暗黒企業の原初形態~明治の女工の地獄について

と、かの有名なエミール・デュルケームの名著タイトルをもじりつつ、前回に引き続いて紀田順一郎著「東京の下層社会 (ちくま学芸文庫)」および武田晴人著「仕事と日本人 (ちくま新書)」等より明治~昭和初期の女工たちが味わった地獄について。

当時、一部の選ばれた人々を除く大多数の女性たちにとって、明治政府治世下の日本で生きるというのは様々な困難を味あわされるものであったが、特に女工となるというのは文字通り死の隣り合わせの生活に身を置くことだった。

明治初期の農村では江戸中期に起きた勤勉革命と呼ばれる家族単位での労働力集約的な農家経営の浸透で、毎日家族ぐるみでかなり長時間に渡る労働が常であった。そのため、独身の娘は貴重な労働力であり、なかなか女工として都会に遣るなどと手放すことが少なかった。

そこで、登場するのが募集人、紹介人などと呼ばれる人買いで彼らは嘘八百、甘い言葉を並べ立てて家族や都会に憧れる娘を言葉巧みに誘い出し、女工として送り込んでいった。1880年代になると、松方デフレの影響で小作農の生活が困窮し、娘たちは口減らしとして積極的に村から出され、女工として働き、田舎の家族に送金することを余儀なくされる。

ただし、このような人買いたちは時に女性たちを暴行し、女工としてではなく、遊郭に売り飛ばしたり、親や本人の承諾なく力ずくで誘拐し、工場から紹介料を騙し取った上で逃亡するなどということも少なからずあったという。

各工場とも一日二十二時間稼働の昼夜交代制で一日十一時間ないしは十一時間半労働で毎日一時間程度は残業し、繁忙期には一日十八時間労働はざらであったという。また一週間ないしは十日ごとに昼夜交代が行われたが、十五日間、二十日間連続となることもあった。休憩は一日三回15分ずつ程度で、食事時も機械から離れず取るのが常であった。

賃金(日給)は男工の平均三十銭に対し女工は平均二十銭、月六円(現在の価格で約二万円)程度で、当時の日雇い労働者の日給が四十銭程度と、低賃金労働であり、さらにそこから様々な名目で百分の三程度が引かれ、これは契約期間の中途で辞める場合には没収されるなど足止め策として使われ、また女工になるときに前借金が払われているのが常であり、辞めても借金だけが残る仕組みになっていた。

概ね各工場とも環境は最悪で、密閉された空間で換気もされず粉塵などが舞い、様々な病気の原因となっており、結核やトラコーマ、呼吸器病、生殖器病、眼病など様々な病を彼女たちが襲い、しかも工場側は女工が苦痛や病気を訴えても休息を与えたり医者に見せようとしないことが多かったため、病に伏せる者、失明等障害を負う者、あるいは死者も少なくなかった。

大正八年の「読売新聞」(当時「読売新聞」は女工の労働問題に精力的に取り組んでいた)調査によると、「年毎に田園から集まって来る工女の数は約二十万、うち十二万は大抵都会の人となり、八万は帰国するが、その帰国者中の約一割五分、一万二、三千人は栄養不良、呼吸器病患者となり、甚だしいのは重体患者であるに拘らず、送り返され帰国して直ちに倒れてしまう者もある」という。
様々な女工虐待の例が紹介されているが、特に悲惨なのは明治三十三年から三十五年の北足立郡春岡村大字丸ヶ崎(埼玉県大宮市丸ヶ崎)のコールテン工場で起きた事件である。家族経営のその工場は経営者の金子初五郎と実母金子マン、男性の工場長らの下で二十四名の女工を使っていたが、日夜虐待が行われていた。

東京の下層社会 (ちくま学芸文庫)」P237-238
鬱蒼とした杉林の中にある木造の工場には日光が入ることもなく、食堂や浴室もないという原始的なもので、その入口には昼夜の別なく鉄の閂がかけられ、周囲には厳重な柵が設けられ、経営者の居宅から屋外に通じる出口にさえ二個の錠前をほどこし、家人交代で見張りをするという、監獄同様の工場であった。
コールテンはほかの織物にくらべると価格が安いので、量で稼ぐほかはなく、初五郎の工場では女工一人について一日一反(約九・五メートル)を織るよう要求していた。これは年少者や未熟練工には達成不可能なノルマであって、女工たちはバタバタ倒れる。倒れないまでも半病人となり、疲労のあまり機唄をうたう声さえ出なくなるほどであった。ところがこの経営主はそうした彼女らを哀れむどころか、かえって居眠りする者を棍棒で打ち据えたり、病気で動けない者には「食事は大毒だ」としていっさい食物を支給せず、無理矢理仕事につかせたりしたのである。ノルマを達成できない者には「不浄責め」と称して、大便の入っている大溜めの中に両足を突っ込まされる。このような過酷な仕打ちのため眼が見えなくなり、ついに失明に至った者さえある。
当然ながら逃亡者が続出したが、右も左もわからない彼女らはたちまち路頭に迷い、手もなく連れ戻されてリンチを加えられるのが常だった。それも厳冬なのに袷一枚にされたり、髪を切られたりするのは序の口で、他の者の前で全裸にされ、卑猥きわまりない性的拷問を加えられる者さえ出る始末。

他にも拷問の末にある女工が死に、その死体を砂糖樽につめて埋めたこともあったという。幸運にも十六歳の少女が脱出に成功したことで、事件が明るみに出て、工場へ判事らが立ち入り女工たちが保護された。その際二十四名の女工の半数がトラホーム(トラコーマ:伝染性の眼病)に感染し、二名が失明し、物置小屋に病で動けない女工が一名臥せっていた。

常軌を逸した経営者一家の行動はともかく、その工場の状態は当時一般的だった工場制手工業で、日清戦争後の好景気で急成長を遂げ、その急成長の中で理性を失っていったものと推察されている。その経営者一家が狂気を帯びるその社会的背景は、実は当時の工場に共通するものであった。

東京の下層社会 (ちくま学芸文庫)」P253-254
彼らはその当時の、本質的に人権感覚を欠いた前近代的な労使関係の上に安住して、ひたすら生産性の向上を図ろうとし、必然的に多くの犠牲者を出した。しかも繊維工場は当時ほとんど唯一の国際的競争力を備えた産業分野であったため、その急成長は国益のために好ましいこととして、低賃金や過酷な労働といった矛盾が極点に達するまで、政府は見て見ぬふりをしようとした。
明治の後半といえば経営者の大半は旧幕時代の生まれで、家父長専制主義から一歩も出ることなく、若い働き手もまた身分意識に搦め取られていた。とくにこのような家内工業の労働者にとって、経営者は「旦那」や「阿母さん」という擬制の家父長であって、反抗など思いもよらないことであった。第一、当時の出稼ぎ労働者のあり方として年季奉公という形が通例であり、前借金という桎梏さえ加わっていたのである。ここから多くの経営者が、労働者の年季が明けるまでは相手の全存在を金で買ったのであり、煮ても焼いても自由であるという意識を抱くようになっていたのは明白であろう。労働者のほとんどは欺されて生地獄へ落ちるが、年季の証文は取られ、前借金があるとわかれば、そのまま帰ることはできない。彼女たちのほとんどが、人口過剰の農村から口減らしのために出てきたという背景も大きく作用している。やがてつらい徹夜業にも習慣的に慣れてくると、このまま郷里に帰っても金にならないのだからという意識が生じ、少しでも多く稼ごうとしはじめる。経営者はこのような心理を逆手に取って、飴とムチを使いわけながらこき使う。反抗の気配があれば、体罰や拷問という恐怖を与えてその芽を摘み取ってしまう。

また巧みなのは、女工たちからピンハネして貯められたお金の一部を「あなたの娘は身体も丈夫である。これだけの送金も出来る、しっかり勉励して稼ぐ、どうか褒めてやって呉れ」という手紙を添えて実家に送金し、何も知らない父兄はしっかり稼げという趣旨の返事を娘に送ることになり、言わば女工の家族を引き留めの道具に使うこともあったという。

さらに多くの場合、警察などもグルであったり、社会情勢を鑑みて工場に協力的であったりするので、せっかく逃亡しても工場に帰るように説かれたりすることもあったという。また、このような雇い主への反抗運動を支援する社会主義運動は治安維持の名目で強く当局から弾圧されており、なかなか実を結ぶことが少なかった。

まさに女工に取っては逃げ場のない社会が巧妙に作り上げられていた。

労働者保護の工場法が制定されるのは明治四十四年(1911)だが施行はその五年後で、十五人未満の工場は適用除外であり、その他業種毎に適用外が多く定められた、実効性の薄い法律で、年少者と女性の深夜業全面禁止の改正が行われるのは昭和四年(1929)、強制労働や虐待、強制貯金、母性保護など旧弊を廃した内容は、敗戦後の労働基準法の制定を待たなければならなかった。

なお、上記の残虐極まる虐待にかかわった金子初五郎らは、重禁固二年、罰金三十円で済んだという。

以下は別の女工虐待事件の判決の軽さを受けて当時の新聞(二六新報)が慨嘆した一文だが、多くの人々が同様に心の底から嘆いただろう。

「天上の星は墜つる期あるも、工女を虐待する暴虐の雇主は尽くることなきか」

現在のブラック企業と呼ばれる抑圧を伴う組織もまた、社会構造的要因が生み出しており、当時も今も外形的には違えども本質的にはかなり類似の、社会全体に張り巡らされた人々を追い詰め理性を失わせる何か、であり、すべての企業が常にその抑圧へと転じるかもしれない塀の上をよろよろと進まざるを得ない。

2011/2/8 12:20追記

日本労働史ご専門の金子良事先生から、twitterで「間違ってるわけじゃないんですが、事の半面なんです」というご指摘受けています。元のテキストもそうですが、若干階級史観的になっていると思われます。これとは反対の側面から当時の社会状況、労働問題について照らすことが必要じゃないかと思います、ということを追記。

2011/2/8 21:40再追記

金子良事先生に言及いただきましたので、以下も合わせて読んでいただくこと推奨。
社会政策・労働問題研究の歴史分析、メモ帳 もうひとつの女工の歴史

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