「アラブの人々の祈りを、絶望で終わらせたりしない」(ウサマ・ビン・ラーディンの生涯 完結編)

若干の魔法少女まどか☆マギカテイストでお送りする「ウサマ・ビン・ラーディンの生涯」第三部完結編です。

・第一部「はぁいそれじゃ自己紹介いってみよう」 「あ、あの、ウ、ウサマ…ビン・ラーディンです…その、ええと…どうか、よろしく、お願いします…」
・第二部「誰かの幸せを祈った分、他の誰かを呪わずにはいられない、アラブ世界って、そういう仕組みだったんだね・・・」

第三部 「アラブの人々の祈りを、絶望で終わらせたりしない」

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第十五章 対米宣戦布告

一九九六年八月二三日、アフガニスタンに渡ったウサマ・ビン・ラーディンはついにアメリカ軍に対する宣戦布告を発表する。

「・・・イスラームの民がシオニスト・十字軍連合およびその同盟者によって科された攻撃、不法、不正に苦しめられてきたことは明らかにされねばならない。ついにはムスリムの血は安価になり、彼らの富は敵の手のなかの戦利品となるにいたった。彼らの血はパレスチナやイラクで流されている。レバノンのカナでの虐殺の恐ろしい映像は依然としてわれわれの記憶に新しい。タジキスタン、ビルマ、カシミール、アッサム、フィリピン、ファタニ、オガディン、ソマリア、エリトリア、チェチェン、ボスニア・ヘルツェゴビナでも虐殺が起きており、それらは身体や良心を揺さぶるものである。世界はこのすべてを見て、そして聞いていながら、こうした暴虐行為に対し何ら反応を示していない・・・」(注1)

彼は一世紀あまりの間続いてきた西欧列強によるアラブ世界に対する侵略と植民地支配、イスラエルによる軍事行動と虐殺の連鎖、それを見て見ぬ振りを続ける世界への怒り、その対抗手段としての米国に対するゲリラ戦とテロリズムの実行を宣言する。

ウサマ・ビン・ラーディンとタリバーンの指導者ムハンマド・オマル師はともに故アブドッラー・アッザームに深く傾倒していたが、その思想は相容れないものであった。強烈な世界革命論的反米思想のウサマに対して、あくまでアフガニスタン一国のイスラム化にこだわるオマル師。まるでかつてのウサマとその師アッザームの関係を彷彿とさせた。

オマル師はウサマにアフガニスタンに拠点を置くことを許可したが、一方で一貫してウサマの反米活動と距離を保つ姿勢を貫いていた。だが、情勢は大きく変わり始めていく。

一九九六年十一月五日。タリバーン政権の後ろ盾となっていたパキスタンのブット首相に複数の汚職容疑が浮上し、ブット政権が瓦解。対立するISIのリークによるものとも噂されていたが、実際ブット氏は西欧向けの清潔な改革者イメージとは正反対の金権政治家というのが実態で、付け入られる隙がかなり多かった(ブット氏はその後、二〇〇七年に何者かによって暗殺される)。以降パキスタンは九九年のパルヴェーズ・ムシャラフによるクーデターまでISIの傀儡政権が続くことになる。同時にユノカル社主導の天然ガスパイプライン構想も頓挫し、またカシミール紛争の激化によってアフガンからカシミールへとパキスタン政権の重要性がシフト。結果、タリバーン政権への支援は限りなく小規模なものとなっていった。

このような情勢の変化によって、まず経済的自立の必要性と長年の内戦で疲弊した農民の早期の自立のために、手っ取り早く外貨を獲得する手法としてアフガニスタンに麻薬栽培が広がっていった。また、距離を保っていたウサマ・ビン・ラーディンとの関係も、この情勢の変化とウサマの経済力が両者を近づけることになった。九七年頃、ウサマはタリバーン幹部に無条件の資金援助を申し出ている(注2)。

だが、一方で多くのテロ活動の背後にいるとされるアルカーイダに対する国際的な批判は高まっていき、彼らに拠点を提供していたタリバーンに対しても、その厳格な戒律が女性蔑視、人権軽視と見られることなども含めて批判の対象となり、孤立感が強まっていった。

九八年に入ると、一貫してタリバーン政権の後ろ盾として資金援助を行っていたサウジによってタリバーン政権の国際的孤立状態打開のため、ウサマ・ビン・ラーディンの国外退去案が内々にオマル師に提案される。話し合いは難航したものの、スーダンの時と同様にウサマにアフガニスタンから自主退去をさせる方向で合意しつつあった(注3)。どのようなスキームで行うか詳細の詰めの交渉が続けられたが、このようなぎりぎりの交渉が水泡に帰す事件が起こる。

第十六章 具現する「敵」が、その最大の「敵」を生む

アルカーイダという組織がいつから始まったかは定かではないが、九・一一のような世界規模の作戦を展開しうるだけの「動員力・資金力・組織力を持ったアルカーイダ」の始まりを示すならば、アフガニスタン現地時間で一九九八年八月二〇日午前一〇時三〇分が、そのときになるだろうか。

その日から少し遡る。一九九八年八月七日。米軍のサウジ進駐発表から丁度八年目のその日、ケニアとタンザニアの米国大使館が何者かに爆破され、二三四人が死亡、五〇〇〇人以上が負傷する事件が起きた。当初からウサマの名前がメディアや米国政府関係者の間で囁かれ、複数の容疑者が逮捕されると、ウサマの関与を仄めかす証言があったとされた。

クリントン大統領はアルカーイダに対する報復を宣言。一九九八年八月二〇日午前一〇時三〇分、ペルシア湾に展開した米艦隊から、トマホーク巡航ミサイル八十基がスーダンとアフガニスタンに向けて発射され、三基がスーダンの薬品工場を破壊、残りがアルカーイダの基地とされる軍事キャンプを破壊した。九・一一の影で忘れ去られているこの米国による大規模報復攻撃は、歴史を大きく変えていくことになる。

まず、スーダンはウサマ出国後の九六年後半以降、バシール大統領が自分の政党を持つなど権力基盤を整えて、最高権力者トゥラビとの関係が徐々に対等なものとなりつつあった。現実主義的イスラム主義者トゥラビと急進的反米民族主義者バシールとの微妙なバランスの上にあったスーダンに放たれたこの攻撃は、世論を一気に反米に傾け、権力構造を逆転させる。翌九九年、突如バシール大統領によってトゥラビが逮捕され、バシール独裁政権が誕生、追われたトゥラビ派の残党は当時紛争を繰り返していたスーダン西部の反政府勢力に支援を行い、これに対してバシール政権が本格的に軍事介入を開始。やがてジェノサイドを伴う二一世紀初頭の悲劇ダルフール紛争(二〇〇三年~)へと突入していく。

アフガニスタンにおいては、サウジとの間で続いていたウサマ・ビン・ラーディン出国交渉を頓挫させた。攻撃に恐れをなして客人を差し出す、など誇り高いアラブ世界の戦士にとって屈辱以外の何者でもない。現実主義者の政治家ならまだありえたかもしれないが、古いパシュトゥーン戦士気質のオマル師にとってはありえない選択肢であり、思想も手法も何もかも違うはずのウサマ・ビン・ラーディンと共に戦う決意を彼にさせた。

そして、この米国によるアラブ世界に対する直接攻撃はウサマ・ビン・ラーディンの地位を限りなく押し上げた。

「ビンラディン自身にとってこのミサイル攻撃は、中東で権力を握る偽善的支配者たちよりも先に米国を攻撃目標にするという決断の正しさを確認するものになった。世界中のイスラム主義活動家たちに対しては、ビンラディンが、かれらがそれまで考えていたような、サウジアラビアやエジプトあるいはヨルダンの治安当局との厳しい戦いから逃れて、遠いアフガニスタンに安住する、口先が達者で自己顕示隙の金持ちの息子ではないことを示したのだった。イスラム世界の活動家志願者たちにとって、その多くがそれまで知らなかったビンラディンは、かれらの熱望の焦点になった。このカルト的な転換は、ビンラディンとの連帯によってもたらされる象徴的存在感や物質的恩恵を各地のグループに信じさせることになった。
(中略)
アメリカは傲慢で搾取的で、仮に直接の責任がないとしても、全世界の貧しいムスリムには関心を持たない国家だと広くみられていた。パキスタン、エジプトそしていたるところで、怒った若者たちの大規模なデモがミサイル攻撃に抗議した。」(注4)

かくして、ビン・ラーディンはカリスマとなり、アルカーイダに対する資金援助が殺到、反米活動志願者が次々と彼の元に集まり、軍事拠点の提供者が続々現れて、またたく間に巨大ネットワークが形成されていった。

「無限の範囲作戦」と名付けられた一九九八年八月二〇日午前一〇時三〇分のミサイル攻撃が巨大テロネットワーク「アルカーイダ」を生み出し、テロの戦場を世界全体という「無限の範囲」へと拡大することになったのである(注5)。

第十七章 アルカーイダとは何か

アルカーイダはその実像には諸説あるが、ウサマ・ビン・ラーディンを頂点とする階層構造を持つ固定的テロ組織という見方はほぼ否定されている。では、アルカーイダとは何か?ジェイソン・バークは一九九六年から二〇〇一年ごろのアルカーイダについて以下の三つの要素に分類して整理している(注6)。

1)アルカーイダの中核

アフガン、スーダン以来ウサマ・ビン・ラーディンと行動を共にする一〇名前後の近しいメンバーと、それらを取り巻くメンバーの合計五〇名から一〇〇名前後で構成される中核組織。ウサマはアミール(司令官)と呼ばれていたが、頂点に君臨していたというわけではなくあくまで「同輩中の第一人者」という立場であったという。ウサマの組織がアルカーイダとして実体を持ち始めたのは九六年にアフガニスタンに移ってからで、それ以前は組織的な活動というよりは、目的を共有する同志と個別に結びついて実施された活動であった。

中核組織の活動はアフガニスタンに建設された軍事基地でテロリスト希望者に軍事訓練を行ったり、活動拠点を与える、資金提供、武器の調達や反米攻撃計画のアドバイスを行う、あるいは希望者に他の組織を紹介するなどテロ支援組織的側面が強い。直属のテロ実行部隊は恐らく持っていないか、小規模なものにとどまっていたようだ。バークはアルカーイダの中核組織をベンチャーキャピタルに例えている。

2)ネットワークスのネットワーク

当時、アルカーイダによ従属的な現地組織があったとは言えないという。多くの現地組織がアルカーイダの中核と緊密な結びつきを持っていたが、それぞれの組織が独立して活動しており、アルカーイダに限らずさまざまな組織同士でネットワークを形成していた。アルカーイダと同様に資金や軍事訓練、武器提供などを各々提供する組織も少なからず存在し、アルカーイダは各現地組織にとってはそれらのひとつに過ぎなかった。

だが、アルカーイダがそのような中で独自性を発揮したのが各組織間の利害調整だという。対立する組織同士の間を取り持ち、対立を解消させる。また、さまざまな組織間で不足を補い合えるよう各組織間のネットワークを結びつける、などネットワークスのネットワークとして機能することで影響力を拡大していった。

3)イデオロギーとしてのアルカーイダ

ウサマ・ビン・ラーディンの思想は概ね過去のさまざまな思想家の焼き回しで独自性は無いとされる。だが彼が他のイスラム主義活動家と大きく違うのは、その反米への拘りとメッセージ性である。ほとんどの活動家は自身が活動する地域の抑圧的な世俗政権打倒とイスラム国家の樹立を目指すが、ウサマはそのような一国革命論ではなく、アラブ諸国の不遇の諸悪の根源をアメリカに帰することで、アメリカを敵として全世界的に武力闘争を行う、世界革命を唱える。

これまでのイスラムの主流からは外れたアルカーイダというイデオロギーに共感する人々がシンパとなり、あるいは活動家になることを希望して反米闘争を担っていくことになる。「アルカーイダ」は、組織というよりは、反米闘争を意味する共通の言語として機能した。

このような特性をあらわすように、アルカーイダによるものとされるテロ計画のうち、アルカーイダ中核が構想立案したものより、個々の組織や個人からアルカーイダに持ち込まれたものの方が遥かに多いという。各グループや個人が、支援を受けたいテロ計画をアルカーイダに持ち込み、ビン・ラーディンら幹部で構成される中核の会議で支援に値するものが選ばれ、計画がブラッシュアップされ資金・人材・武器などが必要に応じて提供、実行に移され、成功の暁にはウサマがその成功を称えるメッセージをメディアに出す。このようなボトムアップ型のテロ計画のため、さまざまなテロ事件でどこまでアルカーイダがコミットして、どのテロがアルカーイダによるものと判断するかが非常に困難になっている。

第十八章 「アメリカ第二の内戦」が欲した「敵」

「無限の範囲作戦」は実施当時はそれほど大きな事件とは言えなかったはずが、年を経るごとにその結果の重大性がボディブローのように世界全体に響いていき、九・一一やアフガニスタン派兵に始まる対テロ戦争など、後年のさまざまな巨大すぎる事態に少なからず影響を及ぼしていくこととなり、外交下手のクリントン政権の外交政策の中でも屈指の失敗となった。

なぜ、クリントン政権は報復攻撃に及んだのか。それについては特に当時の米国内の政治状況が大きく影響している(注7)。

一九九二年にジョージ・H・W・ブッシュを破って大統領になったビル・クリントンだったが、一敗地に塗れた共和党が若きニューリーダー、ニュート・ギングリッジの登場で息を吹き返すと、九四年の中間選挙では共和党が宗教保守派勢力キリスト教連合の支援を受けて下院の過半数を占めることとなり、両勢力の対立はリベラルと保守という思想や信仰、文化、教育など幅広い分野へ波及、「アメリカ第二の内戦」とまで呼ばれた全米を二分する対立「文化戦争」(注8)へと発展していった。

大衆迎合的な手法で過激な攻撃を繰り返す共和党に対して、当初クリントン政権は劣勢だったが、次第に財政再建等で成果を出し、反転攻勢に出るとともに、ギングリッジの過激な言動に嫌気がさしていた有権者が共和党離れを起こし、キリスト教連合の内紛など敵失によって九六年の大統領選に再選。攻め手を失いかけていた共和党はついにクリントンに対する人格攻撃やスキャンダル攻撃を繰り返すようになる。

そのような中で九八年一月に飛び出したのがクリントン大統領とホワイトハウス実習生モニカ・ルインスキーの性的スキャンダルだった。大統領の「不適切な関係」はメディアを大きく賑わし、それまでクリントンが優位に立っていた共和党との力関係は微妙なものとなっていっていた。

一九九八年八月一七日、ついにクリントン大統領は弾劾裁判にかけられ、辛うじて大統領辞任は免れたものの、非常に追い詰められていた。さらに、同年の一一月には中間選挙を控えており、次の中間選挙で共和党が過半数を占める下院で再逆転をしなければ、追い詰められていた共和党と解体寸前だった同党の支持母体である宗教保守派が息を吹き返し、再び苛烈な「文化戦争」が再燃する恐れがあった。どんな手を使ってでも、支持を回復させねばならぬ。次の選挙に勝たねばならぬ・・・民意を得るためにてっとり早いのは敵をつくり、その敵に一撃を加えて、自身が強い指導者であると訴えることだ・・・アメリカもまた「誰かの幸せを祈った分、他の誰かを呪わずにいられない」呪縛から自由ではなかった。

九八年一一月の中間選挙は民主党の大勝に終わり、ギングリッジは失脚、キリスト教連合を中心とした宗教保守派は解体し、国内を二分した対立「文化戦争」も終息する。あくまで結果論だが、当時共和党の組織力は大きく減退しており、おそらく軍事的冒険に出なくても民主党は中間選挙に勝利していた可能性が高い。だが、藁をも掴む思いがクリントン大統領に報復攻撃という選択肢を選ばせた。

かくしてクリントン政権は国内政治の勝者として最後の安定期に入った・・・彼らの目には”まだ”見えなかっただろうが、それはあまりにも大きな犠牲と引き換えのかりそめの平和であった。

第十九章 9.11

二〇〇一年九月一一日。

アメリカン航空一一便、同七七便、ユナイテッド航空九三便、同一七七便の四機の民間航空機がハイジャックされ、午前八時四十六分、アメリカン航空一一便がニューヨーク世界貿易センターに突入、続いて午前九時三分、ユナイテッド航空一七七便が突入し。この二度の突入によって同ビルが崩落、午前九時三八分、アメリカン航空七七便がアメリカ国防総省に激突、 ユナイテッド航空九三便はホワイトハウスまたは米国議会議事堂を狙ったと推測されるが、勇気ある乗員乗客らの抵抗によって失敗。だが、午前一〇時三分、なんらかの理由で墜落する。
この同時多発テロ事件は一般市民ばかり三〇〇〇人近い死者と六〇〇〇人以上の負傷・行方不明者を出す大惨事(注9)となり、世界に衝撃を与え、そして悲しみに包まれた。一般市民を狙った無差別攻撃というこの行為に対して、欧米だけでなく、イスラム諸国からも非難の声があがった。いかに憎しみあう国や勢力同士であろうとも、無辜の民を狙うことが正当化されるはずがない。

だが、一〇月七日、ウサマ・ビン・ラーディンは実行犯を称える声明を発表する。

「アメリカが今、味わっているのはわれわれが何十年にもわたって味わってきたものと比べれば取るに足りないものだ。われわれの共同体はこの屈辱を、この没落を八〇年以上にわたって味わってきたのである。(中略)何百万もの無辜の子どもたちが殺されている。彼らはイラクで何ら罪を犯していないのに殺されている。われわれは為政者たちからそれを非難する声があがるのを聞いたこともなければ、ファトワーが出されたことも聞いたことがない。最近ではイスラエルの戦車がパレスチナのジェニーン、ラーマッラーなどイスラームの地を蹂躙している。にもかかわらず、誰も声をあげたり、行動に出たりするものはいない。」(注10)

憎悪と怒りが、決して超えてはならない一線を超えた瞬間だった。ウサマが嘆く「何ら罪を犯していないのに殺されている」「何百万もの無辜の子どもたち」と同様に、九・一一で犠牲になったのも、「何ら罪を犯していない」無辜の市民たちなのだ。その犠牲者の死を喜び、イスラーム共同体全体の意思であるかのように振舞うなど、イスラム世界においても常軌を逸したと捉えられるこの声明は、確かに極一部の人々には共感を持って迎えられたが、絶頂期にあったウサマ・ビン・ラーディンからアラブの大多数の人々を離れさせるに足りるものだった。

その後の様々な調査・研究の結果、計画立案者として二〇〇三年にパキスタンで逮捕された無所属の反米活動家ハーリド・シェイフ・ムハンマドが事件で主犯的な役割を担っていた趣旨の自供をしたという。彼が独自に米国本土での航空機を用いた攻撃計画を計画立案し、九八年から九九年のある時期にアルカーイダに持ち込み、その支援の下で実行に移したと考えられている(注11)が、現時点で九・一一の計画・実行にアルカーイダの関与があったとされる明確な証拠はみつかっていない。

第二十章 憎悪の概念としてのウサマ・ビン・ラーディン

ウサマ・ビン・ラーディンの思想の本質は、二項対立にある。「我々」と「彼ら」を峻別し、ムスリムを我々とし、非ムスリムを彼らとする。そして、ムスリムは味方であり、非ムスリムは敵であり、この非ムスリムという敵を排除していくことこそが、ムスリムの幸福につながるという、イスラムの寛容とは異質の極端な単純化は、民主主義諸国で多く見られるポピュリズム運動と類似した排他的な思考様式だ。

この二項対立的思考は、当初ウサマの中では小さなものであった。しかし、彼の活動の範囲が広がり、多くの人々を巻き込み、世界全体を見ていくうちに、そして数多の悲劇を目の当たりにするうちに肥大化していった。パレスチナで、アフガニスタンで、エジプトで、サウジアラビアで、スーダンで、ヨルダンで、ソマリアで、パキスタンで・・・次々と倒れていく同胞の悲劇、なぜ「われわれ」はこのような目にあわなければならないのか、その問いに見合う答えとして、彼の中に巨大なアメリカという敵が形作られていく。「彼ら」が、「彼ら」の侵略こそが、諸悪の根源なのではないかと。憎悪が憎悪を呼び、なぜ憎んでいるのかもわからなくなるほど憎むうちに、かつて「天使のような男」と呼ばれた一人の男ウサマ・ビン・ラーディンは憎悪の概念としての「ウサマ・ビン・ラーディン」へと変わっていった。

「初期のころの彼の哲学は、小さなコアの部分に自分がいた。それ以外は敵、すくなくとも「自分ではないもの」であった。ところが、しだいに「自分」は肥大化し、ついには世界を二分するまでになってしまった。ここまでくると、おそらく自分で自分を制御することは不可能であろう。オサマ・ビンラディンはオサマ・ビンラディンではなくなってしまったのである。一方にはオサマのテロを支持するものがいて、その一方にはそれを非難するものがいる。支持するものは味方であり、非難するものは敵である。味方の世界は欺瞞のない信仰の世界であり、敵の世界は不信仰の世界である。
(中略)
オサマのテロをきっかけにこの断層、亀裂は世界規模に拡大する。世界はオサマか非オサマのいずれかになろうとしている。はたしてこれがオサマ自身の望んだ世界だったのか、彼が求めた世界であったのかはわからない」(注12)

憎悪の概念となった「ウサマ・ビン・ラーディン」はウサマ・ビン・ラーディンではなくなった。

第二十一章 「不朽の自由作戦」とアフガニスタンの未来

巨大なテロという惨劇に見舞われたアメリカの人々もまた、なぜ「われわれ」はこのような目にあわなければならないのか、という問いを投げかけずにはいられなかった。その真摯な、しかし容易には答えがみつかることのない問いに、「敵」という答えが用意される。

ブッシュ政権は成立当初から脆弱な体制であった。クリントン政権との熾烈な政争の結果、共和党の組織力はガタガタで、二〇〇〇年の大統領選はゴアとの政策的対立点も見つけられないまま、史上まれに見る僅差での決着となっていた。ぎりぎりで大統領になっていたが再選はほぼ不可能に近い状態だったであろう。どうするか・・・クリントンがそうであったように、ブッシュもまたこう考える。「どんな手を使ってでも、支持を回復させねばならぬ。次の選挙に勝たねばならぬ・・・民意を得るためにてっとり早いのは敵をつくり、その敵に一撃を加えて、自身が強い指導者であると訴えることだ」・・・報復という軍事的冒険の甘美な誘惑に抗えなかった。そして、イスラムとの宗教対立的側面を煽ることで、かつて共和党の足腰となっていた宗教保守派の組織力を再構築する戦略を彼は採っていく・・・。

九・一一がアルカーイダの仕業であるという確固とした証拠は無かったが、ウサマ・ビン・ラーディンとその一派は九・一一を実行した組織としてアメリカと、その同胞である西欧諸国が戦うべき敵とされ、彼をかくまうタリバーン政権もまた、悪のテロ支援国家とされた。かくして、アメリカとイギリスを中心とした多国籍軍による対アフガニスタン総攻撃「不朽の自由作戦」が始まる。圧倒的な力でアフガニスタンを統一したタリバーンは、それとは比較にならないほどの巨大な力で蹂躙され、一ヶ月あまりで完全に瓦解、オマル師は行方不明、ウサマ・ビン・ラーディンも逃亡する。

タリバーン政権崩壊後のアフガニスタン体制について国連主導で各民族の代表がドイツのボンに集められ、ザーヒル・シャー元国王の側近だったハーミド・カルザイを議長とする暫定政府の設立などが取り決められた。将来の指導者にはかねてから”バンジシールの獅子”と呼ばれ人望も厚く、長くアフガニスタンのために戦い続けたマスード司令官を推す声が大きかったが、彼は二〇〇一年九月九日、テロの犠牲となってこの世にいなかった。

二〇〇二年六月一一日。首都カーブルにおいて、民族、宗教、部族、言語などの壁を超えた一六〇〇人の代議員が集められ、アフガニスタンの伝統に則った大会議ロヤ・ジルガが開催される。パシュトゥーン人のカルザイは融和の象徴としてタジク人の民族帽子で現れた。そして彼らが最大の敬意をもって迎えたのが元国王ザーヒル・シャーだった。八七歳の老王は王政復古の声を断り、一国民として帰国していたのだった。「国父」と呼ばれた彼は、各勢力が様々な壁を越えて熱心にアフガニスタンの将来を語り合うロヤ・ジルガの様子を静かに見守る。遠回りというには余りにも残酷な、言葉にならないほどの悲劇が繰り返されたが、おそらく彼がかつて望んだアフガニスタンの未来が――多国籍軍の力によって与えられたものではあったけれども――そこにあったのだろう。アフガニスタン王国最後の国王は二〇〇七年七月二十三日、カーブルで九二年の波乱の生涯を閉じた(注13)。

紆余曲折あり、アメリカの影響下ではあるが民主化の体制へと以降したアフガニスタンだが、困難な課題が山積する。ボン合意に反対するヘクマティアルは、かつての仇敵タリバーン勢力と同盟し反政府活動を活発化。タリバーンもカルザイ政権と米軍駐留への不満を強く持つ人々の受け皿となって二〇〇五年以降急激に勢力を盛り返し、アフガニスタンだけでなくパキスタンにも広がって草の根運動としてかつてないほどの全盛期を迎えつつある。また、カルザイ政権は政権内部で汚職など腐敗が進行し、また地方軍閥や旧部族が再び力をつけて中央政権を脅かす。そのような中で米軍は段階的撤退を発表。未だ、それら解決の糸口すら見えない。気の遠くなるほどの難問が山積するなかで、それらを一つ一つ、解決していかなければならない。そのプロセスは、五〇年前に同国が行おうとして挫折した道のりだ。絶望の連鎖の中で、再び希望を見出そうとする、決して絶望しないという挑戦が続く。

最終章 「最後に残った道しるべ」

二〇一一年五月二日。パキスタンの首都イスラマバードの北東六〇キロにある都市アボタバードの郊外ビラール地区。三階建ての邸宅にウサマ・ビン・ラーディンが潜伏しているとの情報を得た米国政府は殺害計画を立案、この日実行に移した。午前一時、米海軍特殊部隊が突入を開始し、四〇分あまりの後、ウサマ・ビン・ラーディンと、男性三名、女性一名を殺害。同作戦においてはウサマ・ビン・ラーディンは西部開拓時代にアメリカの侵略に徹底的に抵抗して、罠にかけられて捕らえられたアパッチ族の戦士になぞらえて「ジェロニモ」と呼ばれた。殺害の報を受けたバラク・オバマ大統領は”We got him!”と叫び、その後の世界に向けた演説で「正義は達成された」と胸を張り、その「敵」の死に多くの人々が歓喜した・・・(注14)

一九七〇年代以降、低成長時代の到来、人口動態の変化にともなう既存の利益集団に所属しない中間層の登場、グローバリゼーションの進展など先進諸国の間で起こったさまざまな構造変化は、「狭くて深い」利益集団内での合意を前提とする政治から、「広くて浅い」不特定多数の人々へのアピールを重視する政治へと政治のあり方を大きく転換させる。政府・行政の役割は限られた資源をなるべく広く浅く分配するために効率化されプラットフォーム化されるため、政策の重要性は低下。政治家はそのような中間層にアピールして他者と差別化を図るため小さな差異の強調という手法を取るようになる。

政治家たちによって語られる、何もかもが流動化する現代において、私こそがあなたがたに夢や安心という物語を提供するのだ、私こそがあなた方そのものなのだというアピールは、「われわれ」として語られ、その言葉に人々は自身を重ねて政治家に力を与える。曖昧な「われわれ」は、「かれら」の創出によってはじめて作られる。既得権益という「かれら」、自由を脅かす「かれら」、異なる宗教・文化に属する「かれら」。「かれら」と「われわれ」の小さな差異を殊更大きく強調する手法がやがて「かれら」を「われわれ」の「敵」へと変化させる。多様な人々の共存を目指し、敵と味方の区別無い世界を目指して作られた民主主義体制は、発展していく過程で「敵」を求めずにはいられない仕組みへと変化してきたのであった(注15)。

ウサマ・ビン・ラーディンの思想がアメリカという「敵」を作ることで、イスラーム共同体の人々に「われわれ」という連帯感を提供しようとするように、民主主義諸国もまた「敵」を作ることで、「われわれ」という安心感を提供する。そして、「敵」があることで、そして「国民」が「敵」へと向ける憎悪によってはじめて政治家が力を持ち、政治が活性化していく。ウサマ・ビン・ラーディンは現代社会が生んだもう一つの「われわれ」の姿だといえる。

ウサマ・ビン・ラーディンの死は、われわれに問う。なぜ「敵」を求めるのかと。なぜ誰かに「憎悪」を向けずにいられないのかと。それはわれわれが「誰かの幸せを祈った」結果なのではないか。われわれ一人ひとりのささやかな希望を、誰かへの憎悪へと変える仕組みをわれわれは図らずもこの手で作り上げてきた。

もういちど希望を問い直す。それこそが、ウサマ・ビン・ラーディンの生涯が語りかける最大の課題ではなかろうか。十七世紀の哲学者バールーフ・デ・スピノザはこう言ったという。

「嘲笑せず、嘆かず、呪わずに、理解する」(注16)

われわれが排除せずには、憎まずにはいられない「かれら」をこそ、理解しようとする挑戦、それこそが「悲しみと憎しみばかりを繰り返す救いようのない世界」で「最後に残った道しるべ」なのではないだろうか。何があっても決して絶望しないこととは、まさに他者を「嘲笑せず、嘆かず、呪わずに、理解する」という単純だが多大な困難を要することへ挑戦することなのではないか。

自己を犠牲にしてわれわれをどこかへ導いてくれる救世主は決してあらわれない。ただ、一人ひとりの不断の努力によってしか、われわれの陥った希望と絶望の袋小路から抜け出す方法は無い。その不断の努力こそが「因果律ならぬ世界秩序そのものへの反逆」であると思う。
ウサマ・ビン・ラーディンを、「敵」という概念への憎悪を乗り越えて、誰もが誰かの希望になる、そんな未来へ。

「あなたは希望を叶えるんじゃない。あなた自身が希望になるのよ。私達、全ての希望に」(魔法少女まどか☆マギカ12話)

(終)

(注1) 保坂修司著「新版 オサマ・ビンラディンの生涯と聖戦 (朝日選書)」(P149~150)
(注2) ジェイソン・バーク著「アルカイダ ビンラディンと国際テロネットワーク」(P286)
(注3) バーク著(P289~290)
(注4) バーク著(P283~284)
(注5) バーク著(P282~285)
(注6) バーク著(P40~50)
(注7) クリントン就任から二〇〇〇年代初頭のアメリカの政局については「1994年、アメリカ合衆国議会中間選挙。民主党、歴史的大敗。」及び中岡望著「アメリカ保守革命 (中公新書ラクレ)」、飯山雅史著「アメリカの宗教右派 (中公新書ラクレ)」参照
(注8) 文化戦争については「アメリカ第二の内戦「文化戦争”Culture War”」 | Kousyoublog」及び蓮見博昭著「宗教に揺れるアメリカ―民主政治の背後にあるもの」参照
(注9) 保坂著(P193~203)、バーク著(P354~355)、アメリカ同時多発テロ事件 – Wikipedia
(注10) 保坂著(P202~203)
(注11) 保坂著(P228~232)
(注12) 保坂著(P209)
(注13) ボン合意以降のアフガニスタンについては渡辺光一著「アフガニスタン―戦乱の現代史 (岩波新書)」(P209~218)
(注14) 保坂著(P221~222)、ウサーマ・ビン・ラーディンの死 – Wikipedia
(注15) 七〇年代以降の構造変化と現代ポピュリズムの登場については吉田徹著「ポピュリズムを考える―民主主義への再入門 (NHKブックス No.1176)」、流動化する現代政治の小さな差異の強調、プラットフォーム化についてはリチャード・セネット著「不安な経済/漂流する個人―新しい資本主義の労働・消費文化」参照、またアメリカの七〇年代以前のポピュリズムの例として「「永遠に差別を!」米国を分断した政治家ジョージ・ウォレスの生涯 | Kousyoublog
(注16) スピノザの言葉は竹内洋著「社会学の名著30 (ちくま新書)」(P8)より引用

全参考書籍一覧
・保坂修司著「新版 オサマ・ビンラディンの生涯と聖戦 (朝日選書)
・ジェイソン・バーク著「アルカイダ ビンラディンと国際テロネットワーク
・渡辺光一著「アフガニスタン―戦乱の現代史 (岩波新書)
・宮田律著「中東 迷走の百年史 (新潮新書)
・藤原和彦著「イスラム過激原理主義―なぜテロに走るのか (中公新書)
・小杉泰著「イスラームとは何か (講談社現代新書)
・内藤正典著「イスラーム戦争の時代―暴力の連鎖をどう解くか (NHKブックス)
・広河隆一著「パレスチナ新版 (岩波新書)
・井筒俊彦著「イスラーム文化-その根柢にあるもの (岩波文庫)
・J.=F. ゲイロー、D. セナ著「テロリズム―歴史・類型・対策法 (文庫クセジュ)
・アラン・B・クルーガー著「テロの経済学
・小川忠著「原理主義とは何か―アメリカ、中東から日本まで (講談社現代新書)
・山内昌之著「民族と国家―イスラム史の視角から (岩波新書)
・吉田徹著「ポピュリズムを考える―民主主義への再入門 (NHKブックス No.1176)

参考サイト
魔法少女まどか☆マギカ WIKI – ネタバレ考察/台詞集
ウサーマ・ビン・ラーディン – Wikipedia
アフガニスタン紛争 (1989年-2001年) – Wikipedia
アフマド・シャー・マスード – Wikipedia
ベーナズィール・ブットー – Wikipedia
アルカーイダ – Wikipedia
アメリカ同時多発テロ事件 – Wikipedia
対テロ戦争 – Wikipedia
ウサーマ・ビン・ラーディンの死 – Wikipedia
不朽の自由作戦 – Wikipedia
ハーミド・カルザイ – Wikipedia
ザーヒル・シャー – Wikipedia
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