かつて、虹が立ったところには市が開かれていたという

記録によると、古来より「虹が立ったところに市を開く」という慣習があったという。

市の起源には諸説あるが、互いに他者である共同体と共同体とのあいだにある両者へと開かれた交通の場所はチマタ(衝、術、巷、岐など)と呼ばれ、そのチマタに市が開かれたという。チマタは道(チ)が股(マタ)のように分岐する場所という意味である。

チマタと呼ばれる、共同体と共同体の境界に茫洋と広がる無主無縁の地に、年に一回とか月に一回とか定期的、あるいは不定期的に商人、農民、漁民、あるいは漂泊の芸能者や山姥、異形の者たちなど様々な人々が集まり、それこそ食料や工芸品などから盗品まで様々なものが出品され交易が行われた、という。その市では取引だけではなく、歌垣と呼ばれる男女の性的なコミュニケーションがあり、また市に立つ聖なる樹の下では罪人の刑罰が実行されてもいた。

赤坂憲雄著「境界の発生 (講談社学術文庫)」P77
“古代の市では、犯罪者の所有する資材を市にさらし、その犯罪穢を浄めてから没収することが行われたが、これは市空間にもたらされた物は、いったん神の所有物になり、それにより物が浄められるという考えにもとづくものであった”

古代から中世にかけて、市はこのような共同体での日常から切り離された非日常的な空間であり、神と繋がる神聖な空間であり、また共同体相互の循環を促す力の結節点であったと考えられている。

赤坂憲雄著「境界の発生 (講談社学術文庫)」P76
モノの循環する力の結節点としての市。モノの流通に附随して、さまざまなる<知>――技術・芸能・情報なども、ネット・ワークをめぐって循環する。わたしたちは市という場を、多種多様な<交通>の結ばれる媒介的空間、また、外部世界とそこに棲む人々と交わることのできる、外部へむけて開かれた窓のような両義的空間ととらえかえすことができる。

CiNii – 虹と市 : 境界と交換のシンボリズム」では市の特徴について以下の三点を挙げて整理している。

(1)市とは市場交換の場である
(2)市場交換はモノのやりとりにおける負い目を即座に清算し、関係をその場で断ち切ってしまう交換形態である。
(3)それゆえに、贈与互酬性に基礎を置く共同体にとっては脅威であり、市場交換の行われる場である市は外部との境界領域へと排除されていた。

なぜ、虹が立った場所で市が開かれるという慣習があったのか。柳田國男、折口信夫、西郷信綱、宮本常一、宮田登、網野善彦、大林太良・・・など錚々たる民俗学、歴史学、文化人類学の権威たちが様々な説を唱え、しかし確実な説に至ってはいないが、昔の人々にとって虹がどのようにとらえられていたかについて、あきらかになったこととして以下のようなことがある。

・虹と蛇とは語源を同じくする
・虹は水から生まれると考えられた
・虹は龍蛇と考えられた
・虹は橋であると考えられた
・虹は道であると考えられた
・虹は海や川など地上の水を吸い天へと運ぶものだと考えられていた
・虹の下には財宝がある(虹は富をもたらす)と考えられた
・虹は不気味なもの、不思議なものであると考えられた(美しいという感覚に転じるのは近代以降である)
・虹を指さすことはタブーとされた
・虹が何色であるかは地域によって違う。古代~中世のアジア地域と日本では陰陽五行説と重ねあわされて五色と考えられた。キリスト教世界でも父と子と聖霊の三位一体説を元に三色と考えられ、七色になるのはアイザック・ニュートンによる分類からである。
・虹は男女の性的関係を想像させた
・虹は雨から晴への移行を示す境界であった
・虹は生から死への移行を示す予兆と考えられた

これらのように虹は非常に多義的であること、境界あるいは何かから何かへの移行または接続を示す語であること、そして全般的に不気味なものという観念であることが特徴である。

遡るとプリミティヴな共同体は、まず野生の大地を耕し、森を切り開くことで始まった。すなわち、不確かな混沌の中で、人が確かなものとして把握できる秩序世界の構築であった。秩序立てられた世界は次第に拡大し、不確かなもの、曖昧なものを排除していく。虹は、そのような秩序世界にあらわれた不確かな混沌の予兆であったのだろう。
虹は秩序を脅かす。ゆえに秩序を恢復させねばならない。そこで市を開き、神の下で取引を行い、それまでの様々な負い目や秩序の乱れを清算した、と考えられる。

・・・幾日も幾日も降り続いた雨が上がり、朝日がその村を照らす。村人たちは、長雨がやんだ安堵の思いからふと空を見上げ、そして、天へと伸びる幾重にも彩られた天の橋を見つけ驚愕する。不吉な予兆はすぐに村人たちに知れ渡る。彼等だけではない。隣村、裏山に小さな集落を作っている山の民、あるいは近隣を旅していた漂泊民たちも同様だった。村のはずれに住む片足が不自由な男が、鎮守の森の入り口付近にある池のあたりで虹の根元を見たという。長老はすぐに市の準備を告げ、人々はこぞって池のあたりに広がる広場に様々な作物、工芸品、日用品、あるいは武器を持ち寄り、海に面した隣の漁村からは様々な海の幸が運ばれ、山から久しぶりに降りてきた得体の知れない山の民は早速獲物を鞣した皮製品や熊、鹿肉などを市に並べ、芸能民たちが姿を見せ、それまで人があまり立ち寄らなかった村はずれの池のあたりは雑多な人々で活気づく。長く捕えられていた盗人や罪人も市に引っ立てられると、あっという間に人だかりができる。ある者は処刑され、ある者は鞭打たれそれぞれ処罰が加えられていった。
市を通じて、人々の不安や穢れは浄められ、罪は贖われ、乱された秩序が恢復していく。そして、市が終わりを迎えるころ、市が開かれた場所には椿や槻(けやき)、桑などの聖なる樹が植えられる。その聖なる樹の下はこれから刑罰や軍議、あるいは神にささげる芸事や神前相撲の場として、代々村人たちに親しまれることになっていく・・・。

かつて人々は虹を畏れていた。不確かさや混沌を概念としてではなく、対象として捉えはじめたそのとき、風景という美は創出される。そして今、我々は虹を美しいと思う。この両者の間に横たわる大きな大きな断絶と転換。それが我々を無自覚のうちに呪縛するものの正体であろう、とおもう。

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