「誰かの幸せを祈った分、他の誰かを呪わずにはいられない、アラブ世界って、そういう仕組みだったんだね・・・」

ウサマ・ビン・ラーディンの生涯全三回の第二部。若干の魔法少女まどか☆マギカ的影響下で構成されています。

第一部「はぁいそれじゃ自己紹介いってみよう」 「あ、あの、ウ、ウサマ…ビン・ラーディンです…その、ええと…どうか、よろしく、お願いします…」

第二部 「誰かの幸せを祈った分、他の誰かを呪わずにはいられない、アラブ世界って、そういう仕組みだったんだね・・・」

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第八章 「あとは君たちアフガニスタンの問題だ。」

一九八八年四月ごろ、アフガニスタンからのソ連軍撤退を取り決めるジュネーブ協定の直前、ゴルバチョフに呼びつけられたアフガニスタン人民共和国最高評議会議長ムハンマド・ナジブッラーは憤慨していた。

未だ決着の糸口すら見えない内戦下で「あとは君たちアフガニスタンの問題だ。」とばかりにゴルバチョフから一方的に同盟関係の解消とソ連軍撤退を通告されたためだ。形ばかりの資金援助の約束はあったが、あまりに無責任すぎないか。そもそもソ連の野心と画策がこの混乱の始まりではなかったのか・・・七〇年代末期の政争の時期ならいざしらず、この当時でも政権に残ってイスラム主義勢力と戦っている人々はナジブッラーも含めて、社会主義の理想を実直に夢見て、社会主義こそがアフガニスタンに平和をもたらすと信じていた人々が大多数だった。この通告は裏切り以外の何者でもない・・・そうナジブッラーは感じていただろう。彼は帰国後、反政府勢力となんとか平和的解決を図るべく尽力するが、内戦の元凶であり、もはや瓦解することが明白な政権の言う事に耳を貸すものなどいなかった。

追い詰められたナジブッラー政権はソ連からの資金と武器援助のほとんどを政府軍の整備に費やし、徹底抗戦に出る。ゴルバチョフとしても早期にアフガニスタン政権が崩壊し、イスラム政権が誕生するとソ連国内へ波及する恐れがあったため、少なくない額の援助を継続した。だが、見捨てられたのは反政府勢力も同様だった。反政府勢力を支援していた欧米諸国は、ゴルバチョフ登場による雪解けムードですっかり旧ソ連・東欧圏へとその興味を移し始めており、八九年十一月のベルリンの壁崩壊に始まる東欧民主化の波に目を奪われ、その後激化するアフガニスタン内戦にも見て見ぬふりで深く関与しようとはしなかった。

ソ連軍撤退後の八九年三月。反政府勢力は統一軍を形成し、首都カーブルに向けて進撃を開始する。天王山の戦いとなったのが、ペシャワールとカーブルの中間に位置する要衝の都市ジャララバードをめぐる攻防戦である。反政府軍にとってはここを陥落させればカーブルは落としたも同然、逆に政府軍にとってはここが反政府軍の手に落ちれば破滅が待っている。

ジャララバード攻防戦は反政府軍二万、政府軍一万が投入されアフガニスタン戦争最大の激戦となった。ウサマ・ビン・ラーディンも、ジャララバード南西の町チャプルハリールの戦闘に加わっている。「ムジャヒディンの複数のリーダーは味方がソ連軍(引用者注:政府軍)に包囲され、ビンラディンが猛爆撃を浴びながら陣地を確保していたことを記憶している」(注1)という。

四ヶ月に渡る攻防戦は予想外の結末に終わった。最早後がない政府軍が、数と勢いで勝る反政府軍の猛攻を耐えしのぎ、反政府軍は多大な犠牲を払いながら結局ジャララバードを攻略出来なかったのである。勝利するはずの反政府軍が敗北し、勝利するべきではなかった政府軍が勝利したというこの戦いは、アフガニスタンにさらなる混乱と悲劇を呼ぶことになる。

第九章 湾岸戦争とウサマの失望

一九九〇年九月、サウジアラビア国防相スルタン王子と面会(注2)したウサマ・ビン・ラーディンは失望していた。
ジャララバード攻防戦の後、サウジアラビアに帰国したウサマはアフガニスタン戦争を戦い抜いた英雄として迎えられた。戦争中と変わらず大富豪らしくない質素な禁欲生活を送る彼をイスラム活動家グループは熱烈に祝福したし、ビン・ラーディン一族もグループ企業で高い地位を約束し、戦争下で形成されたエジプト系活動家たちとの関係も継続しており、幾人かはアフガニスタンからそのまま付き従ってきていた。
しかし、一九九〇年八月二日、再びアラブ世界を震撼させる事件が起こる。イラクのサッダーム・フセインが隣国クウェートへ侵攻したのである。

一九七九年にバクル大統領を失脚させて権力を握ったフセインは強固な独裁体制を敷き、対外膨張政策を取った。成立したばかりのシーア派国家イランと国境線を巡ってイラン・イラク戦争に突入すると、イラン封じ込めを狙う米国の積極的な支援を背景にして軍備を増強、中東地域最強の軍事独裁国家を構築する。イランに対して優位を保ったまま戦争を終結させたあとの次のターゲットが小国クウェートだった。

イラクのクウェート侵攻はサウジアラビアを動揺させた。極端なまでの膨張主義を取るフセイン世俗政権の次の目標が宗教国家サウジアラビアであることは明白だったからだ。冷戦後の新世界秩序を模索する米国ブッシュ政権は中東地域におけるイニシアチブ確立のため、サウジアラビアへ支援の名目で米軍駐留を働きかけ、八月七日、イラクの侵攻からわずか五日でサウジ王家もその受け入れを表明する。

サウジへの米軍駐留の報は同国の世論を沸騰させた。前述(第二章)の通りサウジの国教イスラム教ハンバリー法学派(通称ワッハーブ派)は原理主義的な非イスラムへの敵視を特徴とする急進的な思想であり、特に聖地を要するサウジへ異教徒が足を踏み入れることなど言語道断、王家の決定は信仰に対する裏切りといえた。そのため、反政府感情が一気に高まり、イスラム教の識者(ウラマー)たちも次々と反対を表明した。

ウサマははじめ、父の代から続く王家との良好な関係に忠実だった。彼は自身のネットワークを使ってアフガニスタン戦争帰りの志願兵を募り、サウジアラビア防衛のための国軍創設を計画、その提案をするべく人脈を使って国防相に面会を行ったという。彼は、イスラム国家の危機は米軍によるのではなく、イスラム教徒の手で守ることこそがあるべき姿だと考えていた。だが、その申し出は受け入れられることはなかった。それどころか、サウジ政府は米軍駐留に反対する人々への弾圧を始めることになる。識者たちが次々と投獄され、民衆に対して広く軍事訓練の必要性を訴えるウサマも軟禁状態に置かれてしまう。

一九八六年の石油価格の暴落以降、サウジは政府の財政政策の失敗などもあって急激な景気の後退に見舞われていた。そのダメージを最も受けたのは低所得に喘ぐ大多数の国民である。反対意見には強権で望み、政治的自由を奪い、貧困を放置し、一方で王族は潤沢なオイルマネーと重税で贅沢三昧な生活を送り、極端な格差社会を形成していた。そんな社会状況を放置した挙句、毎年のように最新鋭の兵器を買い揃えながら、異教徒である米軍を受け入れ、国家防衛すら放棄することは、イスラームへの裏切りではないのか・・・サウジアラビア政府に対するウサマの失望は頂点に達した。

一九九一年から九二年にかけてのある時期、軟禁状態にあったウサマは国外脱出に成功する。政府の監視下でどうやって脱出したかは定かでないが、ビン・ラーディン一族の誰かにパキスタンに一旦赴く必要がある旨偽って、サウジ政府の内務副大臣を動かし旅券を発行してもらったともいう(注3)。ウサマはイスラエル、アメリカ、そして故国サウジアラビアの王政への憎しみを抱いて、アフガニスタンを経由したのち、スーダンへと飛ぶ。そしてスーダンを根拠地として苛烈な反米闘争を開始することになるのだった。

第十章 スーダンの最高権力者

スーダンは対立を背負わされた国家だった。

一九世紀から二〇世紀前半の植民地時代、スーダンはイギリス・エジプト両国による共同統治(エジプトはイギリスの支配下にあったため実質はイギリスによる統治)下にあった。イギリスはアラブ系が多い北部とアフリカ系が多い南部の交流を制限し、北部のイスラム系有力者を懐柔しつつ、南部にキリスト教を広めて南北の対立を煽ることで、典型的な分断統治を実行していた。

作られた対立はやがて憎悪を生む。第二次大戦後の一九五六年、民族自決の機運が盛り上がる中、スーダンも独立を果たすが、北部中心で形成された独立政府に対して、独立の前年から南部が反乱を起こし、以来、幾度かの停戦期を挟みながらアフリカ最長の内戦(第一次内戦(一九五五~七二)、第二次内戦(一九八三~二〇〇五)、ダルフール紛争(二〇〇三~))が続いてきた。

スーダン政権はクーデターが繰り返されつつイスラム化が進み、一九八九年に軍事クーデターによって成立したバシール政権はイスラム主義政党国民イスラム戦線(NIF)の強固な後ろ盾の上に成立していた。そのNIFの指導者として当時バシール大統領以上にスーダンの最高権力者として君臨していたのがハッサン・アル・トゥラビだ。

ソルボンヌ大学で博士号を取得した経歴を持つトゥラビはイスラム法と民主主義の両立や女性の権利拡大などをうたい、学生たちの支持を集めてスーダンのムスリム同胞団をエジプトから自立させ、彼を支持する優秀な学生たちを内戦下で人材難に喘ぐ軍や官僚機構の上級幹部に就けて権力機構を牛耳るとともにアラブ世界の諸スンニ派ネットワークを広げ、スンニ派だけでなくシーア派のイランともつながることで影響力を拡大。さらに湾岸戦争の最中にも関わらずバシール大統領を通じてイラクのフセインやリビアのカダフィとも秘密裏に関係を構築し、スーダンを米国追従で権威が失墜しつつあるサウジに変わってイスラムの指導者に押し上げる野心を着々と進めていた(注4)(注5)。

そのような宗教者というよりは野心家でリアリストである彼にとって、サウジから飛び出した”大富豪の御曹司”ウサマ・ビン・ラーディンは非常に魅力的に映っていた。トゥラビと彼が支えるバシール政権にとって、当時、激化の一途を辿っていたスーダン人民解放軍/運動(SPLA/M)との内戦を優位に進めるためには何より経済力が重要だ。また、サウジとその背後のアメリカと対決姿勢を強めることで、イスラムの盟主になろうとするトゥラビにとってウサマの思想と活動は支援するに値するものだった。ただし、ウサマのそれと違い、トゥラビの反米はあくまで打算の結果であった。彼はウサマ・ビン・ラーディンをスーダンの首都ハルツームに招き、ウサマの反米闘争活動への支援を行うかわりにスーダンでビジネスを展開するよう提案する。

第十一章 建設者ウサマ、破壊者ウサマ

ウサマにとってトゥラビの招きはとてもありがたいものだった。早速仲間たちとともにハルツームに移り、次々とビジネスを立ち上げる。それは多くの人々にとってひとつの希望にも見えた。

このときウサマが立ち上げたと伝わっているものではスーダンで生産された胡麻など農産物輸出を扱う貿易会社「ワーディルアキーク」、ハルツームから紅海沿岸の都市ポートスーダンへの全長八〇〇キロに及ぶ道路建設などを請け負う建設会社「ヒジュラ建設開発」、ハルツームやスーダン東部の大規模農地開発を行う農業会社「シマールルムバーラカ」、さらにNIFと共同で「シャマール・イスラーム銀行」を設立して金融業も展開している(注6)。アフガン戦争でもそうであったように、ウサマはビジネスマンとして非凡な才能に恵まれていたようだ。後にアルカイダが拠点を新たに作る際には、まず現地で複数の企業を立ち上げ、事業を軌道に乗せて資金を確保した上で組織を立ち上げるという手法を使っていたという。

スーダンでのウサマによる事業展開はスーダン経済に貢献しただけではなく、アフガニスタン戦争帰還兵の救済という側面があった。

当初は各国で英雄として迎えられたアフガニスタン戦争からの帰還兵「アラブ・アフガンズ」たちであったが、現実社会でイスラームの大義のために命を賭して戦った彼らへの待遇はとても満足いくものではなかった。各国とも構造的な格差問題を抱え、経済的不況と社会不安の中で満足な職も与えられず、帰還兵たちの多くが失業者となった。次第に彼らは犯罪や暴力に手を染め、あるいは反政府活動に身を投じはじめる。そしてイスラム主義に傾倒する彼らを、世俗的な政権は恐れ、やがてアメリカの後ろ盾を得たパキスタンやエジプトのムバーラク政権などを中心にアラブ諸国で「アラブ・アフガンズ狩り」(注7)とよばれる弾圧が広がっていった。弾圧を受けた彼らの多くはアフガニスタンや旧ユーゴなどに逃亡して傭兵化したり、地下に潜ってテロリスト化していった。

ウサマはそのような行き場をなくしたかつての戦友アラブ・アフガンズを多数スーダンに迎え入れ、仕事を与えている。上記のハルツームからポートスーダンまでの道路「タハッディー街道」はパキスタンで九三年に政府から大弾圧を受けてスーダンへ逃亡した「アラブ・アフガンズ」によって建設されたものだ。

このような事業展開と同時進行で、彼は各国の反政府イスラム主義勢力への支援を行っている。この間に支援だけでなくウサマらがテロ行為を行ったかは証拠が残っていないため、あきらかではないが、九二年以降アメリカを狙ったテロが次々と発生し、それぞれウサマは実行犯を祝福する声明を発表して、その関与がささやかれた。

一九九三年五月、エジプトのムバーラク大統領が湾岸諸国を歴訪しサウジやアラブ首長国連邦とともにウサマ・ビン・ラーディンからイスラム主義の反政府勢力への資金の流れを把握するため各国と協力体制を構築するよう注意を促し、同十月にはソマリアのモガディシュで米軍とソマリア民兵が激突し米兵一八名が死亡、のちに「ブラックホーク・ダウン」として映画化もされたモガディシュの戦いに関し、ウサマは民兵側に関与していたことを仄めかす声明を発表。九四年二月、ビン・ラーディングループはウサマが暴力的活動に従事しているとして一族からウサマを追放する旨発表、四月にはサウジ政府がウサマの国籍剥奪を発表し、一躍反米テロの黒幕として注目を集め始めていった(注8)。
当初、ウサマの活動はトゥラビにとって多大なメリットがあるものだったが、ウサマの反米活動が注目され、イスラム諸国の政権にとって害があると捉えられ始めると、スーダンとしては微妙な立場に置かれることになった。基本的にトゥラビは国際政治のバランスの上でサウジより優位に立とうと目論んでいたのであって、サウジをはじめとする湾岸諸国との先鋭的な対立関係は望んでいなかった。イスラム諸国との協調関係を再構築して、内戦を優位に進め、国力を高めるにはウサマの活動が邪魔になったのである。

一九九六年、トゥラビはパキスタンのスーダン大使館を通じてアフガニスタンのイスラム勢力と接触。ウサマ・ビン・ラーディン一派の受け入れ先を確保する。五月十八日、穏便に自主退去というかたちでウサマは仲間とともにスーダンを出国し、アフガニスタンへと向かっていった。

第十二章 泥沼のアフガニスタン内戦

ソ連軍撤退後もアフガニスタンは混乱と絶望が支配していた。

アフガニスタン戦争で反政府勢力を構成していたのは急進的なイスラム国家の樹立を目指すイスラム主義勢力と、ザヒル・シャー元国王の復位を目指す伝統派勢力に大別されていたが、イスラム諸国の支援もあって、イスラム主義勢力が大勢を占めていた。イスラム主義勢力の中で最大勢力を誇っていたのがグルプディーン・ヘクマティアル率いるパシュトゥーン人系組織ヒズビ・イスラムで、パキスタン政府やCIAとの太いパイプを持っていることから豊富な資金力を誇っていた。これに対して幅広い支持と最強の戦闘力を持っていたのがアフガニスタンのスンニ派の権威ブルハヌディーン・ラバニ率いるジャミアティ・イスラムで、北部諸州の非パシュトゥーン人を中心に構成されていた。ジャミアティ・イスラムで有名だったのがラバニの右腕として活躍したアフマド・シャー・マスードで、彼は卓越した軍事指揮能力を持ち、”バンジシールの獅子”と恐れられた。ほか、アブドゥル・ラシッド・ドスタム将軍率いるウズベク人組織イスラム民族運動などがあった。

ジャララバード攻防戦を凌いだナジブッラー政権は巧みに反政府勢力に対して宥和的な姿勢をとり、また欧米諸国からの反政府勢力への援助が打ち切られたこともあって、不安定ながらも政権を握り続けていた。しかし、九一年、ソ連が崩壊すると流石に政権継続が困難になり、デクエヤル国連事務総長の斡旋などもあって、九二年四月十九日、ついに辞任を表明した。早期に瓦解すると思われていた多くの予想に反して、ソ連軍撤退後もソ連よりも長く、三年に渡り政権を運営し、さらに平和裏に退くことが出来たのだった。

首都カーブル解放後、諸勢力の代表者からなる聖戦評議会が開催され暫定政権への移行が決められたが、このプロセスにヘクマティアルが異を唱え、カーブルの一角を占拠するドスタム将軍の退去を求め始める。これが受け入れられないとなるとドスタム派への攻撃を開始、マスード司令官が斡旋に出てドスタムの退去を申し入れるが、これが失敗に終わり、ヘクマティアル派とドスタム派で対立が決定的となった。

九二年六月、「アフガニスタンイスラム国」が建国され暫定政権の首班にラバニが選出されると、これを不服としたヘクマティアルがカーブル市街にロケット砲を発射、一般市民への無差別攻撃が行われ、マスード司令官がヘクマティアル派への反撃を開始。まさかの泥沼の抗争となり、イラン、パキスタン、サウジなどが調停に乗り出しラバニ大統領、ヘクマティアル首相という体制に移行する協定が締結されるが実効性に乏しく内戦に突入する。このころ、サウジから脱出してスーダンへ行く前のウサマ・ビン・ラーディンがアフガニスタンに滞在しており、各派の紛争を調停する第三者機関の長として対立の解消に尽力しているという。アフガニスタン戦争に生涯を捧げた亡き師アッザームの遺志を継いだものかもしれない。

結局、調停はどれも不発に終わり、ラバニ=マスードの暫定政権、ヘクマティアル派、ドスタム派三つ巴の内戦が激化、しかしマスードの働きによってヘクマティアル・ドスタム両派がカーブルから駆逐されると、対立関係にあったはずのヘクマティアルとドスタムが同盟を結び、ラバニ=マスード対ヘクマティアル=ドスタムの対立へと一変、混沌とした状況になっていった(注9)。

アフガニスタンの人々にとって、事態は最悪を通り越して文字通りの絶望であった。権力争いの果てにソ連軍の侵攻を招き、長い長い戦争が終わったかと思うと、期待を集めていた反政府勢力が仲間割れを始めたのである。このような終わりの見えない内戦下で、古いイスラム主義者や伝統的な部族への信頼は失墜していった。さらに軍閥とは名ばかりの無法者たちが力を持ち、目を覆わんばかりの悲惨な事件が各地で発生。この内紛ではアフガニスタン戦争時よりも多くの犠牲者を出し、一千万人とも言われる人々がアフガニスタンから脱出、難民化していった。

第十三章 オマルの祈り、力への誘い

一九九四年七月、アフガニスタンとの国境に位置するパキスタンの都市クエッタの難民キャンプ。小さなマドラサ(神学校)を開き二十名あまりの若者にイスラム教デオバンド派の教えを説いていたムハンマド・オマルは祈りを捧げていた。かつてアブダラー・アッザームに心酔してムジャヒディーンとしてソ連軍と戦った経験を持ち、戦傷で隻眼だったとも伝えられる彼は、祈りを終え、覚悟を決めた難民出身の十代から二十代前半の若い教え子たちの前に立つ。悪逆の限りを尽くす山賊化した軍閥に誘拐された二人の難民の少女を自らの手で救うためだ(注10)。武器も満足に揃えられなかった。勝ち目があるかもわからない。だが、誰かが立ち上がらなければ、誰かがこの悲劇の連鎖を止めなければならない・・・奇跡的に軍閥を倒した彼らを出迎えたのは人々の歓声と、そして耳元で囁かれる悪魔の誘いだった。

デオバンド派は十九世紀半ばのインドで英国の侵略と圧倒的多数を誇るヒンドゥー教徒など外部の脅威に対抗する形で生まれたイスラム教の新派である。初期は西洋のさまざまな制度・思想を取り入れることで発展したが次第に反動的になっていき、世俗的な権威の一切を否定し、厳格な戒律を持ち、マドラサと呼ばれる宗教学校に篭り閉鎖的な空間を作り出していった。英国による植民地支配やヒンドゥー教徒との苛烈な対立の中で、非常によく似ていたワッハーブ派の支援もあってインド、パキスタン、アフガニスタン南部を中心に、学校教育の不備を補う形で貧困層の子弟を中心に急速に拡大。一九六七年までに南アジア全域で九〇〇〇校のマドラサがあったという。そして、各地に建設されたマドラサで学ぶ生徒たちは「タリバーン(探求者たち)」と呼ばれた。

アフガニスタンにおけるタリバーン政権の誕生はパキスタンの国内情勢と密接な関係がある。

アフガニスタン戦争勃発後、反政府勢力への援助金は現地通貨に兌換する必要からすべてパキスタン政府を経由して送られることになった。これによってパキスタン政府は実質的に反政府勢力を支配する力を得ることになる。パキスタン軍事政権で絶大な権力を振るったムハンマド・ジア・ウル・ハク大統領はアフガニスタンに親イスラム政権を樹立後、ソ連が支配していた中央アジアにまでその影響力を拡大していく構想を持ち、その中心人物と期待したアフガニスタンのスンニ派の権威ラバニへの支援を重視したが、資金配分の実務を取り仕切るパキスタン軍統合情報局(ISI)はパシュトゥーン人が多く中核を占めていたこともあって、ヘクマティアルを重視しようとしていた。この食い違いはパキスタン内部で微妙な亀裂となり、八八年ハク大統領が”事故死”した後はCIAの後ろ盾を得ていたISIの権力は誰も抑えることができないほどに肥大化していった。アフガン内紛でのヘクマティアル派の強気の姿勢はISIの強力な支援を背景としていたのだ。

九三年一〇月、かつてのパキスタン首相ズルフィカール・ブットの娘ブナジール・ブットが首相に返り咲いたとき、パキスタンの政治権力はISIが完全に牛耳っていた。ブット政権最大の課題はこのISIの権力を掣肘し、自身の権力基盤を強固なものにすることだった。ヘクマティアル派はアフガニスタン内でも民間人や外国人を躊躇うことなく殺害する残酷さで知られ、イラクのフセイン支持を打ち出したことで湾岸諸国からの支持を失っており、ヘクマティアルを支援するISIの立場は微妙なものとなりつつあった。そこで、ブットはヘクマティアルへの支援打ち切りを決断するとともに、ISIも一目置く軍部の重鎮ナスルッラー・バーバルを内相に起用、さらにデオバンド派の有力者であるファズール・ラーマン率いる「イスラム神学者協会」を連立与党に加え外交常任委員長に任命。着々と支持基盤を固めていった。

九〇年代初頭、ソ連邦崩壊後に独立したカスピ海の東側に位置する中央アジアの三カ国カザフスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタンでは石油や天然ガスなどのエネルギー資源が世界有数の埋蔵量であることが判明、この資源に世界が注目し始めていた。この天然資源を国外に運び出すルートとして様々な構想が練られたが、有力な構想として二つのルートが急浮上した。ひとつがトルクメニスタンのアシガバードからイランを経由してペルシア湾のバンダル・アッパース港へと続くパイプライン建設構想。もうひとつが同じくアシガバードからアフガニスタンのヘラート、カンダハールを経由してパキスタンのクエッタを抜けカラチ港へと至るルートだ。後者のアフガン・パキスタンルートが実現されると、ブット政権にとっては計り知れない利益をもたらすことになる。カリフォルニアのオイルロビー「ユノカル社」が後者のルートを後押しし、対イランという視点からアメリカもパキスタンの後ろ盾になった(注11)。

そのためには何より内戦に明け暮れるアフガニスタンの早期の安定化が最重要条件となる。アフガニスタンの既存のイスラム勢力はどこも民衆の支持を失い、戦力は均衡、決め手に欠く。可能ならばパキスタン軍を派遣して一気に制圧していきたいところだが、それは国際関係上・アフガニスタンの世論上も不可能だ。ならばパキスタン軍の隠れ蓑となる第三勢力が台頭することが望ましい・・・そう。何よりアフガニスタンの悲劇に心を痛め、自身の無力を嘆く人々を突き動かし、彼らの運動を隠れ蓑にして偽装したパキスタン軍を動かしていくのだ・・・
怒りと失望は対立を生み、対立の中で人々は互いを憎悪する。憎悪と混乱の中で彼らの希望は絶望へと変わり、絶望の淵に立つ彼らの切実な祈りに誰かが囁く・・・「避けようのない滅びも、嘆きも、全て君が覆せばいい。 戦いの運命(さだめ)を受け入れてまで、叶えたい希望(のぞみ)があるなら、僕が力になってあげるよ・・・

第十四章 タリバーンが蹂躙する。圧倒的に、ひたすら圧倒的に

一九九四年七月、二十数名で立ち上がったオマル師が率いるタリバーン運動は瞬く間に勢力を拡大、同一〇月にはパキスタン国境沿いのヒズビ・イスラミの基地を制圧、同十二月には一万二〇〇〇人を超える勢力となり、最新鋭の戦車や武器で武装し、偽装されたパキスタン軍精鋭部隊と見られる軍勢とともに進撃を開始。翌九五年にはアフガン西部を支配するイスマイル・カーン一派を撃破してヘラート入城を果たすと、勢いはとどまることを知らず、ヘクマティアル、ドスタム両派をも撃破してヘクマティアルはイランへ逃亡、彼のヒズビ・イスラミ勢力を吸収し、その後も破竹の快進撃を続け、九六年九月一一日には要衝ジャララバードを陥落させ、同二七日にはラバニ、マスード率いる暫定政府軍が篭る首都カーブル攻略、占領を果たす。ラバニらはカーブルから撤退後マスードを司令官としてドスタムらとともに北部同盟を結成して抵抗するが、タリバーンの物量の前に追い詰められていった。

タリバーン台頭の要因としてパキスタン軍の関与は大きいが、それ以上に一〇代から二十代の若者を中核としたタリバーン運動の清新さとタリバーンの厳格な戒律重視、復古主義的主張は、古いイスラム勢力や部族支配に厭いていたアフガニスタンの人々の心に訴えかけるものがあった。また、パキスタンからアフガン国境に広がる難民キャンプの若者たちやデオバンド派の人々が次々動員され人材を供給し続けたことで、大きな草の根運動へと展開していった。

だが、祈りで始まり絶望で終わる、その呪縛からタリバーンも自由ではいられなかった。カーブル突入を果たしたタリバーン勢力は国連関連施設から脱出寸前の元大統領ナジブッラーを強引に拘束すると、イスラムの教えに反して拷問の上殺害、広場でその死体を晒し、その残虐さに市民は震え上がった・・・。「誰かの幸せを祈った分、他の誰かを呪わずにはいられない・・・」、祈りを憎悪が凌駕した。

タリバーンにとってアフガニスタン混乱の元凶は近代化と人々の非イスラム的行動であった。イスラムの戒律を忘れ、宗教的な生活を送ることもせず、西洋的生活様式を導入し、家庭を守るべき女性が教育を受け社会進出を果たす・・・これこそが延々と続く悲劇の根源であり許されるべきではないと彼らは考える。カーブルでは極端に厳格な法が定められ、違反者は厳罰を加えられることになった。タリバーン政権は国土の九割を支配下に収め、どのような形であれ久方ぶりにアフガニスタンに一定の安定をもたらすことになった。

ちょうどそのころ、スーダンから追われたウサマ・ビン・ラーディン一派がアフガニスタンへと到着。タリバーン政権の誕生を目の当たりにしたウサマは、彼らへの接近を模索し始める。そして事態が大きく動き出していくのだった・・・タリバーン政権崩壊は、カーブル入場からわずか五年後のことである。

(つづく)

→第三部 「アラブの人々の祈りを、絶望で終わらせたりしない」

(注1) ジェイソン・バーク著「アルカイダ ビンラディンと国際テロネットワーク」(P144)
(注2) ウサマとサウジ国防相スルタン王子との面会エピソードについてはバーク著(P221)によるもので、他の資料では見当たらないため事実関係は不明。
(注3) 内務副大臣による旅券発行のエピソードも同じくバーク著(P230)
(注4) スーダンの歴史については「外務省: スーダン概況」 、「悲劇の国 スーダンってどんな国? [ビジネススキル・仕事術] All About」 、宮田律著「中東 迷走の百年史 (新潮新書)」(P180~182)参照
(注5) ハッサン・アル・トゥラビについてはバーク著(P233~234)参照
(注6) ウサマたちのスーダンでの活動については保坂修司著「新版 オサマ・ビンラディンの生涯と聖戦 (朝日選書)」(P107-110)参照
(注7) 「アラブ・アフガンズ狩り」は藤原和彦著「イスラム過激原理主義―なぜテロに走るのか (中公新書)」(P105~107)参照
(注8) スーダン滞在時のウサマと関係があるとみられるテロ事件については保坂著(P127)参照
(注9) ソ連撤退後のアフガニスタン情勢については渡辺光一著「アフガニスタン―戦乱の現代史 (岩波新書)」(P142~154)
(注10) ムハンマド・オマル決起で、少女救出目的としているのはバーク著。渡辺著では地元武装勢力の排除目的とする。宮田著ではそもそも最初からパキスタンの傀儡としてオマルがタリバーンの指導者として選ばれたとする説明である。タリバーンの自主的蜂起にパキスタンが早期に関与した説と、最初からパキスタンの計画の下でタリバーン運動が始まった説とに二分されているようだが、前者説がほぼ主流とみられる。
(注11) 渡辺著、バーク著、保坂著他中央アジアのパイプライン構想がタリバーン運動の誕生に強い影響を与えたとする解説は多数。

第二部参考書籍
・保坂修司著「新版 オサマ・ビンラディンの生涯と聖戦 (朝日選書)
・ジェイソン・バーク著「アルカイダ ビンラディンと国際テロネットワーク
・渡辺光一著「アフガニスタン―戦乱の現代史 (岩波新書)
・宮田律著「中東 迷走の百年史 (新潮新書)
・藤原和彦著「イスラム過激原理主義―なぜテロに走るのか (中公新書)
・小杉泰著「イスラームとは何か (講談社現代新書)
・内藤正典著「イスラーム戦争の時代―暴力の連鎖をどう解くか (NHKブックス)

参考サイト
魔法少女まどか☆マギカ WIKI – ネタバレ考察/台詞集
ウサーマ・ビン・ラーディン – Wikipedia
アフガニスタン紛争 (1978年-1989年) – Wikipedia
アフガニスタン紛争 (1989年-2001年) – Wikipedia
ムハンマド・ナジーブッラー – Wikipedia
湾岸戦争 – Wikipedia
グルブッディーン・ヘクマティヤール – Wikipedia
アフマド・シャー・マスード – Wikipedia
ブルハーヌッディーン・ラッバーニー – Wikipedia
ターリバーン – Wikipedia
パキスタン軍統合情報局 – Wikipedia
ベーナズィール・ブットー – Wikipedia

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