近代の序章としての三十年戦争 第二部「スウェーデン戦争」

第一部→「近代の序章としての三十年戦争 第一部「ボヘミア反乱~デンマーク戦争」

第二部は三十年戦争最大の見せ場となるスウェーデン戦争です。成り上がり専横を極めるヴァレンシュタイン、百戦錬磨の老将ティリー伯を襲う悲劇、軍事の天才スウェーデン王グスタフ・アドルフの快進撃、暗躍するフランスの枢機卿リシュリュー、君臨する神聖ローマ皇帝フェルディナント二世というあたり。

スポンサーリンク
スポンサーリンク

第四章 スウェーデン戦争

1)ヴァレンシュタインの専横

フェルディナント二世の「回復令」は帝国諸侯に大きな動揺をもたらした。あきらかな帝国法の違反であり、プロテスタント諸侯に対し皇帝への忠誠か信仰かの二者択一を迫るものであった。ヴァレンシュタインもさすがにこの回復令には反対する。彼にとっては皇帝権の増大が自身の権限拡大に繋がるのであり、そこでカトリックかプロテスタントかの二択を諸侯に迫ることで、いたずらに国内を混乱させても益の無いことだったからである。だが、この皇帝の強気な姿勢に対する諸侯の不満はヴァレンシュタインに向かう。

この前年、皇帝はメクレンブルグ侯爵領をヴァレンシュタインに与えたが、反乱を企てたプファルツ選帝侯領をバイエルン公に与えたときと違い、戦争に関わっていないメックレンブルク侯爵を追い出す形での叙任であったため、横暴であるとの印象を諸侯に与え、「そのうち帝国全土がオーストリアの一地方となってしまう」(注1)という危機感を植えつけた。

圧倒的な数の私兵を抱え、皇帝軍総司令官かつメックレンブルク侯爵位という伝統ある地位を得てヴァレンシュタインの威勢は強まる一方であった。宿営地としてブランデンブルク領に進駐したヴァレンシュタインは皇帝に認められた軍税徴収権をもって、徹底的な税の取立てを行う。あまりの厳しさに逃亡した多数の市民がブランデンブルク選帝侯に訴え、選帝侯は皇帝に、皇帝はヴァレンシュタインにブランデンブルク領からの撤退を命じるが、軍事力を背景に拒否されるとそれ以上は何も言えなくなる。選帝侯も手ずからヴァレンシュタインに手紙を書くが、あっさり無視される。気位の高い選帝侯は怒り心頭だがどうにもできない。逆にヴァレンシュタインにしてみれば、すでに同じ諸侯の一人であるのに、未だ一傭兵隊長に接するように尊大に振る舞う諸侯の態度に我慢がならなかった。

2)マントヴァ継承問題とヴァレンシュタインの失脚

このようなヴァレンシュタインの専横に対する不満が諸侯に広がっていた最中、イタリアのマントヴァ公国で継承問題が勃発する。生来病弱であった当主ヴィンチェンゾ二世が後継者無く死去し、最も継承順位が高いヌヴェール候はフランス王国の家臣で、これに異を唱えたスペイン・ハプスブルク家がフェルディナント二世に介入を依頼、皇帝はかつて帝国自由都市であった歴史的経緯からマントヴァは神聖ローマ帝国領であるとして接収を宣言。これに対してローマ教皇はイタリアに対するハプスブルクの侵略であるとして強く非難し、神聖ローマ皇帝フェルディナント二世は約三万の傭兵軍を派遣、経緯を重く見たリシュリューはサヴォイ候に武力介入を依頼と、一触即発の状況になってしまう。

これまで常にカトリックの側であった皇帝がローマ教皇と対立することになったこのマントヴァ継承問題は旧教連盟の指導者バイエルン公マクシミリアン一世にとって憂慮する事態であった。このような皇帝の増長をもたらしたものこそが、ヴァレンシュタインの軍事力である。カトリック教会の権威に皇帝を服属させるためにはその力をなんとしても抑えなければならない。かくしてバイエルン公は密かに選帝侯諸侯とヴァレンシュタイン追放を画策する。聖職三選帝侯は勿論、ザクセン、ブランデンブルクのプロテスタント両選帝侯もバイエルン公に同意し、一六三〇年三月、筆頭選帝侯マインツ大司教が選帝侯会議の開催を宣言する。議題はヴァレンシュタインの罷免であった。

六選帝侯は皇帝に対し、ヴァレンシュタインの罷免をしない場合、嫡子フェルディナント三世のローマ王就任を認めないと通告する。ローマ王位は次期皇帝となる後継者が慣習として就任してきた王位で、これに就任できないと皇帝になることができなくなってしまう。さらにバイエルン公は一時距離を置いていたフランスとも密かに接近し皇帝を牽制する。また、フェルディナント二世の中にもヴァレンシュタインの野心はやがて帝位を脅かすかもしれないという猜疑心が芽生えつつあった。一六三〇年八月、結局皇帝は折れ、ヴァレンシュタイン解任が決定する。だが、嫡子のローマ王選出も先送りとなった。

まさかの諸侯の反撃で罷免させられたヴァレンシュタインは捲土重来を期してボヘミアに一時退き、十二万五千のヴァレンシュタイン軍は大幅削減の上でティリー伯の指揮下に入る。そして、この勢力が再均衡する機会を狙っていたのがフランスの枢機卿リシュリューであった。

3)「ベールヴェルデ条約」とスウェーデンの侵攻

一六三一年一月二十三日、フランスとスウェーデンの間で同盟条約「ベールヴェルデ条約」が締結される。

一つ、スウェーデンは歩兵三千、騎兵六千をフランスの金で常備する
一つ、フランスは二万帝国ターラーをスウェーデンに支払う
一つ、スウェーデンはドイツ・カトリックの信仰の自由を保障する
一つ、スウェーデンはフランスの友人であるバイエルン公国を侵略しない
一つ、両国は向こう五年間、いかなる単独講和も結ばない(注2)

スウェーデン王グスタフ・アドルフは大胆にもこの条約内容を帝国全諸侯に通告する。これは諸侯に二者択一を迫るものであった。

グスタフ・アドルフことグスタフ二世アドルフは一六一一年、若干十七歳でスウェーデン王に即位、バルト海の制海権を巡ってポーランド・デンマークと争いロシアを撃退し、続いて内乱を制して一六二〇年よりネーデルラントのマウリッツに習って軍制改革を断行。改良されたマスケット銃や小型大砲の開発など最新鋭の軍備を整え、有能な指揮官を続々登用し、徴兵制を敷き十三万五千の常備軍を編成、一代でスウェーデン王国をヨーロッパ北部の強国に育てた絶対君主であった。

グスタフ・アドルフはかつてヨーロッパを席巻した古ゴート族の末裔ワサ家の当主として全欧州制覇の野望を抱いており、ハプスブルク家の伸張を食い止めるという点でフランスのブルボン家と目的を同じくする。さらに一六二九年のフェルディナント二世の回復令にバルト海艦隊建造が盛り込まれていることも彼に介入を決意させた。

一六三〇年末の時点でスウェーデン軍は帝国領に侵攻を開始しており、それに続くこの宣言は帝国諸侯を動揺させた。ヴァレンシュタインにその座を追われた元メックレンブルク侯ら一部諸侯がスウェーデン軍になびいたが、多くが様子見を決め込む。醜悪であったのがザクセン選帝侯とブランデンブルク選帝侯で、ザクセン公ヨハン・ゲオルグアルニムという傭兵隊長を雇い旧ヴァレンシュタイン軍の傭兵を多く雇用して傭兵軍を編成、ブランデンブルク辺境伯ゲオルグ・ヴィルヘルムとともに、第三勢力の結集を目論んだ。皇帝に対し回復令の撤回を申し入れ、撤回すれば皇帝軍に、撤回しなければスウェーデン軍につくというどっちつかずな通告を行ったが、皇帝はこれを一蹴。思わぬ皇帝の強気に、もし皇帝に敵対したのち、皇帝が勝つとプファルツ選帝侯のように選帝侯であってもその座を追われるかもしれないという怖れから彼らは腰砕けになる。

ティリー伯は微妙な立場におかれることになった。主君バイエルン公と旧教連盟は「ベールヴェルデ条約」の取り決め通り不可侵に守られ中立を保つ。一方で彼は皇帝軍総司令官として、皇帝軍を率いてグスタフ・アドルフと対峙せざるを得ない。しかも皇帝軍を構成する大多数が(これが後の悲劇の要因になるのだが)旧ヴァレンシュタイン軍くずれの元傭兵たちであり、旧ヴァレンシュタイン軍のベテラン傭兵の多くは金に目がくらんでザクセン公麾下のアルニム隊に参集していた。だが、純粋な武人としては、皇帝軍総司令官の役割を果たすのみであった。

4)マクデブルクの惨劇

精強スウェーデン軍は快進撃を続け帝国領奥深くまで侵攻してくる。これに対しティリー伯率いる皇帝軍は要衝マクデブルクへと進撃を開始する。マクデブルクはエルベ川左岸、ブランデンブルク領と接する商業都市でハンザ同盟に属し、親スウェーデンの立場を明確にしていた。対スウェーデン戦略上ここを攻略することは非常に重要であった。

皇帝軍マクデブルク包囲、の報に対しグスタフ・アドルフ軍はすでに帝国領奥深くまで侵攻していたため、その救援に向かうことが出来ない。そのため、グスタフ・アドルフはザクセン、ブランデンブルク両選帝侯にマクデブルク救援を依頼するが、両候とも動こうとしない。

一六三一年五月二十日、皇帝軍の総攻撃の前にマクデブルク陥落。これが悲劇の始まりだった。ティリー伯の制止も聞かず、たがの外れた皇帝軍が略奪を開始したのである。略奪は破壊を呼び、破壊は殺戮へと発展し、マクデブルクは三日三晩炎上し続け、三万の市民のうち死者二万五千、残った五千は女性でことごとく性的凌辱が行われた。後世「マクデブルクの惨劇」と呼ばれる三十年戦争最大の虐殺事件であった。それが三十年戦争で最も高潔な司令官の率いる軍によって行われたのである。

虐殺を行った皇帝軍、それを止められなかったティリー伯と皇帝の権威が失墜しただけでなく、結果として救援に赴けなかったグスタフ・アドルフ、見て見ぬふりをしたザクセン、ブランデンブルク両候も見殺しにしたとして批判の対象となった。そしてプロテスタント諸侯がこぞってスウェーデン王につくことになる。

兵の略奪を止められなかったティリー伯は強い自責の念にかられていたという(注3)。齢七十三歳の老将は、この雪ぐことのできぬ汚名を受けて、心のどこかで死に場所を求め始めていたのかもしれない。

ひたすら日和見を続けていたザクセン公ヨハン・ゲオルグも厳しい批判にさらされる中で、汚名返上すべく傭兵隊長アルニムの強い進言により、ついにスウェーデン王に就くことを決意、兵一万七千を率いてライプツィヒを進発する。

5)軍事的中世の終わり「ブライテンフェルト会戦」

一六三一年九月、ティリー伯軍はスウェーデン軍についたザクセン公国の首都ライプツィヒを占領。同地北四十キロ地点で合流したスウェーデン軍とザクセン軍は連合軍を形成してライプツィヒ奪還のため迫ってきつつあった。これに対しティリー伯は籠城戦を取ろうとするが、功に焦る副官パッペンハイムが自軍を率いて独断で出陣。やむなくティリー伯は全軍をもってスウェーデン=ザクセン連合軍との決戦に挑む。一六三一年九月十八日午前九時、両軍あわせて八万の軍勢がぶつかる三十年戦争屈指の会戦「ブライテンフェルト会戦」が幕を開けた。

「ティリーは伝統的な布陣を敷いた。中心に歩兵、両翼に騎兵。ティリー自身はその中心に、パッペンハイムは左翼に陣取る。さて歩兵。約千名の長槍を構えた兵が方陣を作る。その四周を数列のマスケット銃兵が取り囲む。さらに四方に三十名ずつのマスケット銃兵が固める。この密集陣形の総勢約千五百。この隊形をテルシオと呼ぶ。スペインの十六世紀の名将コルドバ考案による巨大な人間重戦車である。当時、無類の強さを誇った。ティリーは併せて十七のテルシオを敷いた。騎兵一万、歩兵三万である」(注4)

これに対し連合軍はグスタフ・アドルフ軍二万五千が右翼、ザクセン公率いるザクセン軍騎兵部隊一万七千が左翼に布陣する。スウェーデン軍攻め難しと見たティリー伯はまず戦力をザクセン軍に集中させる。皇帝軍の猛烈な攻撃にザクセン軍はひとたまりもなく、瞬く間に多くの損害を出して潰走、ザクセン公以下早々と戦線離脱を余儀なくされる。

さて、邪魔者はいなくなり、ついにグスタフ・アドルフ軍とティリー伯軍の決戦となる。だが、スウェーデン軍の編成は文字通り革新的であった。ティリー軍と同様中心に歩兵、両翼に騎兵の構成だがその中身が違う。

「歩兵は槍隊二百の両翼に約百名ずつのマスケット銃兵。さらに百名のマスケット銃兵が槍隊の前に陣取り、T字形を作る。これが基本戦闘単位。機動力に優れている。騎兵も密集体系をとらない。四角形の配置で互いに小競り合いが出来るぐらいの空間をとらせた。この騎兵小隊の間にマスケット銃小隊を置き、戦闘中の歩兵と騎兵の入れ替わりを可能にした。マスケット銃兵は五人を台形にして配置し、上辺の二人は銃撃を終えると直ちに底辺へ行き、底辺にいた三人のうち二人が上辺に進み銃撃する。この繰り返しでスウェーデン軍の発射速度はティリー軍の三倍となる。
そしてなんといっても大砲の活用である。攻城兵器ではなく野戦の決定兵器として大砲を使用したのである。兵士三人で運べる四ポンド砲がそれである。散弾と破裂弾を採用した。千人につき約十二門の大砲を配備した。圧倒的数である。
そして、近衛兵の「小銃騎兵を抜刀突撃騎兵に改編した」。火縄式で銃身が長く重い小銃は騎兵の武器としては著しく機動力に欠けるからである。こうして「騎兵に配属した歩兵が押し寄せる敵小銃騎兵を打ち返し、損害を与えた後、抜刀突撃させた」のである。」(注5)

七時間に及ぶ戦闘が終わった時、その差は歴然であった。皇帝軍の戦死者一万二千、捕虜七千。対するスウェーデン軍の戦死者千五百名。ティリー伯は首と胸に傷を負い、右腕を粉砕されながら最後まで指揮を取り部下に守られて退却した。軍事史上の大変革が起きた瞬間だった。
皇帝軍大敗の報は帝国全土を駆け巡る。ひどく動揺した皇帝フェルディナント二世はローマ教皇ウルバヌス八世に支援要請を送るが教皇はかねてからの因縁もあり応えようとしない。そうこうしているうちに勢いに乗るグスタフ・アドルフ軍は帝国領内の要衝を次々攻略し、総兵力八万にまで増強、帝都ウィーンへと着々と迫りつつあった。

6)梟雄再び

グスタフ・アドルフは軍事力を背景に親プロテスタント諸侯の叙任を行おうとするなど侵略者の顔を顕わにする。そのようなグスタフ・アドルフを最も苦々しく思っていたのはバイエルン公であった。フランスの同盟者でありながらも、プロテスタント勢力に帝国を荒らされることに我慢がならない彼は負傷した忠臣ティリー伯に変わってスウェーデン軍に対抗しうる人物として、かつて彼が追放を画策したヴァレンシュタインの再登用を皇帝に進言する。皇帝もここに至っては恥も外聞もかなぐり捨てて、手ずから手紙をしたためヴァレンシュタインに復帰要請を行う。

ボヘミアで戦局を眺めていたヴァレンシュタインはおそらく皇帝が泣きついてくることを予想していただろう。存分に皇帝の足元を見た要求をつきつける。曰く、軍の全権、和平交渉権、条約締結権、ハプスブルク世襲領の一部割譲および選帝侯位の獲得などなどである。さすがにこの要求に皇帝は顔色を失うが、ともかくも条件交渉はさておき、一六三二年一月、ヴァレンシュタインの皇帝軍総司令官の復帰が決まる。その後の実際の復帰に向けて詳しい条件交渉のツメの最中、悲報が届いた。

一六三二年四月十五日、バイエルン公領に近いレヒ河を挟んで、ティリー伯軍とグスタフ・アドルフ軍が対陣する。ティリー伯軍が自軍より若干低い位置に布陣しているのを確認したグスタフ・アドルフはその圧倒的な砲兵部隊で砲撃を加え、ティリー伯が負傷、その上で総攻撃を仕掛けた。この苦境を知ったバイエルン公は忠臣をむざむざ死なせるかと不可侵の特権をかなぐり捨てて出陣、自らティリー伯軍の指揮を執る。スウェーデン軍の猛攻の前に支えきれずレヒ河を渡河してくるスウェーデン軍を見てバイエルン公は軍を撤退させた(レヒ河の戦い)。四月三十日、ティリー伯は傷深く、部下らに運び込まれたインゴルシュタット要塞で、「甲冑をまとった修道士」としての七十四年の生涯を閉じる。レヒ河の戦いの直前、彼は皇帝と条件交渉中のヴァレンシュタインに復帰を祝う手紙を送っている。この乱世の梟雄だけが後事を託すに足る人物と見込んでいたのかもしれない。

ティリー伯戦死の報を受けたフェルディナント二世はもはや一刻の猶予もならぬとヴァレンシュタインの要求を全て受け入れ、彼を正式に新司令官に任命。ティリー伯軍の残兵、バイエルン軍および傭兵を中心とした皇帝軍を編成して、グスタフ・アドルフに当らせることとなり、ヴァレンシュタインはボヘミアを進発。当時、プロテスタント軍の一員ボヘミア方面に進軍していたのが、すっかりグスタフ・アドルフの盟友となったザクセン公軍であった。ヴァレンシュタインはここで奇策にでて一兵も失うことなくザクセン軍を退けることに成功する。ザクセン公を買収したのだ。金に目がくらんで兵を退くザクセン軍を横目に、バイエルン公軍との合流に成功。続いて傭兵を中心としたプロテスタント軍をニュルンベルク付近で迎え撃ち徹底的に守り抜くことで撃退。守り抜いて撤退させたものとはいえ、皇帝軍にしてみればティリー伯の戦死以来初の勝利である。カトリック・皇帝側勢力は意気上がり、プロテスタント諸侯に動揺が広がる。

ザクセン軍を買収して撤退させた後もヴァレンシュタインの政略が冴えわたる。スウェーデンの宿敵であるデンマーク王に対してスウェーデン軍の後方攪乱を依頼、さらにスウェーデンの伸長に危機感を持ち始めたプロテスタント諸侯にも揺さぶりをかけるなどグスタフ・アドルフを心理的に追い詰めていく。ザクセン公組しやすし、と見たヴァレンシュタインはさらにザクセン公領に侵攻しライプツィヒを占領。ザクセン軍に痛撃を与えれば、ザクセン公はおそらく講和を申し出てくるはずと睨んでいた。

一方、このザクセン公の振る舞いに衝撃を受けたのはグスタフ・アドルフである。まさか選帝侯ともあろうものが買収によって兵を退き、むざむざと皇帝軍の復活をなさしめるとは。他のプロテスタント諸侯も面従腹背の立場を崩しておらず、いざという時に頼りにならない。やはり、ティリー伯に続き、ヴァレンシュタイン軍もスウェーデン軍単独で撃破する以外にない、とグスタフ・アドルフに不信感を抱かせるに十分であった。そして、この不信の芽が再び戦局を動かすことになる。

7)運命のリュッツェン会戦

一六三二年十一月、ライプツィヒを占拠するヴァレンシュタイン軍に対し、グスタフ・アドルフ軍がナウムブルクに布陣。だが、間もなく冬季に入るため、ヴァレンシュタインは、グスタフ・アドルフ軍は牽制だけで兵は動かさないだろうと判断し、同時期、スウェーデンに呼応してケルン大司教領に侵攻してきたネーデルラント軍への抑えとしてパッペンハイム軍一万一千をモリッツベルクへ進発させる。そして皇帝軍本軍は十一月十四日、両者の抑えとしてライプツィヒとナウムブルクの中間点に位置するリュッツェンに移動していた。だが、この動きを察知したグスタフ・アドルフ軍もまたヴァレンシュタインが兵を分散させた今が好機とリュッツェンに向け極秘裏にその機動力を生かして高速で進軍していた。かくして、一六三二年十一月十六日、運命のリュッツェン会戦が行われることとなる。

スウェーデン軍は歩兵一万二千八百、騎兵六千二百、大砲六十門。ブライテンフェルト会戦同様右翼にグスタフ・アドルフ、左翼に彼が信頼する傭兵隊長ベルンハルト・フォン・ヴァイマル率いる騎兵隊を配置、中央に歩兵部隊という布陣であった。対するヴァレンシュタイン軍は歩兵一万、騎兵七千、大砲二十四門で、「街道沿いに塹壕を掘らせて銃兵を伏せさせてその後方に歩兵戦列を並べ、騎兵は両翼に配置した。右翼の風車の丘(風車が四基あった)に軽砲14門を配置し、残余の大砲は歩兵戦列の正面に配置」(注6)する守備的布陣でヴァレンシュタインは風車の丘で指揮を執る。だが、スウェーデン軍同様旅団形式をとることで機動力を高めていた。

その日、リュッツェンは朝から濃い霧に包まれ、午前中は両軍とも身動きが取れない。霧が晴れてきた午前十一時過ぎ、スウェーデン軍が攻撃を開始。中央の歩兵軍が皇帝軍中央の防衛線を破り大砲を奪うがヴァレンシュタイン自ら騎兵部隊を率いて中央部隊を掩護し大砲奪還、敵軍を押し戻す。中央軍、ベルンハルト軍と皇帝軍中央、同右翼軍が一進一退の中グスタフ・アドルフ率いる右翼軍が皇帝軍左翼を圧倒。そのまま中央攻撃に出る。両軍とも霧と硝煙が立ち込める視界の悪い中で乱戦となるが、徐々に攻撃力、機動力に優れたスウェーデン軍が皇帝軍を圧倒。午後二時、開戦の報を聞いたパッペンハイム軍の騎兵部隊二千~三千が取って返し崩壊寸前だった皇帝軍左翼の掩護に回る。スウェーデン軍右翼に五回に渡り突撃を敢行して一時的に押し戻し、左翼立て直しに成功するが指揮官パッペンハイムは負傷、翌日死亡した。増援は結局焼け石に水で、スウェーデン軍の有利は動かず、皇帝軍の敗北は目前に迫りつつあるように見えた。

だが、神はさらなる混乱をお望みである。

午後、皇帝軍に奇妙な噂が広がっていた。傭兵隊長ピッコロミニーがグスタフ・アドルフが死んだのを見たというのである。それは真実であった。霧と硝煙で視界不良の乱戦の最中、一時的に王率いる一隊が敵陣で孤立し、流れ弾に当たり落馬。還らぬ人となっていた。享年三十七歳。午後三時、その死を確認した副将ベルンハイムはスウェーデン全軍に指揮権掌握を通知、これに対しヴァレンシュタイン軍も敵将の死を確信し士気を高める。だが優秀な指揮官が揃うスウェーデン軍はこの一大事でも軍の崩壊を防ぎ急速に建て直しを図る。結局大勢揺るがず、午後六時、ヴァレンシュタイン軍は兵を退き、スウェーデン軍もそれを追撃することは無く、リュッツェン会戦は終了した。

8)スウェーデン宰相アクセル・オクセンシェルナ

グスタフ・アドルフ死す、の報は瞬く間に全欧州に広がり衝撃を与えた。特にスウェーデンは国内に戦時体制を敷いての国家挙げての大事業であり、圧倒的な勝者から一夜にして存亡の危機に立たされることになった。

スウェーデン宰相アクセル・オクセンシェルナは王の即位以来彼を内政面で支え続けてきた文字通りグスタフ・アドルフの右腕である。特にグスタフ・アドルフが一代で軍事大国を築くことができたのは彼の働きによるところが大で、国内でもその冷静かつ実直な姿勢は敬意を集めていた。よく知られた君臣のエピソードに以下のようなものがある。

グスタフ・アドルフがあるとき宰相のことを「卿のように誰もがそんなに冷静になれば、そのうちなにもかもが凍りついてしまうであろう」と揶揄した。宰相は直ちに王に答えた。「陛下のように誰もがそんなにかっかと熱くなれば、そのうち何もかも燃え尽きてしまうでしょう」(注7)

国家の一大事に際し、この冷徹な宰相の熱血の努力がスウェーデンを救うことになる。

王とともに戦陣にあったオクセンシェルナはドイツにいる。まずは当時六歳であった王女クリスティナを新王に即位させ、王亡き後のスウェーデンの国内体制をひきしめつつ、かつ苦境に立たされた三十年戦争を継続させなければならない。もし撤退すれば、勢いを盛り返したヴァレンシュタイン軍がただで帰すわけが無く、またプロテスタント諸侯もことごとく皇帝側につくことになり撤退戦の過程で軍は壊滅的打撃をこうむるだろう。また、この大規模な軍事展開で犠牲を強いられてきた本国でも、何ら得るところ無く撤退したとなると、不満が爆発することは間違いない。また、偉大なカリスマ亡き後の不名誉な失敗は新王が幼王であることもあり野心家たちの反乱や諸外国の侵攻を招くことにもなりかねない。ここで立て直さなければ間違いなくスウェーデンは滅びる。

オクセンシェルナはこの戦争の方針を防衛戦争に切り替える。最も有利な状況を作り出して戦争を終わらせ名誉ある撤退を行う。ただし、諸外国はもちろん国内にもその方針を一切気取られてはならない。スウェーデンは徹底的に戦い抜くと思わせなければならない。

9)ハイルブロン同盟

帝国プロテスタント諸侯にとっても、グスタフ・アドルフの死は衝撃であった。特に、選帝侯をはじめとした大貴族と違い、中小貴族はこのままスウェーデンが敗れれば、絶対君主フェルディナント二世による血の粛清が待っている。この点で戦争継続をしたいオクセンシェルナと諸侯とは利害が一致する。

一六三三年五月十八日、スウェーデンとプロテスタント諸侯による軍事同盟「ハイルブロン同盟」が締結された。引き続きスウェーデンと中小プロテスタント諸侯は「ドイツの自由とスウェーデンへの感謝」を旗印に回復令の撤回を求めて戦い抜くことになる。

これに対して不満を覚えたのがフランスとザクセン公であった。リシュリューは対ハプスブルク戦略が自国抜きで構成されることに危機感を覚え、腹心の外交官フーキエールを送り込む。資金援助の停止や「ベールヴェルデ条約」の単独講和禁止事項をちらつかせつつ、カトリック国でありながらハイルブロン同盟の宗主国におさまり影響力を行使。ハイルブロン同盟の軍事司令官には当初スウェーデン軍の宿将グスタフ・ホルンが就く予定であったが、フランスのごり押しで野心家の傭兵隊長ベルンハルトが就くことになり、ホルンはスウェーデン軍司令官となる。この人事が後に重大な事態をもたらす。

一方ザクセン公はプロテスタント諸侯の同盟はあくまで帝国内の諸侯で構成されるべきであると考えており、当然その盟主は自身がなる野心を持っていた。ハイルブロン同盟を認めるならば、自身がプロテスタント諸侯の盟主となる願いは叶わない。かくして彼はヴァレンシュタインを通じて皇帝と単独和平を模索しはじめる。

10)「狡兎死して走狗烹らる」~ヴァレンシュタイン暗殺

グスタフ・アドルフの死後、ヴァレンシュタインは皇帝から与えられた和平交渉権を駆使して、ザクセン公とだけでなくスウェーデンとも秘密裏に和平交渉を行っていた。このころの彼が何を考えていたのか定かではないが、帝国の和平のために尽力していたとする説もあれば、自身の勢力を高く売りつけようとしていたとも、ボヘミア王位簒奪を狙っていたとも言われる。

そのような中、フランスの枢機卿リシュリューは腹心の外交官フーキエールをヴァレンシュタインに送り込み「皇帝より離反する代償としてボヘミア王位を保証する」(注8)と持ちかけた。このやり取りは何故か噂話として広がる。リシュリューとしてはヴァレンシュタインが皇帝から独立して第三勢力を形成すれば良し、さもなくば・・・と考えていたのか、ともかくもリシュリューにとって最も都合の良い結末に向かって情勢が動いていく。

一六三三年十一月、ベルンハイム軍がバイエルン公国に侵攻、皇帝はヴァレンシュタインに出撃を命じるが、何故かヴァレンシュタインは動かない。スウェーデンとの秘密交渉で何かあったのか、それとも野心か、あるいは動けない理由があったのか理由は不明であるがとにかく動かなかった。バイエルン公、皇帝とも怒り心頭である。

一六三四年一月二十四日、猜疑心に駆られた老いた絶対君主はついにヴァレンシュタインの罷免を決定した勅命に署名、さらに秘密裏に殺害を指示し、暗殺部隊が送り込まれる。同二月二十五日、ヴァレンシュタインはボヘミア王国の城郭都市エーガーにて暗殺される。享年五十一歳。あっけない最期であった。

ヴァレンシュタインの歴史的功績は彼が考案したその軍税制度にある。占領地に対して税をかけることで軍の資金を確保するというこの軍税制度はフェルディナント二世によってハプスブルク世襲領に対して行われ、やがて全欧州に広がっていくことになる。国によって軍税徴収が行われた結果、それまで戦争の主力であった傭兵は不要となり、やがて常備軍が編成される根幹の仕組みへ発展していくことになる。後世、ヴァレンシュタインが「最後の傭兵隊長」と呼ばれるゆえんである。

11)スウェーデン戦争終結へ

ヴァレンシュタイン亡き後、皇帝軍総司令官に就いたのはフェルディナント二世の嫡子フェルディナントであった。後の神聖ローマ帝国皇帝フェルディナント三世は若干二十六歳。そして初陣で華々しい戦果を挙げることになる。

ハイルブロン同盟はフランスの介入によって不協和音が流れていた。ベルンハルトはリシュリューの意を受けたフーキエールにすっかり抱き込まれており、スウェーデン軍新司令官ホルンとの間に確執が生まれていた。リシュリューはベルンハルトを「確かに卓越した将軍である。しかし自分を恃むこと甚だしく、誰も彼のことを信用できないでいる」(注9)と評した。リシュリューにしてみれば確かに転がしやすい人物であったかもしれない。

この確執を抱えたまま、一六三四年七月、ホルン軍とベルンハルト軍が合流してバイエルン公国に侵攻。これに対し新司令官フェルディナント三世率いる皇帝軍はバイエルンには向かわず手薄になったドナウ河畔のプロテスタント諸侯国へ攻撃を開始し、これに驚いたホルン・ベルンハルト両プロテスタント軍はアウグスブルク近郊の都市ネルトリンゲンに撤退。皇帝軍はスペイン領ネーデルラント総督”枢機卿王子”フェルナンドの援軍を受けてネルトリンゲン市城門付近に布陣するプロテスタント軍に攻撃を加えた。皇帝軍三万三千に対し、プロテスタント軍二万五千。プロテスタント軍は両司令官の反目で統制が取れず、開戦から数時間後には約一万七千もの戦死者を出してホルン将軍が捕虜になるなど大敗する(ネルトリンゲン会戦)。

その勢いのまま皇帝軍はスペイン軍の援軍を得てプロテスタント諸侯を次々と撃破、スウェーデンはいよいよ窮地に追い詰められていく。
ここで皇帝と単独講和を模索していたザクセン公がついに和平条約「プラハ条約」を締結する。一六三五年五月三十日、皇帝は回復令を撤回し、その代わりザクセン公は皇帝配下の諸侯として同盟権など主権を剥奪される。これは他の諸侯にも開示され、諸侯にたいして条約への署名が迫られた。スウェーデンにもはや勝ち目なしと見た諸侯はこぞってこれに署名を開始、ハイルブロン同盟の軍事司令官ベルンハイムも独断でこの条約に署名し、ハイルブロン同盟は敢え無く瓦解する。

むしろ、この条約に異を唱えたのがバイエルン公である。これでは諸侯の主権など完全に失われるではないか。さすがに皇帝もバイエルン公に気を使い、公の弟にヒルデスハイム司教領を与え、前妃と死別していた公に皇女マリア・アンナ・フォン・エスターライヒを嫁がせ、選帝侯位を改めて保証するなどいたれりつくせりでなんとか説得し、公は渋々ながら署名、旧教連盟を解散させる。かくしてフェルディナント二世はその地位をより強化させ、文字通り絶対君主として君臨しようとしていた。

ついに、三十年戦争は第三段階を終えて神聖ローマ帝国の勝利に終わるかに見えていた。このままスウェーデンは敗れ去るのか、風前の灯の中、宰相オクセンシェルナは驚異的な起死回生の戦略を見せつけることになる。

オクセンシェルナ渾身のスウェーデン復活劇、冴え渡るリシュリューの権謀術数、満を持して参戦する精鋭フランス軍、そしてついに絶対君主フェルディナント二世の天命が尽きようとしていた・・・
(つづく)

第三部→「近代の序章としての三十年戦争 第三部「ヴェストファーレン条約とその後」

注1)菊池良生著「戦うハプスブルク家」P97
注2)菊池前掲書P111
注3)現在のバイエルン州ローテンブルクに残るお祭り「マイスタートゥンク」にティリー伯ゆかりのエピソードがある。同都市を陥落させたティリー伯は「この街を略奪し焼き払う」と宣言、ただし、3.25リットルのグラスに並々と注がれたワインを用意し、「これを飲み干す者があれば街に危害を加えるのを止めよう」という。老市長ヌッシュが進み出てこれを見事飲み干し、感心したティリー伯は街に危害を加えるのを止めたという。実際にはティリー伯がローテンブルクを陥落させたという事実は無く言い伝えであるとのことだが、他の都市で似たことを行ったのかもしれない。事実であれば相手の顔を立てることで兵の暴走を抑えるティリー伯の苦心と老獪さを表すエピソードであるように思う。
ローテンブルク・オプ・デア・タウバー – Wikipedia ) 
注4)菊池前掲書P119
注5)菊池前掲書P120
注6)リュッツェンの戦い (1632年) – Wikipedia
注7)菊池前掲書P132
注8)菊池前掲書P137
注9)菊池前掲書P145
参考書籍
・菊池 良生著「戦うハプスブルク家 (講談社現代新書)
・菊池 良生著「傭兵の二千年史 (講談社現代新書)
・正村 俊之著「グローバリゼーション-現代はいかなる時代なのか(有斐閣Insight)
・玉木 俊明著「近代ヨーロッパの誕生 オランダからイギリスへ (講談社選書メチエ)
・松井 芳郎著「国際法から世界を見る―市民のための国際法入門

スポンサーリンク
スポンサーリンク

フォローする

関連コンテンツ

スポンサーリンク
スポンサーリンク