近代の序章としての三十年戦争 第三部「ヴェストファーレン条約とその後」

第一部→「近代の序章としての三十年戦争 第一部「ボヘミア反乱~デンマーク戦争」
第二部→「近代の序章としての三十年戦争 第二部「スウェーデン戦争」

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第五章 フランス戦争

1)オクセンシェルナのスウェーデン復活戦略

ネルトリンゲン会戦とそれに続く相次ぐ敗戦、そして「プラハ条約」によってプロテスタント諸侯がこぞって皇帝に臣従した結果、スウェーデン軍は完全に孤立無援の状態になった。今やスウェーデンに味方しているプロテスタント諸侯はヘッセン・カッセル方伯、ブラウンシュバイク公、そして元プファルツ選帝侯フリードリヒ五世の遺児のみであった。だが、まだ撤退していない。

宰相オクセンシェルナにとってこの状況下でスウェーデンを復活させる要点は”いかにしてフランスを三十年戦争に直接参戦させるか”である。フランスを参戦させることで、スウェーデン軍を再編成し、再び対抗しうる力を確保し、勢力を拮抗させる。だが、フランスはあくまで対スペインにその軍事力を向け、ドイツに対しては直接介入はしないという戦略である。このリシュリューの大方針をいかにして転換させるかが最大の課題であった。しかし、フランスにはスウェーデンを見捨てられない理由があった。ネーデルラント(オランダ)である。

当時のオランダはスペインに対する独立戦争の真っ只中にあり、一五六八年以来すでに七〇年近く戦い続けていた。この超長期間にわたる戦争継続のための資金は、直接的には借入金だが、それを常時返済し続けることを可能にしていたのが武器貿易であった。特に一六二〇年代以降、オランダが輸出する武器を製造するための鉄や銅のほとんどがスウェーデンからバルト海経由でアムステルダムに運ばれて加工され、諸外国に輸出されていた。その輸出品最大の輸入先がフランスであった。「一六二七年から一六四一年にかけて、リシュリューは、銅・硝石・火薬・弾丸・マスケット銃・大砲をアムステルダムで購入したのである」(注1)

スウェーデンの失墜によるバルト海制海権の喪失はそのままオランダの弱体化を招き、オランダの弱体化はスペイン・ハプスブルク家の伸張だけでなくフランスの弱体化に繋がる、という国家間で相互に連関する世界システムの萌芽がすでに芽生えていた。

このような一蓮托生の関係を背景に、オクセンシェルナとリシュリューの間でフランス参戦をめぐる駆け引きがなされ、一六三五年四月三十日、「ベールヴェルデ条約」が更新され、フランスの参戦が決定される。

2)リシュリューの対ハプスブルク戦略

フランスから見ると、西のスペイン本国、北東のスペイン領ネーデルラント、そしてスペイン領ネーデルラントから北イタリアまでのライン川沿岸に連なる親ハプスブルク家諸侯とオーストリア・ハプスブルク家が皇帝位にある神聖ローマ帝国、その奥のオーストリア・ハプスブルク世襲領によって、完全に包囲されている状況にあり、特にライン川沿岸のハプスブルク勢力の大動脈、通称スペインロードはスペインハプスブルク家、スペイン領ネーデルラント、オーストリア・ハプスブルク家をつなぐ補給線の役割を担っており非常に脅威であった。

そのスペインロードを分断し、機能させないためには神聖ローマ帝国の混乱と、皇帝権力の低下が望ましい。オーストリアとスペインを分断することでフランスはスペイン・ハプスブルク家のみに向かい合うことが可能になり、ひいてはブルボン家がハプスブルク家に変わり全欧州の覇権を握ることに繋がる。その大方針の下にこれまでフランスの対ドイツ戦略は練られてきた。つまり直接介入はあくまで対スペイン・ハプスブルクであって、神聖ローマ帝国に対しては非軍事的手段によるものとする。一方で、カトリック国であるフランスにとってプロテスタント勢力の著しい伸張も望むところではない。スウェーデン王国と神聖ローマ帝国は最終的にともに軍事的影響力を弱めることが望ましい。

このような基本戦略を前提として、リシュリューはひそかにスウェーデンと神聖ローマ帝国との戦争を横目にライン川左岸スペインロードの分断作戦を展開していた。宣戦布告無し、あくまで威嚇目的でフランス軍を動かし、ロートリンゲン、選帝侯トーリア大司教領、選帝侯ケルン大司教領、アルザス地域などに影響力を確保、トーリア大司教領を保護下に置いている。

そのような中、軍事バランスが崩れ、フェルディナント二世が権力を集中させ、後背の一大脅威となりつつある。スウェーデンが弱過ぎるのも困るのである。そこでリシュリューはオクセンシェルナの提案に乗り直接参戦を決めた。但し、宣戦布告をするのは神聖ローマ帝国に対してではなく、スペインにである。スペインがトーリア大司教領を不当に占拠しているとしてスペインに宣戦布告し、しかし軍は神聖ローマ帝国に侵攻するというわけだ。あくまで敵はスペインであって神聖ローマ帝国ではないという論理である。さらに、オランダとも軍事同盟を結び、スペイン領ネーデルラントに侵攻する。スペイン領ネーデルラント総督フェルナンドの援軍が皇帝軍の大きな力になっていたので、それを分断するという戦略であった。

かくして、三十年戦争はフランスの参戦によって全ヨーロッパを巻き込む大戦へと発展していった。

3)スウェーデンの反撃とフェルディナント二世の死

フランスの参戦によって、スウェーデン軍は立て直す余裕ができ、パネル将軍が総司令官に就き、レナート・トルステンソン将軍がこれを支える体制に移行していた。一六三六年十月四日、スウェーデンの最終防衛ラインとなるエルベ川河畔ヴィットシュトックで皇帝=ザクセン連合軍を迎え撃ち、撃退に成功する(ヴィットシュトックの戦い)。辛勝ではあったがひたすら負け続きであったスウェーデン軍にとってはターニングポイントとなる勝利であった。この勝利を受けてオクセンシェルナはスウェーデン本国に帰り、前線をパネル、トルステンソンとフランス軍に任せ、後方支援に専念する体制が構築。ついに反撃の準備が整う。

スウェーデン軍の反撃を受けながらも現状ではフェルディナント二世の絶対王政の体制は揺るがない。一六三六年十二月二十二日、選帝侯会議において、フェルディナント二世の嫡子フェルディナントのローマ王選出が決議され、オーストリア・ハプスブルク家による帝位世襲が確実なものとなる。年が明けた一六三七年二月八日、ついにフェルディナント二世が崩御する。三十年戦争を引き起こし、数多の危機を乗り越えて君臨し続けた強運の絶対君主は五九歳でこの世を去った。

早速嫡子ローマ王フェルディナントが新皇帝に即位しフェルディナント三世となる。皇帝軍総司令官は新皇帝の弟レオポルド大公が選ばれた。ティリー伯、ヴァレンシュタイン、その二人よりは落ちるものの新皇帝フェルディナント三世ら歴代の司令官と比較すると著しく見劣りする人事であり、やがてプロテスタント軍の盛り返しにより次第に劣勢に立たされて行くことになる。

4)対ハプスブルク同盟の快進撃

この時期、対ハプスブルク戦争においてスウェーデン軍、フランス軍、オランダ軍はいずれも優勢に立ち始める。

一六三七年十月十日、オランダ軍はフランス軍の支援を受けオラニエ公フレデリック・ヘンドリックの指揮の下、最重要拠点ブレダ要塞の攻略に成功する(注2)。オランダ独立を決定付けスペイン斜陽の始まりを意味する画期的な勝利であった。一六三九年十月二十一日には、ダウンズの海戦でオランダ海軍がスペイン海軍を撃破、スペイン海軍は七七隻中七〇隻を失う大敗を喫し、制海権を失う。

リシュリューはベルンハルトを引き抜いてフランス軍の傭兵隊長とすると、一六三八年二月、ベルンハルト軍がラインフェルデで皇帝軍を撃破。続いてフランス軍が誇る名将テュレンヌ元帥の精鋭部隊を派遣しベルンハルト軍とともにライン川地域最重要拠点ブライザッハを包囲させる。ブライザッハを攻略すればスペイン領ネーデルラントと北イタリアを繋ぐスペインロードを完全に分断できる。それだけではない、ここは帝都ウィーン攻略の最前線基地としても機能する。一六三八年十二月十七日、皇帝軍の激しい抵抗を退け、これを陥落させた。

スウェーデン軍は同時期、トルステンソン将軍指揮の下、ボンメルン一帯を着実に攻略してその影響下に治め、フランス軍と連携して戦線を急拡大させていた。一六三九年四月十四日、スウェーデン軍はザクセン領南部ケムニッツでザクセン軍を撃破。その勢いのままパネル将軍がボヘミアへと侵攻する。

一六四〇年、スペイン領カタロニアの反乱に続き、三十年戦争やオランダ独立戦争を始めたびたび対外戦争に駆り出されていたポルトガルで市民の怒りが爆発、ついに独立戦争(ポルトガル王政復古戦争)を起こす。リシュリューが好機と反乱軍を支援。北でオランダ独立戦争、東からフランス軍の侵攻、西でポルトガル独立戦争と、もはやスペインはドイツへの介入どころではなくなっていた。
問題がなかったわけではない。一六三九年にフランスの傭兵隊長ベルンハルトが、一六四一年にスウェーデン総司令官であったパネル将軍がそれぞれ野心に駆られて独立の動きを見せるが両者とも早いうちに相次いで病没し大きな動きにはならなかった。

一六四〇年、三十年戦争の間ひたすら無力であり続けた選帝侯ブランデンブルク辺境伯ゲオルグ・ヴィルヘルムが死去。嫡子フリードリヒ・ヴィルヘルムが新選帝侯となると、同家の方針をこれまでの日和見なスタンスから一変させる。若干二十歳の新選帝侯はプラハ条約の破棄を公言しプロテスタント諸侯軍とも皇帝軍とも距離を保ちつつ第三勢力として独立外交を展開、新皇帝に圧力をかけ始める。一六四一年、ブランデンブルク選帝侯領とスウェーデンは休戦条約を締結。後のプロイセン王国の基礎を築く大選帝侯の登場は三十年戦争の趨勢に大きく影響を与えることになる。

一六四一年十一月九日、一気に凋落するスペイン軍にあって一人奮闘していたスペイン領ネーデルラント総督フェルナンドが病没。この後任人事を巡ってスペイン・ハプスブルク家とオーストリア・ハプスブルク家で対立することとなり、両者に大きな亀裂が生まれる。

一六四二年、パネル将軍の後任としてスウェーデン軍新司令官となったトルステンソン将軍はモラヴィア一帯の拠点を次々攻略して一帯を制圧。ザクセン軍を撃破してライプツィヒを占領する。これに対して十一月二日、レオポルド大公率いる皇帝軍がブライテンフェルトにてスウェーデン軍に攻撃を加える。だが、トルステンソン将軍の巧みな戦術によって皇帝軍は死者五千もの損害を出して敗走した(第二次ブライテンフェルト会戦)。

一六四二年十二月十四日、三十年戦争を思うが侭に操ったフランスの枢機卿リシュリューが病死する。おそらく当時唯一ヨーロッパ全体を見渡して戦略を立てることができた人物であった。その後をマザランが継ぐ。その死は確かに大きく、フランス国内に少なからぬ影響を及ぼしたが、マザランもまたリシュリューに劣らぬ戦略家であり、三十年戦争の趨勢は動かなかった。

一六四三年五月十八日、起死回生を狙ってフランスに侵攻したスペイン軍二万七千を若干二十二歳のフランス軍総司令官コンデ公ルイ二世率いるフランス軍二万三千が迎え撃つ。その才能を見出し若くして総司令官に任命していたのは故リシュリューであった。スペイン軍は戦死者一万五千もの大敗を喫し、壊滅する。スペイン王国の凋落が確定した戦いであった。

5)トルステンソン戦争

一六四三年春、長らく沈黙を守っていたデンマーク王クリスチャン四世が、再起を図るべく神聖ローマ帝国と結びスウェーデンに宣戦布告、後背を脅かす。だがトルステンソンはその蠢動を一切無視して帝国領内から動かない。やがてクリスチャン四世もスウェーデン軍は攻めてくる気がないと判断し、油断して迎え撃つ備えを怠りはじめる。だが、トルステンソンは敵の油断を待っていた。神速でユトランド半島に取って返すや一気にデンマーク領に侵攻、次々と制圧していく。あまりの神速に後世、古代の名将の名を取ってハンニバル戦争とも呼ばれた。

一六四四年一月、トルステンソン軍によってデンマークが窮地に陥ったのに焦った皇帝フェルディナント三世はレオポルド大公率いる皇帝軍を、トルステンソン軍が侵攻するシューレスヴィヒ=ホルシュタイン公国に差し向けるが大敗、レオポルド大公は責任を取って皇帝軍総司令官の職を辞することになる。

だが、ユトランド半島を失ってもデンマーク王はまだ動じない。デンマークの首都はスカンジナビア半島東端シェラン島にあり、スウェーデンより勝る海軍力で防衛線を構成していた。そこでトルステンソンはオランダ海軍に援軍を要請、スウェーデン・オランダ連合軍とデンマーク軍との艦隊戦が展開される。クリスチャン四世自ら艦隊を指揮し一進一退の攻防となるが、一六四四年九月、キール湾近郊、フェーマルン島とロラン島の間の海域で行われた海戦によってデンマーク海軍が全滅。翌一六四五年二月、フランス、オランダの仲介によりスウェーデン=デンマーク間で「プロムセブルー条約」が締結され、大規模な領土割譲などを含むデンマークの完全降伏とスウェーデンのバルト海覇権が確定した(注3)(注4)。

6)三十年戦争の終結

一六四五年二月、トルステンソン軍がついにボヘミア王国に侵攻する。当時皇帝フェルディナント三世もボヘミア王国首都プラハにあった。二月二十四日、プラハ南南東五十キロの地点でスウェーデン軍と皇帝軍の戦闘となるが、もはや皇帝軍にスウェーデン軍に対抗するだけの力も残っておらず、大敗する。フェルディナント三世はわずかの近習を連れてウィーンへ逃亡し、その無様な様子は今は亡き「ボヘミア冬王」こと元プファルツ選帝侯フリードリヒ五世を彷彿とさせ、「フリードリヒの逃亡」と揶揄(注5)された。父帝が築き上げた「絶対君主としての皇帝」は幻想となった。

一六四五年七月、皇帝側でほぼ孤軍奮闘していたバイエルン公マクシミリアン一世は一度はフランスのテュレンヌ軍を退ける快挙を成し遂げるものの、七月二十四日、コンデ公率いるフランス軍本軍とテュレンヌ軍の合同軍の前に敗北する(第二次ネルトリンゲンの戦い)。フランスとよりを戻し講和しつつ、しかし決定的な損害ではなかったためまだまだあきらめない。翌四六年スウェーデン軍の侵攻の前に焦土戦術を取って徹底抗戦し長期に渡って戦い続ける。しかし、四七年三月、ついに力尽きスウェーデンに休戦を申し出る(注6)。バイエルン公は家臣の故・ティリー伯以上の不屈さを見せつけたことで、「カトリック・ドイツの守り主バイエルン」として、敵味方問わず一目も二目も置かれることになった。

一六四五年八月、節操無く寝返りを繰り返して今は皇帝側についていたザクセン公ヨハン・ゲオルグは、皇帝の逃亡、バイエルン公の敗北などによって、気がつくと孤立していた。だが、いまさらどの面下げて一度裏切ったスウェーデン軍に付くことができようか。しかし、だからといって戦い抜く力も覚悟もあるわけでもない。逡巡するなか、一族からもスウェーデン軍と講和するよう突き上げられ、ついに休戦協定を結んだ。

三十年戦争最後の会戦は、一六四八年七月、ドナウ川沿いの小村ツスマルスハウゼンで起きた。バイエルン公の配下であったヴェルト将軍の一隊が主君の休戦の方針を不服として、これに逆らう形でバイエルン軍を脱走、ほぼ壊滅状態になっていた皇帝軍に合流する。バイエルン軍はよほど不屈・勇武の気風なのだろう。あわせてテュレンヌ配下に組み込まれていた旧ベルンハルト兵もそれに呼応して皇帝軍に合流。フランス・スウェーデン連合軍に決戦を挑むが、一矢報いること叶わず敗北する(ツスマルスハウゼンの戦い)。同時期、スペイン軍はフランスのランスでコンデ公率いるフランス軍に大敗(ランスの戦い)し、スウェーデン軍のケーニヒスマルク将軍率いる別働隊がボヘミアのプラハを包囲していた。ツスマルスハウゼンの戦いで勝利したフランス・スウェーデン連合軍はついに帝都ウィーンに向けて進撃の準備を整えていた・・・

神聖ローマ帝国皇帝フェルディナント三世は和平を乞うた。

第六章 ヴェストファーレン条約

三十年戦争終結に向けた和平の試みは一六四〇年ごろから始まっていたが当初はプラハ条約に固執する皇帝と諸勢力との溝が埋まらず進展しなかった。一六四二年春、マインツ大司教は筆頭選帝侯だけが持つ特権として有事の際に皇帝の許可無く会議を招集できる権限を行使しフランクフルトにて代表者会議を招集、同年五月二十五日にヴェストファーレン候国のオスナブリュックとミュンスターでそれぞれ対スウェーデン、対フランスの講和会議を開く旨決議を行ったが、会議が始まったのは二年あまり遅れた一六四四年十二月四日であった。

同国際会議にはイギリス、ポーランド、ロシア、トルコを除く全欧州六十六カ国の代表百四十八人が集まったが戦局に左右されつつ遅遅として進まない。その間、戦局は著しく変化してハプスブルク・カトリック勢力の一方的敗北に終わり、会議の開始から四年経った一六四八年十月二十四日、ついにオスナブリュック条約とミュンスター条約の二条約からなるヴェストファーレン条約(ウェストファリア条約)が締結された。

1)ヴェストファーレン条約の主な決定事項

■宗教規定
・一五五五年の「アウグスブルクの宗教和議」にカルヴァン派が新たに追加。事実上領主と領民が違う宗教を信仰することが黙認された。
■憲法規定
・皇帝の立法、戦争、同盟、条約等の権限は制限され帝国議会の議決に拘束される。
・帝国内の全諸侯は主権と外交権を認められる。
■政治的規定
・フランスはアルザス地方、ロレーヌ地方のメッツ、トゥール、ヴェルダン各司教領を獲得。
・スウェーデンは賠償金五百万帝国ターラーと、前ボンメルン(シュテッティン、リューゲン、オーデル川、ヴェーゼル川河口を含む)、ヴィスマル市、ブレーメン公位、ヴェルデン司教領を獲得。同時に帝国議会の議席と投票権を獲得。
・バイエルン公の選帝侯位の保障、上プファルツを獲得。
・元プファルツ選帝侯フリードリヒ五世の子カール・ルートヴィヒを新たに選帝侯に任じ、下プファルツを与える。但しプファルツとバイエルン統合の際はこの選帝侯位は消滅する。
・ザクセン公はラウジッツ川流域の領有権を獲得。
・ブランデンブルク辺境伯は後ボンメルン領、ハルバーシュタット、カミン、ミンデン各司教領を獲得。
・スイスとオランダの独立承認。(注7)(注8)

2)スウェーデン女王クリスティナの寛大な譲歩

ヴェストファーレン条約の方向性を決定付けたのは最大の戦勝国スウェーデンの若き女王クリスティナであった。一六三二年、父グスタフ二世の死によって六歳で即位したクリスティナは成人した一六四四年から親政を開始。講和会議に際してスウェーデン使節に「私の全願望はキリスト教諸国民に平和をもたらすことにある」と述べた(注9)。敬虔なキリスト教徒として、父王が目指した全欧州をスウェーデンの影響下に治める古ゴート主義より、欧州全体の恒久的平和の確立を重視し、寛大な譲歩を行うことを決定する。帝国領内におけるプロテスタントの信仰の自由の確保などと引き換えに領土などに関して国内で不満が出るほどの譲歩を行った。

女王は単に戦争を終わらせるだけではなく、戦争そのものの原因の除去につとめた。宗教対立がそれぞれの宗派のドグマ化に拍車をかけ、全てを敵か味方かで判別する精神的狭量に人々を追い込む。この精神的狭量が政治力学に絡んで、それぞれの普遍主義が現実世界のなかに持ち込まれ、正戦が始まる。正戦は非寛容的殲滅思想に染まっている。女王は寛容な譲歩を示すことで、この正戦の意味を根底から奪い去ろうとしたのだ。正戦、すなわち無差別な殲滅戦などあってはならないのだ、と。女王クリスチナは正戦を生み出す信条の「非寛容主義を憎んだ。天才的な早熟の知性と強い自己意識がこれに激しく抵抗したのである」。(注10)

また歴史家のウェッジウッドはクリスティナ女王についてこう評す。

「名ばかりの人ではないにしろ、媚びへつらいに甘く、騙されやすかったが、強情でかつ知性をもった若人だった。あの高名な父の娘として、彼女は状況に対処する勇気を持ち、(彼女の老臣たちより)もっと大胆に、あっさりと、父の政策のセンチメンタルな墨守を放棄することができた」(注11)

3)ウェストファリア・システムの誕生

かくしてひとつの正義を奉じて互いに消耗戦に陥る中世的な殲滅戦争の時代が終わりを告げ、国家間相互に各々の秩序・正義を尊重しつつ限られたパイを奪い合う限定戦争の時代に移行する。国家がそれぞれ主権を認められ、ヨーロッパ全体の秩序と安定のために共通の伝統であった自然法思想とローマ法に基づいた国際法が形成されていくことになる。その秩序「ウェストファリア・システム」の主体となるのが主権国家である。唯一の主体として認められた国家の中に乱立していた多様な諸権力はやがて王というひとつの権力へと集中していく。絶対主義の時代の到来である。主権の概念はやがて王すら超え、「公共」へと昇華されたそのとき国民国家が誕生した。ウェストファリア・システムの極北、国民国家は、国家を人の上位に置くことで、人々に祖国のため喜んで命を捨てさせることになる。二十世紀初頭、限定戦争の時代は終わりを告げ、再び殲滅戦争の時代に突入する・・・あまりにも巨大な殲滅戦争を人類は経験した。

三十年戦争の悲劇は一人の女王の理想によってかりそめの平和と秩序をもたらしたが、他方、その理想が生んだ秩序の帰結としてより巨大な悲劇を生み出していった。三十年戦争後の世界がそうであったように、現代は二度の世界大戦の反省の上にウェストファリア・システムを基礎としつつ成り立っている。その近現代をかたちづくってきたウェストファリア・システムは第二次大戦後、一九七〇年代を境にしてグローバリゼーションの渦の中で福祉国家の行き詰まりとともに急速に融解していく。国際秩序は国家だけでなく、再びさまざまな主体が担うことになりつつある。諸権力がひとつの権力に、ひとつの権力が再び諸権力に・・・神話が終わろうとする、その転換期に我々は立っている。

終章

神聖ローマ帝国は完全に実体を失い、諸領邦国家のゆるやかな連合へと解体。「神聖ローマ帝国、と自らを呼んだ、そしていまだに呼んでいるこの政体はいかなる点においても神聖ではなく、ローマ的でもなく、帝国でもなかった。」(注12)とは一八世紀の作家ヴォルテールの言だが、三十年戦争が終結したまさにこのとき、帝国ですらなくなった。一八〇六年、ナポレオンの侵略によって消滅する。

スウェーデンは寛大な譲歩を行ったが、それでも押さえるべき点は押さえてバルト海一帯を完全に支配下におき、スウェーデン・バルト帝国として北方に覇を唱える。その成功を生み出した名宰相アクセル・オクセンシェルナはしかし不遇であった。彼はグスタフ二世王のヨーロッパ制覇という壮大な夢に殉じる覚悟だったからだ。クリスティナ女王の寛大な譲歩はそれに対する裏切りであると見えた。女王に激しく抵抗するが、女王の信念は変わらない。時代を作る原動力となった男は気がつくと時代に取り残されていた。条約締結後、政界を退き失意の晩年を送る。一方、クリスティナ女王はあまりにも聡明すぎた。その聡明さはやがて王という自身の地位との避けられない乖離を生む。一六五五年、彼女はカトリックへの改宗と退位を宣言。後半生を学問と信仰に生きた。「クリスティーナは天才的な女性であった。戦争以外に何もわきまえない国民の上に君臨するよりも学者たちと語り合うことを好み、王位を惜しげもなく捨て去ることによって名を謳われたのである」(注11)とはヴォルテールのクリスティナ女王評である。その後を継いだカール十世の時代にスウェーデンは全盛期を迎える。

フランスは同条約によってライン川一帯を完全に支配下に置き、ハプスブルク家に対して圧倒的な優位を確立する。スペインとの戦争は引き続き継続され一六五九年ピレネー条約の締結によって勝利をおさめ西ヨーロッパの覇権を確立する。リシュリューが望んだもののすべては得られなかったが、この稀代の戦略家の描いた絵によってブルボン朝はルイ十四世の時代に絶対主義体制を確立、全盛期を迎えることになる。だが、ウェストファリア・システムに最も対応出来たがゆえに、その絶対主義体制は革命を招来する。フランス革命は国民国家を生み、ナポレオンが全ヨーロッパを席巻し、そして「近代」が創造される。

オランダ。もし真にこの時代の勝者を規定するならば、この新興の小さな独立国がそうであっただろう。様々な戦争にオランダ商人は死の商人として深く関与し、武器貿易によって莫大な利益を得た。バルト海から大西洋へと抜ける海上交通を支配し、中継貿易を通じて全ヨーロッパをその影響下に収め、アジア交易も独占することでオランダ海上帝国として君臨した。その実体はスウェーデン産の鉱物、穀物、さらに同国のバルト海制海権に支えられていたため「オランダ=スウェーデン複合体」(注13)と呼ばれる。一八世紀初頭の大北方戦争によってバルト海の覇権がスウェーデンからロシアに取って代わられ、一八世紀末、英蘭戦争に破れて大西洋の制海権を失い、海外領土の多くを失って没落する(注14)。

オーストリア・ハプスブルク家はしばらく低迷するが、一七世紀後半、オーストリアのハプスブルク世襲領に注力することで持ち直し、一八世紀末のオーストリア女大公マリア・テレジアの時代に絶対君主国家として勢力を盛り返す。ナポレオン戦争後に再び失墜するが一八六七年オーストリア=ハンガリー帝国として再興され第一次世界大戦の敗戦まで命脈を保った。

スペイン・ハプスブルク家は三十年戦争と一六五九年の対仏戦争の敗北の結果、凄まじい勢いで坂を転げ落ちていく。オランダの独立に続いてポルトガルの独立を許し、一七〇〇年、カルロス二世の死をもってスペイン・ハプスブルク家の王統が断絶。スペイン継承戦争(注15)を経てスペイン王国はブルボン家の王を迎えることになる。リシュリューのハプスブルク家打倒の野望は半世紀を経て実現した。

バイエルン公国は選帝侯の地位を確実なものとした後、やがてハプスブルク家と並ぶ威勢を誇るようになる。マクシミリアン一世の孫娘マリー・アンヌ・ド・バヴィエール(注16)はルイ十四世の皇太子ルイと結婚し、その子はスペイン継承戦争を経てスペイン王フェリペ五世として即位。同じくマクシミリアン一世の曾孫カール・アルブレヒト(注17)はマリア・テレジアの夫フランツと神聖ローマ帝国皇帝位を争い、後に退位したものの、一時はハプスブルク家に代わって即位するほどであった。神聖ローマ帝国内の領邦国家ながら全欧州に影響力を持つほどに成長し、ナポレオン戦争においても時の選帝侯マクシミリアン四世(注18)はナポレオンと同盟を結ぶことで独立を堅持。プファルツ選帝侯領と統一しバイエルン王国となる。その後もドイツ連邦有数の強国として、プロイセン王国と対立。ビスマルクにより北ドイツ連邦(注19)が成立した後は南ドイツ諸国の中核として最後までプロイセン主導のドイツ統一に抵抗し、ドイツ帝国成立後もドイツ議会においてプロイセン王国に次ぐ地位を確保(注20)した。一九一八年のドイツ帝国崩壊とともに王国も消滅し、ヴァイマール共和国に吸収される。不撓不屈の伝統を持ち続けた小さな大国としてその名を歴史に刻んだ。

ブランデンブルク=プロイセン同君連合は一六四〇年にフリードリヒ・ヴィルヘルムがブランデンブルク選帝侯としてあとを継がなければ、ほどなくして消滅していたかもしれない。それは世界の歴史を大きく変えることになっただろう。同地は三十年戦争において最も戦災を受けおよそ領民の半分が死亡したとも言われる。フリードリヒ・ヴィルヘルムは講和会議を巧みに誘導してまるで戦勝国のように様々な領土を獲得。荒廃した領土の復興を行いつつ、税制を整え、軍備を増強し、一六五五年、当時プロイセンの宗主国であったポーランドに対してスウェーデンと同盟して戦争を行いポーランド・ロシア連合軍を撃破。巧みに同盟外交を展開して独立を勝ち取り、一六七五年には全盛期のフランス=スウェーデン連合軍をも撃破してブランデンブルク・プロイセン地域からスウェーデンの影響力を排除。宗教的にも寛容でフランスから追放されたプロテスタントを多く受け入れ、彼らの多くが技術者であったこともあり、国力を著しく高めた。一選帝侯領ながら神聖ローマ帝国から完全に自立を果たし、後のプロイセン王国の礎を築き上げた(注21)。その子は初代プロイセン国王フリーフドリヒ一世。大選帝侯として現代のドイツへと続く歴史の始まりに屹立することになる。

・・・少しさかのぼって、戦乱未だ収まらぬ一六四二年。二十二歳のブランデンブルク選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムは、十六歳のスウェーデン女王クリスティナに求婚している。政略か、はたまた聡明すぎる者同士何か惹かれるものがあったのかは定かでないが、この次代を担う若き二人の縁談が成立することは、無かった。

(終わり)

注1)玉木 俊明著「近代ヨーロッパの誕生 オランダからイギリスへ (講談社選書メチエ)」P73-74
注2)de Gouden Leeuw―金獅子亭 » ブレダ攻囲戦(1637)Beleg van Breda
注3)この一連のスウェーデン=デンマーク戦争はスウェーデン軍司令官の名をとってトルステンソン戦争と呼ばれる。レナート・トルステンソン将軍はグスタフ二世亡き後スウェーデン軍を建て直し、勝利に導く三十年戦争後期随一の名将であるが、実はかつて捕虜になった経験から病躯であり、常に担架に乗っての指揮を行っていた。
注4)トルステンソン戦争 – Wikipedia
注5) 菊池 良生著「戦うハプスブルク家 (講談社現代新書)」P186
注6)三十年戦争第4部 フランス・スウェーデン戦争
注7)ヴェストファーレン条約 – Wikipedia
注8)菊池前掲書P188-190
注9)菊池前掲書P192-193
注10)菊池前掲書P193
注11)クリスティーナ (スウェーデン女王) – Wikipedia
注12)神聖ローマ帝国 – Wikiquote
注13)玉木前掲書P74
注14)オランダ海上帝国 – Wikipedia
注15)スペイン継承戦争 – Wikipedia
注16)マリー・アンヌ・ド・バヴィエール – Wikipedia
注17)カール7世 (神聖ローマ皇帝) – Wikipedia
注18)マクシミリアン1世 (バイエルン王) – Wikipedia
注19)北ドイツ連邦 – Wikipedia
注20)ドイツ帝国 – Wikipedia
注21)フリードリヒ・ヴィルヘルム (ブランデンブルク選帝侯) – Wikipedia
参考書籍
・菊池 良生著「戦うハプスブルク家 (講談社現代新書)
・菊池 良生著「傭兵の二千年史 (講談社現代新書)
・正村 俊之著「グローバリゼーション-現代はいかなる時代なのか(有斐閣Insight)
・玉木 俊明著「近代ヨーロッパの誕生 オランダからイギリスへ (講談社選書メチエ)
・松井 芳郎著「国際法から世界を見る―市民のための国際法入門

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