ナショナリズムを考える基本としての四類型と日本の単文化主義

アーネスト・ゲルナー著「民族とナショナリズム
「ナショナリズムとは、第一義的には、政治的な単位と民族的な単位とが一致しなければならないと主張する一つの政治的な原理である。」(P1)
「端的に言って、ナショナリズムとは、エスニックな境界線が政治的な境界線を分断してはならないと要求する政治的正統性の理論であり、なかんずく、ある所与の国家内部にあるエスニックな境界線によって――これは原理を一般的に定義したときに、正式にはすでに排除された偶発的なケースではあるが――権力の握るものが他の人々から切り離されてはならないと要求するそれである。(P2)

塩川伸明著「民族とネイション―ナショナリズムという難問 (岩波新書)」(P22-26)によると、以上のアーネスト・ゲルナーによるナショナリズムについての定義を前提として政治的単位=国家の領域と民族的な範囲=ある民族の分布範囲の空間的な大小関係を基準とした場合、以下の四つの類型があげられるという。本書とは第三類型と第四類型を入れ替えて、特に第四類型を中心に紹介し、第一、第二、第三については簡単に概要のまとめ。

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1)第一類型

ある民族の分布範囲よりも国家の領域が小さく、複数国家分立状況である場合。

細かく分かれている場合、一九世紀のドイツ統一運動やイタリア統一運動、一九五〇~六〇年代の汎アラブ主義運動など「民族統一運動」が発生する。ある程度の統一を成し遂げているが、当該民族と同系統の民族がまとまって住む地域が領域外にある場合、領土奪還や回復を求める「失地回復運動」が発生するか、領土まで求めずとも「在外同胞の保護」を求める動きになる。

2)第二類型

ある民族の居住地域が他の民族を中心とする大きな国家の一部に包摂され、少数派となっている場合。

この場合、これまで属していた国家からの「分離独立運動」か、その国家内での「政治的自治権獲得運動」、あるいは緩やかに連邦制・文化的自治を求める動きになる。ただし、このような少数派が複数の国家にまたがって存在する場合、第一類型と第二類型の組み合わせで、既存国家からの分離独立と複数国家にまたがる民族統一の双方を求める運動になる。この顕著な例として現在のトルコ・イラン・イラクなどにまたがるクルド・ナショナリズム、ドイツ・オーストリア・ロシアに分割されていたポーランド独立運動などがある。

3)第三類型

ある民族が広い空間的範囲にわたってさまざまな国に分散居住しており、どの居住地でも少数派という場合。

差別や迫害、虐殺によってディアスポラ化したユダヤ人、華僑、印僑、イスラエル建国によって土地を追われたパレスチナ人、トルコ人による虐殺やソ連侵攻などで国を失い世界中に散ったアルメニア人などがその例で、本国を持つ華僑、印僑は別として、多くの場合ナショナリズムの展開はシオニズムなどのように「本国建国」を求める運動になるか、本国とのつながりを維持・強化しようとする「遠距離ナショナリズム」が発生する。

第一から第三類型であげられる少数派民族はナショナリズムまで行かずとも、まずは既存の居住国家内で諸権利の獲得を重視する「公民権運動」が展開され、それらがナショナリズムへと発展することが多い。

4)第四類型

ある民族の分布範囲と特定の国家の領土がほぼ重なっている場合。

特に顕著な例として日本である。ほぼ重なっていると言ってもまず民族と領域の完全な一致は考えにくいので、まず第一類型と第二類型の変形として、「在外同胞の保護」問題(中国残留孤児問題、日系ブラジル人・日系アメリカ人など)や「国内少数派民族」(アイヌ、琉球、在日韓国・朝鮮人など)の問題を抱えることになる。第四類型の場合、第一~第三のような対外的なナショナリズム運動よりも、対内的なナショナリズムが発生しやすい。

塩川著(P24)
より重要なのは、国家の範囲と民族の範囲が基本的に合致するとみなされているような国でも、「われわれは一つの民族である(はず)にもかかわらず、その一体性を十分自覚していない連中がいる。そういう連中の民族的自覚を高め、われわれの一体性をもっと強めねばならない」という考えが発生することがあるという点である。

特に、対外的に種々の競争ないし対抗関係におかれているときに、「こうした国際競争に勝ち抜くためには、国民=民族としての団結をもっと強めなければならない」という形のナショナリズムが生じやすい。

「国民=民族の一体性」は単純なように見えて、その実、様々な要因が複雑に絡み合った結果として誕生する。

■「エスニシティ」「民族」「国民」の違い

まず「エスニシティ(エスニック・グループ)」という社会集団の概念がある。「血縁ないし先祖・言語・宗教・生活習慣・文化」などを共有する仲間であるという主観的な意識が広まっている集団で、必ずしもそれぞれの共有する観念が客観的であるとは限らず、また共有しているとされる各要素について一律に存在するものではない。だが、これらを共有していない人々は他者であるという観念もまた共有している集団であるといえる。何にしろ単一指標でエスニシティかどうかを定義することは不可能であり、「多義性・可変性・重層性・流動性」を持つ他面的な現象であるとされる。

民族」はエスニシティを基盤として醸成された「われわれ」意識を持つ一つないし複数の集団が「一つの国ないしそれに準じる政治的単位を持つべきだという意識が広まった」ことで成立する集団を指す。このエスニシティと民族の区別はそのまま独立国家を持つ資格と直結するため、非常に政治的で恣意性を帯びることになる。「民族」の一つの指標として同じ言語を持つ集団を民族とみなす場合がある。だがどこまでが言語でどこからが方言なのかの区別は言語学的にではなく、政治的に決められることが多く、一律に明確な基準があるわけではない。同じ言語を使用していても、文化や宗教的差異・居住地域によって主に政治的理由から民族が分けられる例も少なくなく、「民族」はエスニシティを基礎としつつも、ほぼ虚構として「人工的に作られる」集団であるといえる。

国民」は「ある国家の正統な構成員の総体」であり、国民主権論と民主主義観念を前提とする場合、あわせて「その国の政治の基礎的な担い手」と定義される。ゆえに「必ずしもエスニックな同質性をもつとは限ら」ず、むしろ「文化・伝統の共有と近代国家の制度的枠組み」とは「一致しない方が通常である」(塩川(P7-8))。だが、フランス革命以後のヨーロッパ社会における「国民国家」の成立は強大なフランス軍への対抗のため、国民的団結を創出する必要性を生じさせた結果として登場する。

塩川著(P41)
「国民の一体性」という観念は、現実にはそれほど広く分かちたもたれたわけではない。しかし、それでも、いったん「国民国家」という自己意識をもった国家が登場すると、その国家が共通語(国家語)形成、公教育の整備、国民皆兵制度などを推進し、「国民」意識を育成するようになる。そのような政策がとられ出した後も、「国民の一体性」という観念は文字通り全国民に共有されるわけではなく、しばしば国民の中での亀裂が問題となるが、そうした亀裂をできるだけ覆い隠し、あたかも一体性が存在するかの如き外観が整備されていく。このようにして成立するのが「国民国家」である。

このようにして国民が民族的共通性を帯びる「国民の民族化」と呼ばれる現象は、国民と民族とを重ね合わせる一方で、完全に網羅することは出来ず、その国民と民族との齟齬や少数派の切捨て、反発などを包括した現象が「民族問題」である。

このように「エスニシティ」「民族」「国民」という元来必ずしも一致しないはずの個々の要素があたかも一致するかのように見える現象としての側面がナショナリズムの最大の特徴として存在し、それはまるで当然のことであるかのように偽装されて、それを共有していない人々を「われわれ」ではない「かれら」として排除することになる。

■民族宗教と民族

宗教の分類の一つに民族宗教と言うものがある。血縁的・地縁的つながりに基礎を置き、個人的な選択の余地なく生まれながらにしてその宗教の信徒であるとされるもので、たとえばユダヤ教やトーテミズム、日本の神仏分離以前の民間信仰などがある。民族宗教は「共同体の聖性を中心に成立」し、「集団の成員相互の間に社会的な連帯性を高め強めるはたらきをもつ」(脇本平也著「宗教学入門 (講談社学術文庫)」P316-317)。民族宗教における連帯性とは共同体を構成する成員共通の血の絆のことであり、「共同体をして共同体たらしめるこの血の絆」を聖なるものとしている。

「民族」もまた同様に「エスニシティ」という血縁や信仰、文化など社会的連帯性を前提としてそのつながりが生まれながらに存在するものとして認識され、共同性を重視する点で民族宗教と強い類似点がある。「民族宗教」が他の宗教と違う最大の点は、生まれながらにして信者であるから、「布教」という概念が存在しないことで、信者であるにもかかわらず、信仰態度や理解が薄い人々に対しては布教ではなく「教育」という手法がとられることになる。

上記の「われわれは一つの民族である(はず)にもかかわらず、その一体性を十分自覚していない連中がいる。そういう連中の民族的自覚を高め、われわれの一体性をもっと強めねばならない」という考え方はまさに、同じ民族であるなら、この「民族」が共有している文化・習慣を生まれながらにして理解し、共有しているべきものであるという前提に立つ。例えば米国の宗教右派が公教育における祈りや進化論教育を重視するのも、アメリカ人は生まれながらにしてピューリタン的宗教観を共有しているはずだという民族宗教的認識を背景としているから、教育という手法が重視されることになるし、日本でも公教育における道徳教育というように、ナショナリズム運動において民族の共同性は教育という手法で広めようとする。同様の理由で公教育とともに、血縁共同体である家族もまた社会的・民族的共通性の教育の場として重視されることになる。

■単文化主義の国、日本

英国の社会学者でリバプール大学教授ジェラード・デランティの「コミュニティ グローバル化と社会理論の変容」はおよそこれまでの様々なコミュニティ概念――アリストテレス、テンニース、デュルケームなどからはじまって、コミュニタリアン、都市コミュニティ、ポストモダンコミュニティ、多文化主義、コスモポリタニズムなどありとあらゆると言っていい――について総合的に体系立てて解説したコミュニティ論入門の良書だが、その多文化主義の章で多文化主義の対極として単文化主義の特徴がまとめられ、その単文化主義を取る国の例として日本をまず挙げている。

ジェラード・デランティ著「コミュニティ グローバル化と社会理論の変容」(P131)

厳密に言うと、単文化主義は多文化主義とは正反対のものである。というのも、それが、政治的アイデンティティを支配的なエスニック文化のアイデンティティと同一視することで、多数派の文化的アイデンティティを特権化するからである。それは事実上、文化的多様性の否定である。日本のシティズンシップ(市民権)は今日もなお、その資格要件として、エスニシティと国籍を同一視することに大きく依拠している。

例えば、アメリカ国籍を取得したポーランド系移民はポーランド系アメリカ人と呼ばれるが、日本国籍を取得したフランス人はフランス系日本人と呼ばれることはめったになく、社会通念上日本人であることにエスニシティが強く影響している。国籍取得に関して多くの国が出生地主義または血統主義と出生地主義の混交政策を取る中、日本、韓国など一部の国においては基本的に血統主義のみを取っており(日本の国籍法では例外として日本で生まれ、かつ両親の国籍が不明の場合のみ出生地主義で国籍が与えられる)、法的な影響とともに、上記の第四類型に見られるような国民と民族の一致や同化政策を背景とした文化形成の歴史が単文化主義化を強く促している。

多くの国の場合、上記の分類のように国民であること(市民権)と民族・エスニシティとは分離して捉えられており、これらが一致して捉えられるのは現代ではまれである。日本語ではnationの翻訳語として「国民」と「民族」が使い分けられるが、英米仏ではnationまたはそれに類する言葉は「国民」としての意味が強く、独露では「民族」としての意味が強まるという。

ただし、ここで日本を単文化主義の国と一様に捉えてしまうと、それもまた一時流行となった日本特殊論同様の自民族主義の罠に陥ってしまう可能性がある。単文化主義的に見える日本像はいわば「あたかも一体性が存在するかの如き外観」の整備された結果であって、その実覆い隠された亀裂が幾重にも存在しているというのが現状であると言えるだろう。

これまで簡単にまとめたような、ナショナリズムをめぐる多様な捉え方を踏まえて、亀裂を覆い隠すために緊張の糸で紡がれた日本という一体性を考え直す必要が高まりつつあると思う。「国家」「民族」「文化」を考えるスタートラインに立つための基本のキとして、このナショナリズムをめぐる基礎知識の整理は一度しておきたかったというエントリ。

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