残虐極まったのが犠牲者の死体の多くが損壊されていたことだった。多くが喉を切り裂かれ、さらにある男性の遺体は胸が切り裂かれて心臓が飛び出し、また陰部が抉り取られた女性の遺体もあったという。

イスラム法では身体の損壊はタムシールとよばれ固くタブーとされている。そのタブーを破り、しかも何ら罪の無い外国人観光客に対する無差別テロに及んだことが、同じイスラーム主義過激派の他勢力からも強い非難の対象となった。このルクソール事件を契機として過激派組織「イスラム集団」は武装闘争を停止することになるが、このルクソール事件が起きた背景として、ムバーラク政権の苛烈な弾圧と失政が指摘されている。

まず徹底的な弾圧によってイスラム集団の海外指導部とエジプト国内の組織とが完全に分裂し、全く指揮命令系統が破壊されていた。そのようなアンコントローラブルな状態下で、残虐さを増すテロが増加していた。一方、治安担当のアルフィ内相は野党からのスキャンダル攻撃への対応でほぼ手一杯になっており、隙が出来ていた。そして、そのアルフィ内相が政局上苦境に立たされていることをムバーラクは知りながら、野党対策をすべてアルフィに押し付けていた。事件後、ムバーラクはアルフィを追い込んだのが自分でありながら、事件発生の責任をすべてアルフィに被せて即座に更迭している。

しかし、何より重大だったのは「屈辱」だった。

当初実行犯グループはその一か月前に同じハトシェプスト女王葬祭殿前で行われた歌劇「アイーダ」の上演を狙っていたと言われている。襲撃の準備が整わず延期となったようだった。これはエジプト政府が主催となり、観光客誘致を目的とした一大イベントでムバーラク大統領をはじめ、ハリウッドスターほか多くの著名人を招いて開催されたものだった。六日間に渡る公演の収入は350万ドル。支出は392万ドルと発表されていた。

エジプトのジャーナリスト、ハサネイン・ヘイカルはこう断罪する。

藤原 和彦著「イスラム過激原理主義―なぜテロに走るのか (中公新書)」P34
「観光収入を急増させたいという(エジプト政府の)願望は、そのこと自体完全に正しい。しかし、その願望は時として、まったく必要のない、こけおどしの催しに繋がることがある。その好例がルクソール事件のちょうど一ヶ月前に催されたガラ・コンサートの夕べだった。ふんだんに金をかけて製作されたベルディのオペラ『アイーダ』がハトシェプスト女王葬祭殿を背景に上演された。周囲の(貧しい)現実との遊離ははなはだしかった。上演の赤字も巨額に上った――。(オペラといった)世界的な文化を尊重することはやぶさかではない。しかし、地域住民のほとんどが惨めな貧しい暮らしを送っているなかで、こうした見世物を開催したことはまさに挑発だった。それも避けることのできた挑発だった。」

外務省のエジプト概況によると、2000年代に入ってエジプトの実質GDP成長率は2007年で年率7.1%と高い水準を維持、2008年以降の世界不況の影響で4.5%に低下したものの、まだ成長を続けている。だが、その成長の恩恵を受けているのは富裕層だ。法人税や所得税減税などが行われてさらに富裕層が富む一方で経済格差は拡大の一途を辿り、「貧困率は、2001/02年の18.4%から19.6%に上昇。日収 2 米ドル以下の貧困層が国民の4割を占める」という。

■誇りの不平等とエジプト民主化

エジプト政権はナセル、サーダート、ムバーラクとおよそ50年に渡り圧政を続け、その間、国民はひたすら屈辱を受け、格差に耐え、誇りを踏みにじられてきた。

1960年代に誕生したイスラーム主義過激派(原理主義)の中心思想はジャーヒリーヤ(無明)という思想である。この世は無明=闇であり、いわば地獄である。その闇を照らすのが遥か昔にあった(と彼らが信じる)神の世界だ。その神の世界を取り戻さなければならない。そのためには死を恐れず、聖戦(ジハード)を戦い抜くのだ・・・何が、多様性と寛容さを殊更大事にするはずのイスラム教徒である彼らをそこまで追い込んだのか、エジプト半世紀の歴史が物語っている。

彼らの屈辱、踏みにじられた誇りの不平等がイスラーム主義(原理主義)という狂気を芽生えさせ、その狂気がエジプトの国境を越えてアラブ世界を席巻していった。

おそらくまだ、軍、秘密警察、富裕層のトロイカに支えられたムバーラク政権は倒れないだろう。反政府活動が実質制限されているエジプトでは非合法組織とされているイスラーム主義穏健派「ムスリム同胞団」は合法的な政権奪取を目指した活動を行い続けており、エジプト議会でも実質的な最大野党として機能しつつある。

だが、イスラーム主義とムバーラクらの民族主義という対立軸では歴史は繰り返すことになるだろう。草の根の第三勢力が台頭して初めて、アメリカの支持を失いつつあるムバーラク政権(またはその後継政権)が倒れることになるのではないか。暴動にも参加したエルバラダイが次期大統領選出馬を取りざたされているが、支持基盤を作れるかどうかが課題のようだ。

エジプト民主化は中東地域だけでなく世界的な二十世紀の負の遺産を総決算する課題であり、特にこれまで深くコミットしてきた欧米とロシアはそれに取り組む責務がある。彼らの心に深く刻み込まれた屈辱という傷をいかにして取り除くか、それがもっとも困難な、しかし悲劇を繰り返させない唯一の方法だと思う。

参考サイト
・エジプト | ニュース | AMNESTY INTERNATIONAL JAPAN
第35回 中東協力現地会議資料・各国概況(PDF/10ページ)「出所:外務省」
JIIA -日本国際問題研究所-ムスリム同胞団(エジプト)
・概況 – エジプト – アフリカ – ジェトロ
第四次中東戦争 – Wikipedia

参考書籍

イスラム過激原理主義―なぜテロに走るのか (中公新書)
藤原 和彦 中央公論新社 売り上げランキング: 221001
テロと救済の原理主義 (新潮選書)
小川 忠 新潮社 売り上げランキング: 428697
民族とネイション―ナショナリズムという難問 (岩波新書)
塩川 伸明 岩波書店 売り上げランキング: 17251
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