東京市長永田秀次郎、関東大震災後の名演説「市民諸君に告ぐ」

大正十二年(一九二三)九月一日に帝都東京を襲った関東大震災の半年後、新たな東京を作るための区画整理の認可が降り、大正十三年三月二七日、整理地区が告示された。その発表とともに、東京市長(東京府知事が現在の東京都知事にあたり、その下で東京十五区を統括する立場にあたる)永田秀次郎は「市民諸君に告ぐ」と題した演説を行った。

「市民諸君に告ぐ」

市民諸君

我々東京市民は今やいよいよ区画整理の実行にとりかからなければならぬ時となりました。

第一に我々が考えなければならぬことは、この事業は実に我々市民自身がなさなければならぬ事業であります。決して他人の仕事でもなく、また政府に打ち任せて知らぬふりをしているべき仕事ではない。それ故にこの事業ばかりは我々はこれを他人の仕事として、苦情をいったり批評をしたりしてはいられませぬ。

我々は何としても昨年九月の大震火災によって受けた苦痛を忘れることは出来ない。父母兄弟妻子を喪い、家屋財産を焼き尽し、川を渡らむとすれば橋は焼け落ち、道を歩まむとすれば道幅が狭くて身動きもならぬ混雑で、実にあらゆる困難に出遇ったのである。我々はいかなる努力をしても、再びかような苦しい目には遭いたくはない。また我々の子孫をしていかにしても、我々と同じような苦しみを受けさせたくはない。これがためには我々は少なくともこの際において道路橋梁を拡築し、防火地帯を作り、街路区画を整理せなければならぬ。

もし万一にも我々が今日目前の些細な面倒を厭って、町並や道路をこのままに打ち棄てて置くならば、我々十万の同胞はまったく犬死したこととなります。我々は何としてもこの際、禍を転じて福となし、再びこの災厄を受けない工夫をせなければならぬ、これが今回生き残った我々市民の当然の責任であります。後世子孫に対する我々の当然の義務であります。

街路その他の公設物を整理するには、買収による方法と区画整理による方法とがあります。しかしながら今回のごとく主として焼跡を処理する場合は、区画整理による方法が最も公平であり、またもっとも苦痛の少ない比較的我慢しやすい方法であります。区画整理によりまして、道路敷地となった面積は皆その所有地に按分して平等に負担し、これが全面積の一割までならば無償で提供し、一割以上であればその超過部分に対して相当の補償を受ける、そして誰一人として自分の所有地を取られてしまう人がなく、皆換地処分によって譲り合って自分の土地が残る。苦痛も平等に受け利益も平等に受ける。かような都合の好い方法ではあるが、ほとんど全部の者が皆動くのであるから、この場合において初めて実行の出来る方法であります。この機会をはずしては到底行われない相談である。それ故いかにしても是非ともこの際に断行せなければならぬのである。

顧みますると、我々は震災後既に半箇年を経過しました。土地の値段も震災直後は二分の一か三分の一に下落したと思われたものが、今日では震災前と同一になりました。こうなって来ると段々に震災当時の苦痛を忘れて来て、一日送りに安逸を望み、土地の買収価格が安いとか、バラックの移転料が少ないとか、区画整理も面倒臭いとかいう気分の出て来るのも人情の弱点で、無理もありませぬ。しかし、我々はこの際、かような因循姑息なことを考えてよろしいでしょうか。実に今日における我々東京市民の敵は我々の心中の賊である。我々はまずこの心中の賊に打ち勝たねばならぬ。

世界各国が我々のために表したる甚大なる厚誼に対しても、我々は断じてこの際喉元過ぐれば熱さを忘れる者であるという謗りを受けたくはない。

区画整理の実行は今や既定の事実であります。ただ我々はどこまでもこれを国家の命令としてやりたくはない。法律の制裁があるから止むを得ないとしてやりたくはない。まったく我々市民の自覚により我々市民の諒解によってこれを実行したい。

我々東京市民は今や全世界の檜舞台に立って復興の劇を演じておるのである。我々の一挙一動は実に我が日本国民の名誉を代表するものである。

越澤明 著「復興計画 – 幕末・明治の大火から阪神・淡路大震災まで (中公新書(1808))」P64-66より

渾身の名演説である。具体的かつ詳細な方針、常に我々と言う当事者意識、市民一人一人の苦難を思いやる優しさ、利益だけでなく不利益についても伝えて理解を求めようとする誠意、など美点を挙げようとすればきりがないが、敢えてこの「我々はどこまでもこれを国家の命令としてやりたくはない」と言う部分にこそ注目したい。当時の東京市長は内務省下の一行政官僚であって、現在の都知事の圧倒的な権限には比べぶべくもない立場である。当時の社会状況で、そのような一官僚の立場で「国家の命令としてやりたくはない」と語ることに要する覚悟の大きさを思う時、ここに凄まじい意志を感じずにはいられないのである。「市民」とは何か、について深く正しい理解があって初めて可能な一言だろう。市民一人一人の自助を促し、前へ、将来へと進む勇気を奮い立たせる、未曾有の災害時にリーダーが語るにふさわしい名文であると思う。

時の内務大臣後藤新平らによって構想され実行に移されんとした帝都復興事業であったが、様々な関係者の利害関係や抵抗によって徐々に規模も予算も縮小され、多くの計画が中止を余儀なくされていった。その中で、この区画整理事業は後藤新平、永田市長他関係者の尽力によってなんとか頓挫することなく実行に移された。もちろん、実行の過程で悲惨な目に逢わざるを得なかった市民も少なからず居たが、多くの困難の中で無事完遂され、現在の防災都市東京の礎となっていくのである。震災からの東京の都市復興が完了したのは昭和四年(一九二九)のことであった。

昭和五年(一九三〇)十月一日、再び東京市長となっていた永田秀次郎は東京市の自治記念日の式典で演説を行った。帝都復興事業の完成を祝い、市民を労い、しかしまだまだ解決すべき困難な課題が山積していることを喚起する「帝都市民諸君に告ぐ」と題されたその演説の最後はこう結ばれている。

東京市を救うものは東京市民である。東京市政の利害得失を真ともに受けるものもまた二百三十万市民である。
同書P86

永田は東京市長から鉄道大臣などを歴任し生涯現役を通した。また青嵐と号して俳人としても知られる。淡路島出身。昭和十八年(一九四三)九月十七日逝去、享年六七歳。東京が空襲に見舞われるのは翌昭和十九年からである。彼が復興に心血を注いだ東京が焦土と化すのを目にすることは無かった。

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