近代の序章としての三十年戦争 第一部「ボヘミア反乱~デンマーク戦争」

タイトルは主に参考にした菊池良生著「戦うハプスブルク家 近代の序章としての三十年戦争」から。三十年戦争の大きな流れについて全三回(第二部スウェーデン戦争、第三部フランス戦争、ウェストファリア条約)で更新予定です。

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序章

三十年戦争」は一六一八年から一六四八年にかけて全ヨーロッパを巻き込み神聖ローマ帝国を主戦場として行われた、多くの犠牲を出すことになった大規模戦争である。しかし、当時の諸国の戦争遂行能力は「五年が限度」(注1)であり、三十年戦争の期間に行われていたのは三〇年間続いた戦争ではなく「十三度の戦争と十度の平和条約」(注1)であった。この神聖ローマ帝国を主戦場として行われた複数の戦争を「三十年戦争」とひとまとめにする定義が一般的になったのは、一九世紀(注2)のことだという。

一九世紀末、ビスマルクによってドイツ帝国が打ち立てられていく過程で三十年戦争というドイツの文化、制度の荒廃をもたらした諸悪の根源としての悲惨な戦争という歴史的神話は、政治プロパガンダとして非常に都合が良いものであり、対仏、対墺戦争や対カトリックの文化戦争、さらにはプロイセンの対外膨張政策に大いに利用され、ドイツ・ナショナリズムの形成に強く影響を与えることになった。

三十年戦争の悲惨さを強調すればするほど、オーストリア・ハプスブルクによる「ドイツの自由」圧殺攻撃に独り抗し、またフランスの介入をはねのけ、さらにはローマ教会の法王至上主義を粉砕した「プロテスタント・ドイツの守り主プロイセン」像がひときわ輝かしく浮かび上がってくる(注3)

真実は、ブランデンブルク=プロイセンは三十年戦争の末期、のちの大選帝侯フリードリッヒ・ヴィルヘルムの登場までひたすら無力であり、「プロテスタント・ドイツの守り主プロイセン」の面影などどこにも無く、ただ諸勢力の狭間で蹂躙され、翻弄され、成されるがままに流され続けていた。最後のウェストファリア条約の会議の前後に影響力を発揮したに過ぎない。だが、この三〇年間の戦争がその後の歴史の流れに大きな影響を与えたことも事実で、近代から現在まで続く主権国家による国際秩序が最後の講和条約の名を取ってウェストファリア体制と呼ばれているように、これを神話と切り捨てるのもまた困難だ。諸説あるとしても、神話を神話として語るのもまた意味があるだろう。これは近現代をかたちづくる神話についてのお話である。

第一章 三十年戦争前史

神聖ローマ帝国は九六二年、ドイツ王オットー一世の戴冠に始まり、西ローマ帝国の後継帝国であるとされる。だが、その前史として伝説のフランク王カール大帝(シャルルマーニュ)が西ローマ帝国皇帝を僭称した西暦八〇〇年が古くからその始まりとして重要視されてきた。現在のドイツ、フランス両国を版図としたカール大帝の王国は、フランス王国、神聖ローマ帝国両国に王朝が代わろうとも、脈々と我こそがカール大帝(シャルルマーニュ)の後裔であるという幻想を抱かせていた。この幻想は一六世紀、大帝と同じ名を冠するハプスブルク家カール五世による神聖ローマ帝国・スペイン同君連合の成立により一時的に現実のものとなる。カール五世の退位後再び両国は分裂するが、全ヨーロッパを傘下とする帝国は実現可能なものであるように感じられるようになっていた。

フランス王国もまた、シャルルマーニュの後裔として、ハプスブルク家の野心を打ち砕き、自国が全欧帝国を打ち立てることを夢想する。両国だけではない。スウェーデン王国もまた古ゴート主義というカール大帝以前ゲルマン人によるヨーロッパ支配の時代があったという神話に囚われていた。

中世国家は元来領土の概念が希薄で、「帝国」ともなると多少の矛盾はそのまま包摂する曖昧さを持っていたので、このような普遍主義は登場しにくいものである。だが、中世も後期になると封建諸侯が発展し領地・領土に対する意識が強化されており、その領域概念を反映する新しい帝国概念の登場が促される。その結果として、フランス普遍主義、ハプスブルク普遍主義、古ゴート主義など自家の繁栄がそのまま全ヨーロッパの平和であると観念する普遍主義が当時の各国王家に広がっていた。この、”それぞれの正義に対する心酔”はヨーロッパ全体を対象としているため、やがて激突せざるを得ないものであり、ひとたび激突すれば苛烈を極めることになった。三十年戦争の最中の一六二五年、近代国際法の父グロティウスはその著「戦争と平和の法」でこのように書いている。

「キリスト教世界全体を通じて、野蛮人でさえ恥としなければならないような戦争に関する抑制の欠如が見られること、そして些細な理由から、あるいはまったく理由がないのに、人々は武器に訴えるのに急であり、ひとたび武器が取られたなら、神の法も人の法もまったく無視されることを、私は見た。」(注4)

妥協無き普遍主義の広がりを背景としつつ、三十年戦争直接の火種は宗教戦争にあった。一五一七年、マルティン・ルターの登場を契機として全欧を席巻するカトリックとプロテスタントの対立は、改宗したプロテスタント諸侯とカトリック諸侯・ローマ教会連合との争いになっていき、各地で宗教戦争が勃発する。一五四六年、神聖ローマ帝国においてもカトリックを支持する皇帝とプロテスタント勢力の戦争シュマルカルデン戦争が起き、一五四六年と一五五四年の二度の戦火の後、一五五五年、ルター派の信仰を容認するアウグスブルクの宗教和議が締結された。ただし、カルヴァン派は除外され、また民衆個々に信仰の選択権は無く、都市や領主がその支配地域の信仰を決め、それに民衆を従わせるというもので、カトリック・プロテスタント双方に不満の残るものであった。

アウグスブルクの宗教和議から一七世紀初頭までの半世紀、神聖ローマ帝国は宗教対立の一層の激化に見舞われる。一方で領主が決めた信仰の押し付けが行われ、他方で改宗したプロテスタント諸侯に対するカトリック諸侯の攻撃またはその逆が度々行われ、そのような対立の中でアウグスブルクの宗教和議から除外されたカルヴァン派が着実に信徒を増やして行く。歴代の神聖ローマ皇帝はその内部対立を見て見ぬ振りで放置するか、またはカトリック側に立って弾圧し、その場しのぎの対応に終始していた。

繰り返される無為無策はやがて壮絶な悲劇を招くことになったのである。

第二章 第一期「ボヘミア=プファルツ戦争」

「三十年戦争」は皮肉なことにハプスブルク家のお膝元で始まった。

神聖ローマ帝国は選挙王制という諸侯議会の選挙によって皇帝を選出する体制を取っている。一三五六年カール四世によって定められた金印勅書は様々な法体系を整えた帝国法の根幹で、このとき皇帝の選出方法とその役割を担う七人の選帝侯が定められた。マインツ大司教を筆頭選帝侯として、トーリア大司教、ケルン大司教の三聖職諸侯とライン宮中伯(プファルツ選帝侯)、ザクセン公、ブランデンブルク辺境伯、ボヘミア王の四世俗諸侯である。

1)ボヘミア王国

選帝侯国のひとつボヘミア王国は神聖ローマ帝国と同様の選挙王制を取る領邦国家で、一五二六年にオスマン軍の侵攻を受けた際に国王が敗死して以来、ハプスブルク家から国王を迎えていた。古くからフス派への信仰が根強く、カトリックのハプスブルク家も選帝権を持つボヘミア王位を重視する立場からフス派信仰を容認する立場を取っていた。そこにルター派信仰が広がってくると様相が一変する。妥協的だった皇帝ルドルフ二世はルター派も含めて信仰の自由を認めたが、一六一二年、ルドルフ二世との政争の果てに帝位についた弟のマティアス帝は兄の方針から転換、カトリックの押し付けを始める。一六一七年にマティアス帝は従兄弟のフェルディナント二世にボヘミア王を譲るが、新王はハプスブルク家内でも陰口を叩かれるほど強くカトリックに傾倒した人物であった。

ボヘミア王国の重要性は選帝権を持つだけではなかった。ルドルフ二世が首都プラハ移り住んだ当時、人口四百万人を数え、中央ヨーロッパ最大の人口密度で、かつイスラム・アジア諸国との交易の窓口として栄え、等族と呼ばれたプロテスタントの都市貴族たちが経済的中間層として力をつけており、実に帝国の行政経費の半分以上をボヘミア王国の税収で賄っていた。このような状況であったから、宗教の自由に対する不満とともに不公平な税制など経済的な不満も鬱積しており、一触即発の状況になっていた。

2)ボヘミア反乱

一六一八年五月五日、プロテスタント等族たちがプラハで抗議集会を行うとマティアス帝がこれを弾圧。五月二十三日、それに対して百人余りの代表がプラハ城に押しかけ、代官ら三人を窓の外に放り投げた。世に言う「プラハ窓外放擲事件」である。

代官らは奇跡的に無傷であったが、勢いに乗るプロテスタント等族らはそのまま反乱軍を組織。一万六千の兵を集め、等族議員の一人トゥルン伯爵を司令官に据え、諸外国に援軍要請をしはじめる。長年ハプスブルク家と対立関係にあったサヴォイ候国が傭兵隊長マンスフェルトに二万の兵をつけて援軍を送ったのを皮切りに、この反乱劇はカルヴァン派で、プロテスタント同盟の盟主であったプファルツ選帝侯フリードリヒ五世の野心に火をつけた。当時二一歳の若き選帝侯は妃エリザベスの父英国王ジェームズ一世の影響力を背景にしつつ、ライン宮中伯だけでなくボヘミア王位、さらには帝位まで狙おうと画策する。

足元で火の手が上がるハプスブルク家に追い討ちをかけるように一六一九年三月二十日、マティアス帝が崩御。八月二十八日、フランクフルトで皇帝選挙が実施されることになる。ほぼ時を同じくする八月二十三日、ボヘミア王国議会はフェルディナント二世のボヘミア王廃位を決定。代わりにプファルツ選帝侯フリードリヒ五世のボヘミア王即位を発表するが、タイムラグがあり皇帝選挙にぎりぎり間に合わない。

皇帝選挙は三司教とハプスブルク・ボヘミア王の一諸侯がカトリック票、プファルツ、ザクセン、ブランデンブルクの三諸侯がプロテスタントだが、ザクセン選帝侯はルター派、プファルツ、ブランデンブルクがカルヴァン派である。引き延ばしを図るプファルツ選帝侯に対し、ザクセン公ヨハン・ゲオルグ一世(注5)がフェルディナント二世支持を表明、日和見のブランデンブルク辺境伯ゲオルグ・ヴィルヘルム(注6)もそれに同調し、フェルディナント二世の皇帝就任が決定する。フリードリヒ五世のボヘミア王就任がフランクフルトに届いたのは就任決定直後であった。

そのころ、ボヘミア王国の隣国トランシルヴァニア公ベトレン・ガーボルがボヘミア王国に従属する王領ハンガリーに侵入。のちにトゥルン軍と同盟を結び、即位したばかりのフェルディナント二世に揺さぶりをかける。プファルツ選帝侯軍も合流し、反乱軍は一大勢力となっていた。

皇帝フェルディナント二世はまず旧教連盟の盟主バイエルン公マクシミリアン一世を味方につける。

反乱軍鎮圧の暁にはフリードリヒ五世を追放、プファルツ選帝侯領をバイエルン公に与え新選帝侯とする密約を結び、潤沢な資金を誇る旧教連盟軍二万五千を差し向ける。率いるのはバイエルン公の忠臣にして三十年戦争屈指の名将ティリー伯ヨハン・セルクラエス。その高潔な人柄から「甲冑をまとった修道士」と呼ばれ尊敬を集める練達の老将である。さらに同盟軍としてスペイン・ハプスブルク家からも二万五千の援軍を受けることとなる。

一時は威勢が良かったフリードリヒ五世とボヘミア反乱軍だったが、皇帝軍が接近してくる前の段階で大きく目算が狂い始めていた。まずサヴォイ候国はスペインに恐れをなしてマンスフェルトの傭兵契約を一方的に解約、スペイン軍の通行を許す。サヴォイ候国を通ってスペイン軍が向かったのはがら空きのプファルツ選帝侯領であった。さらにトランシルヴァニア公ガーボルは王領ハンガリーをある程度侵略するとすぐにフェルディナント二世と和議を結び、期待していたプロテスタント諸国もそれぞれ援軍をよこさない。義父の英王ジェームズ一世はむしろエリザベス一世時代に敵対関係だったスペインとの関係修復に熱心で、娘婿の要請を丁重に無視する。

かくして先読みの甘さを露呈したプファルツ・ボヘミア連合軍は一六一九年十一月八日、白山の戦いにおいて皇帝軍の前に成すすべなく大敗を喫することになる。わずか一時間の戦闘であった。

敗北した反乱軍は悲惨であった。反乱軍を主導したプロテスタント等族はことごとく処刑、選挙王制は廃止され、ハプスブルク家世襲王朝へと移行させられる。フリードリヒ五世はボヘミア王位廃位の上、プファルツ選帝侯領からも追放。「ボヘミア冬王」と嗤われる羽目になった。

3)プファルツ戦争

ここでフェルディナント二世は絶対君主としての顔を見せ始める。密約どおり、プファルツ選帝侯領をバイエルン公に与えたのである。あきらかな帝国法違反であり、これには諸侯も驚いた。しかしプファルツ軍を打ち破ったバイエルン公と皇帝・スペイン軍の軍事力は侮れない。それだけではない。バイエルン公と旧教同盟の伸張を防ぐために、プファルツ選帝侯領へのスペイン軍の進駐を引き続き継続したのである。選帝侯の領地にハプスブルク家とはいえ外国軍が進駐、それも皇帝自ら許するというのは、前代未聞であった。絶対君主化を目論む皇帝を掣肘すべくバイエルン公は密かに同じカトリック国のフランスに接近する。

このことに最も不満を持っていたのはやはり「ボヘミア冬王」フリードリヒ五世だったろう。彼は今回の処置が帝国法違反であることを内外に強くアピールしたが、スペイン軍が進駐する現在、どうにもこうにも手も足も出ない。だがチャンスがめぐって来る。一六二一年、スペインとネーデルラントの休戦協定が切れ、両国の「八十年戦争」の再開のためプファルツ選帝侯領に進駐していたスペイン軍が撤退することになった。色めくフリードリヒ五世は旧領奪還のため早速軍を集めるが、過ぎたる野心家の若造にはなかなか碌な人材が集まらないのが世間の厳しさであろうか。

まず、前回サヴォイ候国から派遣されたマンスフェルト傭兵軍一万がフリードリヒ五世の呼びかけにこたえる。「甲冑をまとった乞食」と蔑まれるこの傭兵隊長は他の傭兵隊とは違う画期的な軍団を作っていた。略奪を生業としていたのである。通常、雇い主から雇用されて金銭が支払われ、必要に応じて略奪も行う、というのが当時の傭兵隊だったが、マンスフェルトは逆転の発想をする。雇い主から雇われずとも常に略奪を行い続ければ、軍が維持できるではないか!略奪された金品はマンスフェルトが分配するので、彼の軍はマンスフェルトの私兵軍となる。これがさらに発展すると略奪から税へ、税徴収が傭兵隊長によってではなく国によって行われると傭兵は常備軍へと発展することになるのだが。マンスフェルト軍が来襲した都市や村は悲惨の一言につきる。かくしてかれらは人望や誇りと引き換えに自由と金を得ていたのだった。

次にクリスチャン・フォン・ブラウンシュバイク軍一万五千。大貴族ブラウンシュバイク公の弟に当たる彼はハルバーシュタット司教領の職務執行者であったが、大貴族の一員らしく傲慢で尊大な人物であったらしく、「無法者の公爵」「向こう見ずなハルバーシュタット野郎」というありがたくない異名を持つ。フリードリヒ五世の呼びかけに応じたのも義憤などではなく、フリードリヒ五世の美しき妃エリザベスへの横恋慕であった。

ほか、新教同盟時代からのフリードリヒ五世の盟友であったバーデン=ドゥルラハ辺境伯軍一万一千。まともなのはこの人ぐらいで、バーデン辺境伯は純粋に増長する皇帝を抑えるために参加を決断していた。

これに対して皇帝は再びバイエルン公の臣ティリー伯率いる旧教軍を差しむける。このとき正式に皇帝軍総司令官に就任したティリー伯はスペインからの援軍とともに、合流を図ろうと渡河作戦を敢行する敵三軍の各個撃破を目論み見事に成功させる(ヘーヒストの戦い)。まずバーデン軍を足止めした後、渡河中のブラウンシュバイク軍に死者二千もの痛撃を与え、その様子を見たマンスフェルト軍が戦線離脱。ブラウンシュバイク軍は最終的に渡河に成功するものの兵糧などを失い戦闘能力を喪失。続くヴィンブフェンの戦いでバーデン軍に総攻撃をしかけて壊滅させ、勢いに乗ってプファルツ選帝侯領を完全制圧。フリードリヒ五世はネーデルラントに逃亡しその野望は潰えた。そのまま彼は選帝侯に復帰することなく一六三二年、ペストに罹り三六歳でこの世を去ることになる。かくして一六二三年、バイエルン公マクシミリアン一世が新選帝侯に正式に就任、フェルディナント二世の勢威は益々上がり、神聖ローマ帝国に絶対王政の波が訪れつつあった。

第三章 デンマーク=ニーダーザクセン戦争

1)枢機卿リシュリューと対ハプスブルク同盟

帝権を着々と固めるフェルディナント二世に最も脅威を覚えていたのが隣国フランスの枢機卿リシュリューであった。リシュリューは最大の敵であるスペイン・ハプスブルクを倒すためには、オーストリア・ハプスブルクとの連携を断つ必要があると考えており、そのためには神聖ローマ帝国は分裂した状態であることが望ましい。これ以上のフェルディナント二世の権力強化はなんとしても防ぐ必要があった。

一六二四年、フランスはネーデルラント、スウェーデン、デンマーク、イングランドとの友好条約を締結する。実質対ハプスブルク同盟としての顔を持つこの同盟であったが、バイエルン公に強い警戒心を抱かせることになった。リシュリューとしてはカトリック国同士バイエルン公の後ろ盾になることで、彼ら旧教連盟を皇帝から引き離す目算であったのだが、バイエルン公としては、対ハプスブルク同盟を後ろ盾にバイエルン公に批判的な帝国内の北方プロテスタント諸侯が侵攻してくることを危惧したのだった。かくして、バイエルン公はさらに皇帝に接近し、ハプスブルク家の下で戦い続けることになる。リシュリュー最大の失敗であった。

同年、リシュリューは続けてスペインと神聖ローマ帝国の補給線となっているヴァルテッリーナ谷でプロテスタント反乱を扇動し、封鎖に成功。補給路が分断されたことで両国は物資や兵のやり取りが不可能になった。この地味だが重要な戦略が後に効果を発揮することになる。

2)デンマーク戦争勃発

一六二五年、この対ハプスブルク同盟を背景にデンマーク王クリスチャン四世が神聖ローマ皇帝に対し、帝国領内ニーダーザクセン地区のハルバーシュタット司教区の司教に自身の息子を就任させるよう通告する。デンマーク王は帝国領内に領地を有する諸侯の一人でもあったので、正当性を持つ通告であったが、フェルディナント二世はこれを拒絶すると、ティリー伯率いる皇帝軍一万六千をニーダーザクセン地区に差し向け、デンマークの侵攻に備えさせる。

ここで同盟諸国が足並みを揃えていれば良かったのだが、ここぞというときに対ハプスブルク同盟が綻びを見せる。まずフランスでプロテスタント反乱ユグノーの乱が発生しフランス軍が動けなくなる。次にスウェーデン王グスタフ・アドルフとデンマーク王との間で主導権争いが起きてしまい、スウェーデンが介入を取りやめる。ネーデルラントはスペインに対峙している。イングランドは軍を差し向けるつもりがなく、資金援助のみ、ということでデンマーク単独介入となる。

とりあえずデンマーク軍二万が編成されるとともに、イングランドの資金援助で傭兵軍が組織される。最大にして最悪の問題はその傭兵軍が、マンスフェルト軍とブラウンシュバイク軍だったことだった。本来ならばデンマーク王と同じルター派のザクセン公が動きそうなものだが、彼はことなかれ主義で傍観を決め込んでいた。また、デンマーク軍の動きに呼応してトランシルヴァニア公ベトレン・ガーボルがボヘミア王国領シュレージエンに侵攻、再び帝国に揺さぶりをかけてくる。

一六二五年のヨーロッパは冷夏で農作物の著しい不作に見舞われていた。特に皇帝軍はリシュリューの策謀でスペインとの補給線が絶たれたことで援軍も補給も望めず困難な状況に見舞われていた。だが、プロテスタント軍も同様の状況にあると見て取ったティリー伯はここで新たな軍を準備できれば十分に勝機があると考えバイエルン公に援軍の必要性を訴える。バイエルン公からの進言で皇帝フェルディナント二世はローマ教皇ウルバヌス八世に援助を求めるが、すでにリシュリューはローマ教皇にも手を回しており、教皇は動かない。皇帝軍の戦費は底をつきかけていた。

両軍とも動くに動けない膠着状態。先に援軍を用意出来た方が勝つ。フランスがユグノー反乱を鎮圧して軍を動かすのが先か、神聖ローマ帝国が新たな軍を編成するのが先か。そして勝利の女神、ならぬ乱世の梟雄が皇帝軍に微笑む。

3)「乱世の梟雄」傭兵隊長ヴァレンシュタインの登場

アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタインは一五八三年、ボヘミアのプロテスタント下級貴族の家に生まれた。両親の死後カトリックに改宗してイタリアで学び、そこで裸一貫から下克上の果てに王侯貴族に上り詰めていく傭兵隊長たちの物語に触れ、強く魅せられる。若くして傭兵として軍歴を重ね、先のボヘミア反乱のどさくさに他の傭兵隊の金庫を奪って資金を確保すると、私兵を編成して皇帝軍に味方し、資金貸付も行い、功績を立ててフリートラント候に取り立てられることになる。候と言っても、当時フェルディナント二世が藩屏として新設した三百以上もの諸侯位の一つで、権威のかけらもない肩書程度のものでしかなかった。

ヴァレンシュタインは戦争に関してマンスフェルトよりもさらに進んだ資金獲得方法を考案していた。彼は兵の略奪を禁じる代わりに占領地における軍税の徴収を行ったのである。武力を背景にして様々な税制を考案し、徹底して徴収を行い、徴収された資金をヴァレンシュタインが分配、兵はヴァレンシュタインの私兵となるとともに、略奪と違い永続的に資金調達をし続けられる。この彼のビジネスモデルと、それを実行に移して成功を収めるだけの野心と才覚に惹きつけられたのがボヘミアのユダヤ資本家ヤコブ・トロイエンブルクとオランダの銀行家ハンス・デ・ヴィッテであった。彼らはヴァレンシュタインに多額の出資を行い、やがてヴァレンシュタインが王位につくことまで視野に入れていた。だが、ヴァレンシュタインはさらに上を狙っていた。

当時屈指の資金力を持った私兵部隊を率いる野心家ヴァレンシュタインが膠着状態に陥った戦況を好機と見るのは当然のことで、彼はフェルディナント二世に多額の資金援助と五万もの兵の供出を申し出る。皇帝軍総司令官の座と引き換えに。

五万の兵はさすがに過大であると考えた皇帝は二万の兵の供出と皇帝軍総司令官の座を約束する。元々ティリー伯はバイエルン公の家臣であり、純粋な武人として地位にこだわらない人物であったので人事はスムーズに収まった。かくして、戦局が一気に動き始める。

4)「甲冑をまとった乞食」の最期

実際にはヴァレンシュタインは二万四千の兵を募集し、ティリー伯軍一万六千とあわせて四万の皇帝軍となった。そのころ、連合軍では指揮権を巡ってクリスチャン四世とマンスフェルトとの間で対立が発生していた。そして彼らは兵力分散という致命的な失敗を犯す。まず、マンスフェルト軍はヴァレンシュタイン軍を牽制しつつシュレージエンに向かいトランシルヴァニア軍と合流してヴァレンシュタインを叩き、ブラウンシュバイク軍はヘッセンに向かいモーリッツ辺境伯軍と合流してティリー伯軍の背後を、デンマーク軍はティリー伯軍の正面から挟撃を行うというものだ。だが、絵にかいたような各個撃破の憂き目にあう。

一六二六年一月十六日、ブラウンシュバイク軍の動きを察知したティリー伯軍によってブラウンシュバイク軍は総崩れとなり、同二十六日クリスチャン・フォン・ブラウンシュバイクはこの世を去る。若くから軍歴を重ね、実力で現在の地位を得た六十六歳の老将と、たいした軍歴も無い大貴族出身の二十六歳の若造とでは格が違いすぎて相手にならない。

一六二六年四月二十五日、エルベ川デッサウ橋付近に進軍したマンスフェルト軍をヴァレンシュタイン軍が迎え撃つ。新旧傭兵隊長同士、マンスフェルトも期する所があったか、一騎打ちを挑むがヴァレンシュタインが圧倒。兵力で勝るヴァレンシュタイン軍がマンスフェルト軍を散々打ちのめし、捕虜二千、戦死六千もの壊滅的な打撃を与える(デッサウの戦い)。命からがら逃亡したマンスフェルトは再起を図るべくガーボルの元に逃れようとするが、ヴァレンシュタインは追撃の手を緩めない。ヴァレンシュタイン軍の勢いに圧されたガーボルは和平を請い軍を退く。孤立無援となったマンスフェルトはさらなる逃亡を図るが、ついに逃走の中サラエボ山上で死んだ。甲冑を失った「甲冑をまとった乞食」を助けるものなどどこにもいなかった。

5)凋落のデンマーク

デンマーク王クリスチャン四世は、国内にあっては名君の誉れ高く、様々な改革を行って同国の隆盛をもたらしたが、軍事には若干暗かった。ここで兵を退けばまたチャンスが巡ってきたかもしれない。いや、確実に退くべきだっただろう。だが、北方の強国としてその名を轟かすデンマーク王国軍が一矢も報いることなく逃げ帰ることができようか。あるいはライバルであるスウェーデン王の忌々しい顔を思い浮かべたかもしれないが、ともかくも王は退くをよしとせず、二万の軍をもってティリー伯軍一万六千に攻撃をしかける(ルッターの戦い)。だが、ブラウンシュバイク軍を破り勢いに乗るティリー伯軍は圧倒的だった。デンマーク軍は捕虜二千五百、戦死六千、負傷多数の損害を受け、クリスチャン四世も命からがら本国に逃げ帰る羽目になる。

一六二七年、ティリー伯軍とヴァレンシュタイン軍は神聖ローマ帝国内のデンマーク領を占領、さらにこのころ約十万という圧倒的な規模にまで増強されていたヴァレンシュタイン軍がユトランド半島のデンマーク王国本土に侵攻、徹底的に蹂躙していった。シュトラーズルントの戦いでもヴァレンシュタイン軍に大敗を喫したクリスチャン四世はスウェーデン王グスタフ・アドルフに膝を屈して救援を請い、スウェーデン軍の力で辛うじてヴァレンシュタイン軍を退却させることに成功した。一六二九年、「リューベックの和約」で神聖ローマ帝国とデンマーク王国の和議が成立。この敗北によってデンマークはバルト海の制海権を失い、多くの領土を割譲して、国力を著しく落とした。このあと再び栄光の時代がくることはなく、やがて台頭するスウェーデン・バルト帝国の後塵を拝す小国に転落していくことになる。後にデンマークは軍事大国としてではなく農業国としてヨーロッパの近代化に少なからぬ影響を及ぼすことになるのだった。

一六二九年三月、反乱を鎮圧し外敵を撃退して、ますます自信を強めたフェルディナント二世は、揺ぎ無い絶対君主として君臨するべく帝国諸侯の外交・同盟等主権制限、皇帝位をハプスブルク家世襲とする、プロテスタント教会領の没収、バルト海艦隊建造などを盛り込んだ勅令「回復令」を出す。強権の裏づけとして機能していたのが、十二万五千もの兵力にまで膨れ上がったヴァレンシュタインの私兵軍であった・・・

絶対君主化を目論む皇帝フェルディナント二世、武力を背景に専横極める野心家ヴァレンシュタイン、カトリックの守護者たらんと戦い続ける高潔な武人ティリー伯、ハプスブルク打倒に力を注ぐ枢機卿リシュリュー、右往左往の帝国諸侯と欧州列強・・・そして、混迷の三十年戦争に、ついに軍事の天才スウェーデン王グスタフ・アドルフが参戦する。
(つづく)

第二部→『近代の序章としての三十年戦争 第二部「スウェーデン戦争」
第三部→「近代の序章としての三十年戦争 第三部「ヴェストファーレン条約とその後」

注1)菊池良生著「戦うハプスブルク家」P34
注2)「三十年戦争」の初出はザムエル・フォン・ブーフェンドルフ著「ドイツ帝国国制論」(一六六七年)
注3)菊池前掲書P35
注4)松井芳郎著「国際法から世界を見る―市民のための国際法入門」P253-255
注5)菊池前掲書P49によると後世の歴史家に「ドイツの悲劇はこのヨハン・ゲオルグが凡庸な人物であったことである」とまで言われることになる人物。その後の三十年戦争における彼の”活躍”は凡庸というよりは不世出のトラブルメイカー、あるいはトリックスターと言ってもいいかもしれない。
注6)啓蒙専制君主として名高い子孫のプロイセン王フリードリヒ二世は彼を「何よりもまず、戦争前にその領内において2万の兵さえ徴兵して指揮下においていなかったことで彼を責めねばなるまい。彼の治世は一族の君侯の中で最も不幸な時代であった。」と酷評する。(ゲオルク・ヴィルヘルム (ブランデンブルク選帝侯) – Wikipedia
参考書籍
・菊池 良生著「戦うハプスブルク家 (講談社現代新書)
・菊池 良生著「傭兵の二千年史 (講談社現代新書)
・正村 俊之著「グローバリゼーション-現代はいかなる時代なのか(有斐閣Insight)
・玉木 俊明著「近代ヨーロッパの誕生 オランダからイギリスへ (講談社選書メチエ)
・松井 芳郎著「国際法から世界を見る―市民のための国際法入門

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