明治維新を牽引した薩摩藩の組織マネジメント5つの特徴と弱点

※藩という呼び方は公式には明治維新後のことですが、便宜上藩を使っています。

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■薩摩藩の組織マネジメントの5つの特徴

江戸時代末期、商品作物や手工業品の生産力の画期的向上による市場経済の成長と流通網の整備によって江戸期の経済社会は成熟の途にあったが、反面、幕府の財政政策の行き詰まりと、権威の失墜による中央集権的統制力の低下によって、有力諸藩は生き残りをかけて独自の富国強兵政策を模索するようになっていた。そのような中で明治維新を牽引することになる薩摩藩は高度に一体化した組織作りに成功する。

1)早期に統一された組織目標

藩主島津斉彬によって行われた反射炉・溶鉱炉、洋式帆船の製造やガラス工芸などの集成館事業と呼ばれる一連の殖産興業政策は、一八五八年、彼の急死によって頓挫し、保守派の復権がなされたが、斉彬の死後に実権を握った島津久光は保守派を退け、斉彬の死後保守派によって幽閉されていた西郷隆盛をリーダーと仰ぐ若手改革派集団「誠忠組」(精忠組)を抜擢して、再び斉彬路線への回帰を目指した。一八六二年、薩摩藩勤王派の主要メンバーを殺害・失脚させた寺田屋事件以降、薩摩藩は富国強兵と公議輿論を二大目標として一枚岩の組織作りを行っていく。同時期、薩摩を除く有力諸藩でことごとく富国強兵路線が頓挫(土佐での吉田東洋暗殺、越前での横井小楠失脚、長州での長井雅樂自害など)している中で、いち早く藩論を富国強兵路線で統一したことは後々まで薩摩の優越をもたらした。

2)高度な分業体制

「王政復古」「富国強兵」「公議輿論」という目標が確立すると、それを実行するための組織が整備される。最高権力者島津久光、その子で藩主の島津忠義の下、家老の小松帯刀を中心に、主に江戸にいて対外政策を実行する西郷隆盛、薩摩で藩主を補佐し内政を担当する大久保利通、富国の柱となる貿易・商業政策の責任者に後の政商五代友厚、主に対幕府外交を担当する吉井友実、薩摩軍の近代化を担当する伊地知正治ら20~30代の若手が次々と抜擢され分業体制を確立していった。

3)大幅な権限移譲と自由裁量

分業体制が確立すると、それぞれに大幅な権限移譲と自由裁量が与えられた。彼らは薩摩、江戸、京都、大阪など各地を自由に移動出来、時に薩摩全体に関る重大案件を個々の裁量で決断することができた。例えば吉井は一八六三年当時、徒目付という役職で江戸にあって軍艦奉行勝海舟と頻繁にやり取りを行っているが、徒目付は通常であれば幕府の軍艦奉行との対応を任されるほどの高い地位ではない。さらに彼は勝とのやり取りの中で非常に重要な案件を独断で処理している。

当時、薩摩、越前、土佐などで攘夷にこだわる長州と朝廷を抑えて有力大名による合議制に基づく幕府の新体制を模索していた。そこで重要になるのが将軍家茂の上洛であったが、その上洛は幕府内の保守派の抵抗にあって遅々として進まない状況であった。その保守派による抵抗やボイコットに業を煮やした勝が吉井に幕府の内情について愚痴を漏らした手紙を送り、吉井はその手紙に対して、幕府の統制取れなさを「日本の柄を握らされ候御方々、御国内危急存亡の秋に当って、わずかの議論を圧倒なされ候御力これなく、決然たる御処置の発せざるは、嘆息余りある御事に存じ奉り候」(意訳:日本を動かしている方々(柄=刀剣の握る部分)が、国の危急存亡の時に、ささいな議論をまとめる力も無く、責任もって命令を下し実行することもできないのは、呆れてため息しか出ないことですね)と、半ば呆れ気味に勝に同情しつつ、薩摩藩を代表する者として勝海舟自身にも積極的な行動を取るよう強く迫る手紙を即日返信している。

4)徹底的な情報共有

大幅な自由裁量を認める一方で、驚くべき量の情報共有がなされていた。一八五九年から一八六八年までの間で西郷から大久保宛に送られた手紙は現在残っているだけでも一一四通ある。当時、江戸から鹿児島へと手紙を送ると届くのに最短でも約二週間はかかっており、往復書簡だと単純計算で二週間に一通として一年に二十四通が限界だ。同様に大久保宛の手紙の数は吉井二九通、小松九七通、伊地知三二通であり、それだけではなく様々な部下、同僚からの手紙もあって、膨大な量の手紙が大久保に送られていた。これは対大久保だけではなく、各々の関係でも同様であり、薩摩藩内で手紙を使った圧倒的な量と質での情報共有が行われていた。

5)多様な意見と行動の一致

組織目標が明確であった一方で、意見の多様性もまた認められ、意見対立は致命傷にならなかった。大久保利通は将軍徳川慶喜に将軍職だけでなく、領地全てを朝廷に返上する「辞官納地」を基本的な政策方針としていたが、軍奉行伊地知正治は「辞官納地」ではなく、徳川慶喜を議長とする封建議会構想を抱いていた。最終的に伊地知の反対を押し切って「辞官納地」方針で倒幕が進められるが、その実行のための鳥羽伏見の戦いで薩摩兵を率いていたのは伊地知であった。意見が対立しようと、その行動においてなんら影響を与えなかった。また、武力倒幕に向けて長州と薩長同盟を結ぶ一方で、大政奉還に向けて土佐の後藤象二郎ら大政奉還派と薩土盟約を結び、さらに裏盟約として土佐の武力倒幕派である板垣退助と結ぶなど相対する複数の政策を同時に走らせる柔軟性を持っていた。

坂野 潤治・大野 健一 共著「明治維新 1858-1881 (講談社現代新書)」P146
藩内の意見の多様性は、幕府や他藩の指導者との交流網を多様化する。行動の一致は幕末第二の大藩たる薩摩藩の力を、決定的な場面において総結集させる。群雄が割拠する幕末政局を念頭に置けば、この多様性と凝縮性が、薩摩藩に他の追随を許さぬ力を与えたことは想像に難くない。

このような高度な分業体制と濃密な同志的結合、そして多様性が薩摩藩を明治維新の主役として縦横無尽に動かした原動力であった。

■薩摩の弱点と長州の熟議

しかし、その薩摩藩のしなやかな強さこそが実は最大の弱点であったことを喝破した人物がいる。木戸孝允である。

一八七七年二月。明治最大の内戦西南戦争において、病気療養中の木戸孝允が伊藤博文に宛てた手紙の中に、西南戦争の本質を言い表したあまりにも有名な一文がある

兵隊の驕慢はあたかも病後の薬毒の如し。」

数多くの血が流れた明治維新という武力革命を成し遂げた原動力=薬となったのは、まさに薩摩兵を中心とした軍事力であったが、それゆえに革命が終わると薬の副作用のように軍が増長し統制がとれなくなることになる、と。おそらく最近の世界情勢を鑑みれば思わず膝を打つ鋭い指摘だが、これは以下のような文脈で書かれたものだ。

「昨夜半鹿児島の電報御示、披見仕候。所詮大挙の勢力はこれ無しと相察せられ申候。実に連年小グヅグヅは却て国家平安の為によろしからず、何卒此度は判然御所分これ有りたく希望いたし申候。兵隊の驕慢はあたかも病後の薬毒の如し。長州の如きは久しく混雑候ゆえ其経験御坐候得共、薩は一新巳来の新居に付兎角其味相分り兼候処、此境に至り候えば彼内輪にても自ら明白に了解候事に付、前途の為めには所致の宜敷を得候巳上は好都合と相考え申候。」

要するに、鹿児島の叛乱の知らせは昨夜電報で知った。所詮大勢に影響は無いだろう。毎年小競り合いや叛乱などが続くのは国家平安のためによくないので、今回はきっちりかたをつけることを希望します。兵隊の思い上がりは病気の後の薬の副作用のようなものだ。長州はそういう対立の経験があるが、薩摩は初めてのことだろうからその味は分からなかったところに、このような状況になれば内輪で自ずと了解することであるので、今後のことを考えれば好都合じゃないか。と、かなり意訳したり端折っているが大意としてそのようなことだ。

つまり、薩摩藩では同志的結合の強さから意見対立があっても柔軟に対応してきたという上記のような背景があるが、長州藩は違う。長州は一八六一年にそれまで富国強兵政策を主導していた長井雅樂を失脚させて自害に追い込み、桂小五郎(木戸孝允)ら吉田松陰門下の尊王攘夷派が主導権を握り、その後一八六五年に指導部はそのままで再び長井雅樂の富国強兵路線へと大転換させている。その間反対する俗論派などを討伐しつつも、ほぼ指導部をそのままで藩論だけ変えるという離れ業をやってのけた。

これは同時期の土佐藩と比較するとわかりやすいのだが、土佐藩では徹底した富国強兵路線で国力充実を図っていた吉田東洋が一八六二年に暗殺されると、その富国強兵派を一掃して尊王攘夷派の武市瑞山が主導権を握り、さらに一八六五年に武市が山内容堂によって自害させられ後藤象二郎が吉田東洋路線へと回帰、さらに一八六八年、板垣退助が裏盟約に沿って半ばクーデターのような形で挙兵して実権を握り薩長とともに武力倒幕に走る、というように、藩論の転換はそのまま指導部の失脚や無力化とセットで行われた。薩長に劣らぬ優秀な人材を多く抱えながらこの指導部が二転三転する継続性の無さと、富国強兵政策の中断が土佐が維新後に勢力を保持できなかった最大の理由であるが、長州は上記のように指導部そのままで藩論だけ変えることで、藩政に継続性を持たせた。

藩論を変えるために徹底した議論を行い、最終的にどうしても対立が解消できなければ粛清もいとわない。今流行の言葉で言うなら長州には「熟議」という特徴があったと言える。この徹底した議論と対立の経験こそが国づくりに際して最重要であるということを指摘したのが上記の手紙だ。

倒幕という大目標があるときは薩摩の柔軟な一体感が倒幕勢力のコアとして機能するが、明治国家という暗中模索の創業期には以心伝心の関係ではなく長州のような徹底した議論=熟議こそが重要であり、その指摘の通り、西南戦争が終わり、西郷・大久保・木戸という三人の指導者亡き後、国家構想という広い視野でリーダーシップを発揮するのは伊藤博文、井上馨、山縣有朋、そして明治末から大正期に権力を握る桂太郎など長州出身者だった。一方で薩摩出身者は例えば財政の松方正義、海軍の山本権兵衛、東郷平八郎、陸軍の大山巌など、薩摩藩の特徴である高度な分業体制によって育った専門家たちがその能力を発揮することになる。

参考書籍
・坂野 潤治、大野 健一 共著「明治維新 1858-1881 (講談社現代新書)
・坂野 潤治著「未完の明治維新 (ちくま新書)
・坂野 潤治著「近代日本の国家構想―1871‐1936 (岩波現代文庫)
・吉川弘文館 編「概論日本歴史

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