「はぁいそれじゃ自己紹介いってみよう」 「ウ、ウサマ…ビン・ラーディンです…」

前回の更新から随分開いてしまいましたが、今日からウサマ・ビン・ラーディンの生涯についてまとめた記事を更新していきます。人気アニメ「魔法少女まどか☆マギカ」に若干のインスパイアを受けつつ、全三回、最後はきちんと希望で終わらせるつもりです。(9/10追記。完結させました。)
・第一部「はぁいそれじゃ自己紹介いってみよう」 「あ、あの、ウ、ウサマ…ビン・ラーディンです…その、ええと…どうか、よろしく、お願いします…」
・第二部「誰かの幸せを祈った分、他の誰かを呪わずにはいられない、アラブ世界って、そういう仕組みだったんだね・・・」
・第三部「アラブの人々の祈りを、絶望で終わらせたりしない」
第一部 「はぁいそれじゃ自己紹介いってみよう」 「あ、あの、ウ、ウサマ…ビン・ラーディンです…その、ええと…どうか、よろしく、お願いします…」

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第一章 ウサマ・ビン・ラーディンの誕生

ウサマ・ビン・ラーディンは一九五七年から一九五八年ごろ、サウジアラビアの首都リヤドで、中東屈指のゼネコングループの当主ムハンマド・アワド・ビン・ラーディンの十七番目の息子として生まれた。父ムハンマド・アワドはサウジの隣国イエメンの名家の出であったが貧しく、若い頃は日給二〇セント以下のレンガ職人であったという。貧しさに耐えて港湾労働者や建設労働者を経て起業し、巨大財閥「サウジ・ビン・ラーディン・グループ」を築き上げた立志伝中の人物として知られている。

ムハンマド・アワドは一代で財を成した人物によくみられるように、家庭にあっては非常に専制的で、子供たちの教育やしつけに厳しく、厳格な家訓を作り、宗教的戒律を守らせた。そんなムハンマド・アワドが飛行機事故で亡くなったのはウサマ少年が十歳ごろだった。長兄が後を継ぎ、イスラム圏の慣習通り、財産分与ではなく後継者がすべての財産を管理し、ウサマ少年には若干の、しかし生活するには十分な額の現金を使う権利が与えられた。

当時のウサマ少年について、一九六八年ごろに彼が通っていた名門アルサーグ校の教師たちは「シャイで引っ込み思案だが上品で礼儀正しい」子供だったと語っている、という。また宗教的なことに傾倒した様子もなく、不良とはとても言い難い、真面目な生徒だったようだ。内気でおとなしく真面目な御曹司の少年、それがローティーンのウサマ・ビン・ラーディンの姿である。

第二章 生涯の師アブダラー・アッザーム

一九七四年、ビンラーディングループの将来の幹部候補として嘱望されていたウサマは経営工学を学ぶべくサウジアラビア第二の都市ジッダにある名門キング・アブドゥルアジーズ大学へ入学。そこで彼は、生涯の師となるイスラム法学の講師アブダラー・アッザームと運命の出会いを果たすことになる。

サウジアラビアはイスラム教ハンバリー法学派(通称ワッハーブ派)を国教とする宗教国家である。ワッハーブ派は一八世紀中葉にワッハーブが創始した宗教改革運動で、ムハンマド以降の教義は全て逸脱した教えと捉え、預言者ムハンマドの時代へと帰ることを説く復古主義と、スーフィズムや西洋近代主義を敵視することを特徴とした急進派であり、現代のイスラーム復古主義や戦闘的イスラーム主義の源流の一つとされる。そのワッハーブ派の教えに沿って、サウジでは宗教警察「勧善懲悪警察」が市民の不信心な行為を処罰するなど厳格で強権的な宗教国家が形成されており、当時、無神論的社会主義や世俗主義に対抗して急進的なイスラム活動家・学者を多く保護していた。アッザームもその一人だ。

アッザームは一九四一年ヨルダン川西岸ジェニン生まれ。一八歳でムスリム同胞団に加入。反イスラエル活動家として、一九六七年の第三次中東戦争で対イスラエルのゲリラ戦に参加したのちエジプトのアズハル大学でイスラム法学を学び、サイード・クトゥブの戦闘的イスラーム主義思想に傾倒、サウジアラビアに渡り、キング・アブドゥルアジーズ大学で教鞭を取る。その際の教え子がウサマ・ビン・ラーディンだったと伝わる(時期について諸説あり、大学で会っていない可能性もある)。

ウサマは大学に入ると、イスラム教の信仰に夢中になっていたという。”大学生が信仰に目覚める”というと、日本的発想では怪しい新興宗教にハマるニュアンスで捉えられがちだと思うが、当時の政教一致のイスラーム社会ではむしろ政治や社会参加に目覚めるというニュアンスで捉えたほうが適切だろう。七〇年代、アラブ世界では無神論の社会主義政権や世俗的な民族主義政権、腐敗した王政による民衆への暴力的弾圧と社会的不公平が顕在化し、それに対抗した草の根の市民運動としてイスラーム復興運動が盛り上がっていた。政治の不満の受け皿として、実力行使や武力闘争を辞さないイスラム教の急進派・改革派が機能していたといえる。

後にアフガニスタンのイスラム義勇兵たちを奮い立たせる稀代の名演説家となるアッザームの授業はウサマ青年に強い影響を与え、その出会いが彼を実業家という用意された道ではないもう一つの道へ進ませることになる。

そして、一九七九年。全世界を震撼させる事件が起こった。ソ連軍がアフガニスタンに侵攻したのである。

第三章 イスラム世界の先進国アフガニスタンの転落

アフガニスタンは当時イスラム圏で最も近代化に成功した独立国家だった。一八二六年のバーラクザイ王朝の成立以後英邁な君主を次々輩出、国土の九割が山岳地帯という天然の要害に守られ、一九世紀に二度に渡って侵攻してきた英国軍を撃退(第一次・二次イギリス=アフガン戦争)、第一次大戦後の一九一九年には疲弊した英国領インドに侵攻(第三次イギリス=アフガン戦争)して英国軍に痛撃を与えるとそのままイスラム諸国で最も早く国家としての独立を勝ち取り、近代化に着手。一九三三年に即位した開明君主ザーヒル・シャーの下で全盛期を迎えた。

ザーヒル・シャーの治世で特徴的だったのは、まず、敢えて親政を行わなかったことである。即位から一九六三年までの間王族三人を首相に任命し政務に当らせた。また外交的には中立政策を取りつつ、諸外国から広く軍隊やインフラ・経済基盤整備の資金を集めた。特に成功したのが教育の分野で一九三二年時点で一三五〇人だった国立学校の生徒数は一九六一年には二三万三八〇九人と飛躍的な伸びを示し、卒業生が軍隊・行政・経済など幅広い分野で活躍しつつあった。

一九六三年、ザーヒル・シャーは、パキスタンとの国境線をめぐる外交関係の悪化の責任を問う形で、従兄にあたるムハンマド・ダーウード首相を解任すると、翌六四年、国王以外の王族の政治関与の禁止や二院制の導入、政治結社の自由などを定めた新憲法を制定させ自ら民主化に乗り出した。一九六五年には初の総選挙が行われ、大小様々な勢力が政治に参加することになった。

歴史上の多くの例が示すように議会制度のスタートアップ期は諸勢力の利害や社会の矛盾が顕在化することで混乱が支配する。アフガニスタン議会もその例外ではなかった。非国会議員のエリートからなる内閣・行政組織と、伝統的な部族層や特権階級の代表者を中心とした議会は対立を繰り返して機能不全に陥り、民族主義やイスラム主義、社会主義勢力が登場して次第に分裂の様相を呈しはじめる。一九六九年の第二回総選挙では議会は伝統主義者や保守主義者で占められ、都市層を中心とする自由主義勢力は議席を失い、政局は不安定さを増しつつあった。

それでも、このような例は諸外国の過去の例を見ればよくある事で、焦らずじっくりと腰を据えて議会政治を育て、顕在化した様々な社会的矛盾を一つ一つ解決していけば、ある程度安定を見るはずであった。ザーヒル・シャーはまさに、上からの改革ではあったが国民一人一人の自発的な意思による民主化を成し遂げようとしていた。だが、その歩みの遅さを待ちきれない、この混乱を一刀両断する強いリーダーシップを求める人々は確実に増えつつあった。そして、それに答える野心家が登場する。

一九七三年七月。ザーヒル・シャー国王が眼病治療のためイタリアへ渡航した間隙を縫ってソ連で軍事訓練を受けた若手将校たちがカブール宮殿を占拠。彼らを指揮していたのは王族の元首相ムハンマド・ダーウードだった。ダーウードは直ちに王政を停止すると共和国への移行を宣言、自ら大統領に就任する。ダーウードは六五年に設立された社会主義政党アフガニスタン人民民主党(PDPA)とその背後にいるソ連の強い支持を受けていたのだった。おそらく彼を突き動かしていたのは権力への野心だけではなかっただろう。かつて強いアフガニスタンを目指して首相として采配を振るっていた彼は、当時の政局の混乱に強い焦燥感を覚えていたはずだ。だが、王族の政治介入の禁止によってその使命感は行き場を失っていた。使命感と無力感、そして芽生える野心に誰かがささやく。「あきらたらそれまでだ・・・きみにはその力がある・・・

それは現在まで続く悲劇の始まりだった。

アフガニスタンの民主化と近代化を掲げたダーウードだったが、彼は大統領就任後ほどなくして強権色を強めていく。まずイスラム主義者の弾圧を手始めに、議会を解散させ、反体制的な新聞や政党の活動を禁止、反対派を粛清し、憲法を改正して自身の創設した政党以外の政党活動を停止して一党独裁体制を固めた。さらに協力者であったはずの社会主義者たちを公職から追放するようにまでなった。独裁者になったことで彼の猜疑心は強まる一方だった。また社会・経済情勢も悪化の一途を辿っており、人々の不満は頂点に達しつつあった。

ソ連もダーウード政権にひどく失望していた。ザーヒル・シャー時代にもある程度深く支援という形で関与していたものの、民主化など欧米寄りになっていくアフガニスタンに、半ば強引な形ではあったがダーウード政権という親ソ政権を樹立出来たはずだった。ところが、ダーウードには為政者としての能力が無く、それどころか社会主義者の弾圧まで始めたのである。ソ連にとっては新たな親ソ政権が必要であった。
一九七八年四月。PDPAの集会に一万人以上の民衆が集まることを聞きつけたダーウードはPDPA幹部の逮捕に乗り出すが、それは罠だった。PDPA幹部らの逮捕を契機として、四月二七日、親ソ将校によって組織された大規模な反乱部隊がカブールの宮殿を襲撃。丸一日かけた戦闘の末、ダーウード一族は皆殺しにされた。ムハンマド・ダーウードの遺体は長く行方が分からず、発見されるのは三〇年経った二〇〇八年のことである(注1)。野心家の王族の哀れな末路だった。

第四章 謀略と政争のアフガニスタン

ダーウード殺害後、わずか三日で新政権が樹立される。権力を握ったのはPDPAで、ヌール・ムハンマド・タラキーが革命評議会議長(最高指導者)に、タラキーの腹心でクーデターを陰で操ったとされるハーフィズッラー・アミーンが副首相に就き、社会主義国アフガニスタン民主共和国が成立する。タラキーはまずソ連ブレジネフ政権との善隣友好条約を締結してアフガニスタンをソ連の衛星国化すると、ソ連の影響力を背景に反対派を粛清し、個人崇拝を強要し、秘密警察を組織するなど独裁者としての顔をむき出しにしていった。

絶大な権力を持ち始めたタラキーを最も恐れたのが、第一の腹心だったアミーンであった。アミーンは秘密裏にアメリカのカーター政権に接近して混迷するアフガニスタンへの支援を依頼、ところがその情報がソ連情報部に漏れアミーンを抹殺する方針が固められる。だが、その抹殺情報をさらにアミーンが入手。高度な情報戦を制したアミーンは、一九七九年九月、タラキーを殺害して自身が第二代革命評議会議長に就任する。親米社会主義政権という複雑な政権の誕生であった。

このような策謀渦巻くPDPA政権に対し、一九七八年から七九年にかけて、ついにイスラム主義勢力が反乱の火の手を上げる。彼らを支援していたのが隣国パキスタンであった。パキスタンはインドとカシミール地方を巡って長く紛争関係にあり、アフガニスタンともこれまで国境線(ディランド・ライン)を巡って対立状態にあった。そのアフガニスタンに親パ政権が樹立されることは多大な国益をもたらすことになる。パキスタンの背後にはサウジを初めとする反共イスラム諸国があった。

かくしてソ連は外交的に追い詰められた。アミーン政権とイスラム主義勢力のどちらが残ってもソ連の益にならない。それどころか、これまでソ連はアフガニスタンに様々な分野で多額の投資を行ってきており、PDPAという社会主義政党を通じて政治状況を左右できるほどに介入してきた。その過去の努力が水泡に帰すことは多大な損失だった。さらにアフガニスタンの喪失は中央アジアへの足掛かりを失うこととなり、それはロシア帝国以来の南下政策の挫折を意味する。ブレジネフ政権は実力行使を選択せざるを得なくなっていた。

第五章 ソ連軍侵攻

一九七九年一二月二四日。アフガニスタン国境のソ連軍基地から空挺部隊八〇〇〇名を乗せた輸送機が次々と離陸し、カーブル空港とバグラム空港へと向かう。同日中に両空港を制圧し制空権を確保。同時に特殊部隊が首都カーブルの通信網を掌握。二六日、地上軍が国境線を越えて一斉に侵攻し、翌二七日にはカーブルの宮殿を三個大隊で襲撃、最高指導者アミーンの殺害に成功する。二九日、タラキーとの政争に敗れソ連に亡命していた元PDPA幹部バーブラーク・カールマルが帰国、革命評議会議長に就任しソ連傀儡政権が誕生する。侵攻から一週間で一〇万の地上軍が投入され、ソ連軍はアフガニスタン全土をその支配下に置いた。実に鮮やかな電撃作戦だった。

侵攻時、米国はアフガニスタンの隣国イランで発生したイラン革命(一九七九年四月)とそれに続くアメリカ大使館人質事件(一九七九年十一月~一九八一年一月)の対応に忙殺されており、ソ連軍がアフガニスタン国境に集結しているとの情報は入手していたものの、手が回らない状態だった。またベトナム戦争撤退から間もない時期で軍事作戦に消極的であったことも少なからず影響して、ソ連軍によるアフガニスタン侵攻を容易なものとさせていた。

当初、ブレジネフ政権は、アミーン政権を倒し反ソ勢力を一掃して親ソ政権を樹立、アフガニスタンの国内情勢を安定化させ次第、早期に撤兵する予定であったという。いわばアフガニスタンをベトナム戦争における北ベトナムのような西側勢力を退ける社会主義勢力の橋頭堡とする目的であった。だが準備不足と様々な誤算がその思惑を大きく狂わせた。まず旧政権解体後の親ソ政権の構想が曖昧であったことが挙げられる。最高指導者に据えられたカールマルは実直だが、かねてから指導力不足が指摘されてきた人物で、政権の安定化の目途が全く立たなかった。

大きな誤算だったのがアフガニスタンの軍事・行政機構がソ連侵攻で一気に崩壊してしまったことである。これまでの苛烈な暴力を伴う政権交代と血の粛清の繰り返しは、官僚や軍人たちに警戒心を抱かせるのに十分すぎるほどの効果をもたらした。圧倒的な数のソ連軍とともに登場したカールマル政権の樹立が発表されるや否や、兵士・将校・官僚たちが続々と逃亡したのである。ソ連侵攻前に一一万を数えたアフガニスタン陸空軍は一年で三万まで減少して軍隊の体を成さなくなり、また逃亡者たちのほとんどが自衛のため武器を持って逃げていた。また、同様に行政機構も完全に麻痺し、その安定化のため、ソ連は一万人の非軍事要員を本国から送り込まなくてはならなくなった。

だが、最大の誤算はやはり反政府勢力が統一軍ではなくゲリラの形を取ったことだろう。国土の九割が山岳地帯というゲリラ戦には絶好の地形に籠った人々が各地でソ連軍に攻撃を仕掛け、倒されても倒されても次々と銃を取って立ち向かっていった。そしてソ連は泥沼にはまっていく。”アフガンのベトナム化”を目指したソ連の目標は、”アフガンのベトナム戦争化”という形で実現することになったのである(注2)。

第六章 「僕と契約してイスラム義勇兵になってよ!」

対ソ連軍の抵抗戦争をイスラーム主義勢力がジハード(聖戦)と定義したことで、アフガニスタン紛争はアフガニスタン一国の問題ではなくイスラーム共同体全体を巻き込むことになった。ジハードは非常に多義的な言葉で、本来は内面的な努力を指していたが、二〇世紀に入ってからは概ね異教徒・世俗主義との戦いを指すような意味を持つようになり、この場合はソ連という無神論の侵略者への武力抵抗を意味する。そして、ジハードは全イスラム教徒の義務であり、戦う大義であった。このため、全イスラーム世界がアフガニスタンの反ソ勢力に支援の手を差し伸べ、若者たちはこぞって義勇兵に志願していった。

当初、カーター政権下の米国はイラン対応に忙殺されていることや、デタント路線もあって介入に消極的だったが、カーターに代わってレーガン政権が誕生すると”悪の帝国”という言葉に象徴されるように対ソ強硬路線に政策を一変させ、その主戦場であるアフガニスタンのムジャヒディーンゲリラ支援を積極的に行うようになる。ムジャヒディーンへの資金流入の中継国となったパキスタンに対し三五〇億ドルが資金提供されたほか、武器援助、軍事顧問の派遣や軍事訓練の実施などその支援は多岐に渡った。またイスラム諸国からもサウジアラビアを筆頭に米国と同程度の資金援助がなされ、またイスラム諸国の人々が義勇兵としてアフガニスタンに渡ることが奨励された。彼らアラブ世界からの義勇兵は後に「アラブ・アフガンズ」と呼ばれるようになる。

一九八〇年ごろ、大学を卒業したばかりのウサマ青年も情熱の赴くままに義勇兵に志願し、アフガニスタンとの国境近くの義勇兵の集結地となったパキスタンの都市ペシャワールを訪れる。そこで彼は師のアブダラー・アッザームと再会、行動をともにすることになる。
ウサマの義勇兵としての活動は三つの時期にわけられる(注3)。

1)一九八〇年ごろ~一九八四年

義勇兵といっても当初は実際にソ連軍と武力闘争を行うのはアフガニスタンの人々で、国外から来た彼らは後方支援的な業務がほとんどだった。アッザームは八四年までパキスタンの首都イスラマバードにある国際イスラム大学で教鞭をとりつつ、ペシャワールでアフガン戦争の状況を報道する新聞「アルジハード」を発行し、ウサマはペシャワールのアッザームのオフィスとサウジを行き来しながら資金調達や運営に携わっていたという。

この当時もウサマ・ビン・ラーディンの評判は「シャイで静かな若者」だったと伝わっており、また慈悲深かったエピソードもいくつも語られているという。例えば、ビン・ラーディンと噂される人物が「負傷したアフガン人やアラブ戦士が運ばれた病院に予告なしで姿を現し、ベッドからベッドを回って負傷者にカシューナッツやチョコレートを配り、注意深く負傷者の名前と住所を書き留める。数週間後負傷者たちの家族は寛大な小切手を受け取ることになる」(注4)というものだ。

どちらかというと、サウジアラビアなど湾岸諸国に多く居てビン・ラーディン一族のネットワークを生かしたアフガニスタンに対する募金活動や活動資金の調達、あるいは建設資材をアフガニスタンに送りムジャヒディーンたちに自由に使わせるなど、後方支援に携わっていた時期だという。

2)一九八四年~一九八六年

一九八四年、ウサマはペシャワールに義勇兵の受け入れ施設となるゲストハウスを開設する。イスラム諸国から義勇兵としてアフガニスタンに渡ってきた人々が一旦ここに集まり、パキスタン、アフガニスタン国境付近にある多数の訓練施設へと送られていく中継点となる施設だ。
ウサマはこのゲストハウスで寝泊りしながら、アッザームと協力して義勇兵リクルートのネットワーク「マクタブ・アルヒダマート」を構築、その運営を行っていた。当時、弁説に長けたアッザームは義勇兵たちの間で強い支持を集めており、彼の演説や説得によって多くの人々が義勇兵としてアフガニスタンに渡っていた。彼を通して義勇兵となった人数は数千人に上るとも言われている。ウサマは天性のビジネスの才能を生かして彼の片腕として実務を担当し、支部をニューヨークのブルックリンに開設するほどにまでなっていた。

3)一九八六年~一九八九年ごろ

ソ連の新書記長ミハイル・ゴルバチョフの登場はアフガニスタン戦争に大きな変化をもたらした。

ペレストロイカと呼ばれる一連の改革の一環で、一九八六年七月、アフガニスタンからのソ連軍の段階的撤退が発表される。だが、それはアフガニスタン戦争の一層の過激化を意味していた。東側諸国にとって、ソ連軍の撤退は国内情勢の独自解決を図る必要性が生じるということであり、アフガニスタン政権にとってはソ連軍の撤退完了する八九年までに内戦の決着をつけなければならないということだ。

その発表の三ヶ月前、なんら指導力を発揮できないままだったカールマルに変わり、秘密警察長官だったムハンマド・ナジブッラーがアフガニスタンの最高指導者となっていた。ナジブッラーは当初、反政府勢力と和平交渉を模索するが、反政府勢力にしてみればソ連軍撤退後早期に瓦解すると思われる政権と交渉する必要性など無い。かくして一層熾烈な戦いが繰り広げられることになる。

ウサマたちもこの頃から実戦に参加することになる。彼らは軍事キャンプ「アルマァサダ(獅子の泉)」を建設しグルプディーン・ヘクマティアル率いる最大の反政府イスラム勢力「ヒズビ・イスラム」の下で、様々な戦闘を戦っていった。
このころのウサマの評判は勇敢さとともに清貧さと禁欲主義で語られている。大多数の反政府勢力の指導者たちと違い、ウサマは兵士たちと生活をともにして、質素な食生活を送り、その生真面目な姿勢が多くの人々を惹きつけていた。当時の兵士の述懐として「われわれはよく一緒に座って食事もした。誰かが告げない限りかれが金持ちだということは気が付かなかっただろう」(注5)というコメントが紹介されている。

アッザームの影に隠れていたウサマの周りにも多くの人が集まり始めていた。後にアルカーイダNo.2となるアイマン・アル・ザワヒリ、九〇年代にアルカーイダの軍事司令官となるムハンマド・アティフなどだ。彼らの多くがエジプトの戦闘的イスラム主義組織(注6)に属しており、ウサマは彼らとの交流や、八七年のガザ地区におけるイスラエル軍によるパレスチナ人殺害と弾圧を契機とした第一次インティファーダなどの事件を目の当たりにすることで、徐々にアフガニスタンだけでなくイスラム世界全体でのジハードの必要性を痛感しはじめていく。

それはアフガニスタンでのジハードを重視するアッザームとの意見の乖離を生んでいくことになるが、師弟の個人的な関係は強固だった。当時、ウサマに接近するエジプト系義勇兵について、アッザームは心配するコメントを側近に語っている。

「わたしはオサマについて非常にとまどっている。彼は、天使のような、神が遣わしてくれたような男だ。彼があんな連中(エジプト人たちのこと)と一緒にいたら、将来どうなるかほんとに心配だ。」(注7)

一九八九年二月十五日。ソ連軍が完全撤兵を果たし、アフガニスタン戦争は終結する。だが、ソ連軍がいなくなった後もアフガニスタンの混乱は収束することはなかった。そして、師弟の永遠の別れもまたすぐそこに迫っていた。

第七章 爆発の炎の中で、憎悪が生まれる

一九八七年、アッザームはこう語っている。

「いかなる主義主張もそれを前進させるためには、また重い任務と大きな犠牲を高く掲げるためには、前衛を必要とする。地上にも天上にも、勝利を得るためには持てる全てを投じられる前衛を……必要としないようなイデオロギーは存在しない……。厳しく、終わりのない、困難な道のりが目的地に到達するまで、前衛は旗を掲げ続ける。何となればアラーが、前衛は前衛たるべきこと、前衛であるべきことを身を以って示すべきことを、命じているからである。こうした前衛が、将来あるべき社会のための基盤(アルカイダ・アルスルバ)を形成するのである」(注8)

アルカーイダという組織がいつできたのか諸説あり定かでないが、「将来あるべき社会のための基盤(アルカイダ・アルスルバ)」としての「持てる全てを投じられる前衛」という六〇年代の思想家サイード・クトゥブ(注9)の影響を強く受けたこの思想が、当時のウサマ・ビン・ラーディンをはじめとするイスラム主義の若者たちを突き動かし、その前衛としての組織作りに走らせたことは疑い得ない。だが、この彼の思想と運動は形を変え(あるいは必然的な帰結といえるのかもしれないが)、テロリズムネットワークとしてのアルカーイダへと変質していったのだった。

一九八九年十一月。ペシャワールの自宅で家族とともに朝食を取ったアッザームは、妻ウンムにいつもどおりの別れを告げ、息子二人を車に乗せて、運転席に乗り込んだ。そしてエンジンをかけ…その瞬間、爆音と炎が彼らを包んだ。

「夫と子どもたちが出ていって、わずか五分後でした。大きな爆発音が聞こえました。胸騒ぎがして台所から別の部屋に(いったが、埒があかないので、それからしばらくして)病院に電話して、アブドゥッラー・アッザームに何が起きたか聞きました。彼らは、彼が殉教したと伝えました。わたしは『讃えあれ、アッラー。われらアッラーのもの、そのもとに帰りゆかん』と答えました。」(注10)

妻の証言である。

有力者を狙った通常のテロであれば実行組織が名乗り出るものだが、アッザームの死については何者の仕業か現在でも謎のままである。それゆえに様々な犯人説が浮かんでは消えた。中には意見の食い違いを見せ始めていたウサマ・ビン・ラーディンによるものという説もあるが、その証拠は無い。むしろ、その後のウサマのアッザームの影を追うがごときパレスチナやアフガニスタンに対する執着を考えれば潔白の可能性が高い。ウサマは犯人としてイスラエル諜報部の関与を示唆しているが、もちろんそれも確固とした証拠があるわけではない。

そして、ウサマ・ビン・ラーディンはこのアッザームの死と前後した時期から、イスラエルとイスラエルを支援するアメリカ合衆国に対し、憎悪と怒りと敵意を剥き出しにし始める。彼の中で反米思想がいつ、何が原因で芽生えたのか正確なことはわかっていないし、死んでしまった今となっては永遠にわからない。だが、アフガニスタン戦争の末期、何かが「シャイで引っ込み思案で真面目な」「天使のような男」を、怒りと憎悪が支配する怪物へと変えつつあった。何かが。

(つづく)

第二部 → 「誰かの幸せを祈った分、他の誰かを呪わずにはいられない、アラブ世界って、そういう仕組みだったんだね・・・」

(注1) 30年ぶり発見の遺体埋葬 アフガンのダウド元大統領 – 47NEWS.
(注2) 第三章~第五章アフガニスタン情勢については、渡辺光一著「アフガニスタン―戦乱の現代史 (岩波新書)」(P39~132)、ジェイソン・バーク著「アルカイダ ビンラディンと国際テロネットワーク」(P119~123)、宮田律著「中東 迷走の百年史 (新潮新書)」(P115~124)参照
(注3) ウサマのアフガンでの活動時期分類については保坂修司著「新版 オサマ・ビンラディンの生涯と聖戦 (朝日選書)」(P72~73)、具体的な活動内容については保坂同書、及びバーク著(P108~152)参照
(注4) バーク著(P112)
(注5) バーク著(P143)
(注6) エジプトのイスラム主義組織については「ムバーラク政権が与えた屈辱~エジプト現代圧政史 | Kousyoublog
(注7) 保坂著(P59)
(注8) バーク著(P31)
(注9) サイード・クトゥブの思想については「イスラム原理主義思想の父サイード・クトゥブの生涯 | Kousyoublog
(注10) 保坂著(P60)

第一部参考書籍
・保坂修司著「新版 オサマ・ビンラディンの生涯と聖戦 (朝日選書)
・ジェイソン・バーク著「アルカイダ ビンラディンと国際テロネットワーク
・渡辺光一著「アフガニスタン―戦乱の現代史 (岩波新書)
・宮田律著「中東 迷走の百年史 (新潮新書)
・藤原和彦著「イスラム過激原理主義―なぜテロに走るのか (中公新書)
・小杉泰著「イスラームとは何か (講談社現代新書)
参考サイト
魔法少女まどか☆マギカ WIKI – ネタバレ考察/台詞集
ワッハーブ派 – Wikipedia
ウサーマ・ビン・ラーディン – Wikipedia
アブドゥッラー・アッザーム – Wikipedia
アフガニスタン紛争 (1978年-1989年) – Wikipedia
ムジャーヒディーン – Wikipedia
ザーヒル・シャー – Wikipedia
ムハンマド・ダーウード – Wikipedia
ヌール・ムハンマド・タラキー – Wikipedia
・ハーフィズッラー・アミーン – Wikipedia
・バーブラーク・カールマル – Wikipedia
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