鶴岡八幡宮と由比ヶ浜

去年の12月はじめごろ、鎌倉駅周辺を散策して回りました。一つの記事にまとめようとしたんですが、相当なボリュームになりそうだったので、スポット別に。まずは鶴岡八幡宮の紹介を。

二の鳥居と段葛
二の鳥居と段葛
鎌倉駅から十分ほど歩くと、若宮大路のど真ん中に鶴岡八幡宮の二の鳥居と、鶴岡八幡宮境内まで伸びる道路より一段高くされた参道「段葛」が見える。三方を山に囲まれた峻厳な地形であった鎌倉が源頼朝によって整備されていく過程で、山が削られ、平地が増えた結果、若宮大路一帯は雨が降るたびに土砂や水が流れ込み、歩きにくい状態になることが多かった。そこで北条政子、北条時政らによって道より一段高い参道が作られたのが始まりである。防衛の観点から境内に近づくにつれて道が狭くなり、実際の距離より長く見えるようになっている。

境内入口
境内入口
鶴岡八幡宮は一〇六三年、河内源氏の棟梁源頼義によって前九年の役戦勝祈願のため京都の石清水八幡宮を勧請して由比郷鶴岡(現在の材木座一丁目)に建てられた鶴岡若宮を前身とする。

一一八〇年八月、平氏追討の兵を挙げた源頼朝は伊豆を出て、相模、安房、武蔵などの源氏ゆかりの武士を次々と従え、同十月、鎌倉に入り大蔵御所を構えて拠点とすると、鶴岡若宮を現在地に移転、鶴岡八幡宮とした。一一九一年、火災による社殿の焼失を機に上宮下宮を整備して再度石清水八幡宮から勧請、鶴岡八幡宮を鎌倉の中心に据えた街づくりに着手する。鎌倉幕府の支配地域が広がり、武士の時代が到来すると鶴岡八幡宮を中心として八幡信仰が日本中に拡大、宇佐神宮、石清水八幡宮と並んで三大八幡宮の一つ(鶴岡八幡宮ではなく福岡の筥崎宮を入れる場合も)に数えられることになる。

舞殿
舞殿
一一九三年に建てられた、奉納の舞など神事が行われる入り母屋作りの建物。下拝殿とも呼ばれる。建築前にこの場所にあった若宮廻廊で、捕えられた静御前が頼朝ら幕府重臣の前で「吉野山峰の白雪踏みわけて 入りにし人のあとぞ恋しき 静や静しずのおだ巻きくり返し 昔を今になすよしもがな」との舞を奉納、その姿に感銘を受けた北条政子は頼朝に静御前の助命を請うたと伝わる。

大石段と本宮
大石段と本宮
大石段は本宮拝殿へと登る六十一段の石段。石段左手にはかつて樹齢八百年とも言われた御神木の大銀杏があったが、二〇一〇年三月、強風によって敢え無く倒壊した。今は再生可能な状態に剪定した樹幹部分が移植された親イチョウと、元あった場所から生えつつある複数の若芽の小イチョウとが保護されている。一二一九年一月二十九日、雪が積もり真っ白になったこの石段で三代将軍源実朝は待ち伏せていた兄頼家の子公暁により暗殺され、源氏将軍は途絶えた。

石段を上り、朱塗りの楼門をくぐると本宮。現在の本宮は一八二八年に徳川家斉によって再建されたものである。祭神は応神天皇、比売神、神功皇后。

そもそも八幡神のルーツを探っていくと大分県宇佐地方の豪族宇佐氏の神体山信仰に、新羅系渡来集団辛嶋氏の新羅国神(道教+仏教の融合神)があわさり、そこに大和から進出してきた三輪山信仰の大神神社系の一族大神氏が彼らを従属させ、大神氏が信奉する神功応神信仰が習合していくことで七世紀ごろに誕生していった神仏習合神で、それに山岳信仰があわさってより仏教色を強め、いわば諸勢力を糾合する神として存在感を強める。その後、当時の大和王権が九州に進出していく過程で朝廷と大隅・日向両国の隼人勢力との対立の間で軍事的な影響力を高め、武神となっていった。

このような背景から時の権力に強い影響を及ぼし、軍事だけでなく天皇の即位等政治に関しても積極的に介入しその権力に正統性を与えてきた。また、上記のような複雑な成立経緯を持つゆえに平安時代に仏教による鎮護国家体制の運営において神仏習合神として中心的な役割を担う役割を持っていた。例えば道鏡は八幡神の託宣を背景に皇位を狙い、またその失脚についても宇佐神宮の託宣が重要な影響を及ぼした。平将門は関東で新皇即位に際して八幡大菩薩の託宣に基づいて即位を行うという儀式を行っている。また京都の石清水八幡宮の勧請に際しても台頭しつつあった藤原氏の権力の後ろ盾として八幡神が機能している。八幡神の影響力を味方につけるために藤原氏が石清水八幡宮を建立したものだ(参考:逵 日出典著「八幡神と神仏習合」、本郷和人「武士から王へ」)。

このような八幡神の役割から、頼朝としては源氏の氏神であるという以上に、自身の権力の正統性を確立するという点で鶴岡八幡宮の建立は非常に重要であった。鶴岡八幡宮を中心として八幡宮神宮寺をはじめとしてさまざまな仏教寺院を建立し、京都をまねた鎮護国家体制を鎌倉に敷いていく。鶴岡八幡宮境内にも法華堂や仁王門などさまざまな仏教施設があったが、明治維新以降の廃仏毀釈、神仏分離の中で仏教施設は悉く破壊された。

一一九二年七月、この本宮で頼朝は正装して勅使を迎え、征夷大将軍に任命される。あるいは室町末期の一五六一年、長尾景虎はこの鶴岡八幡宮で山内上杉家の家督を継ぎ、関東管領に就任している。鶴岡八幡宮は権力の重要な源泉であり、それゆえに武士たちはそれを篤く信仰して広めていった。

若宮
若宮
鶴岡八幡宮の上下宮の下宮にあたる祭殿。一一九一年に整備された後、一六二四年、徳川秀忠によって造営された。それまでの若宮は荏柄天神社に移設されている。

丸山稲荷社
丸山稲荷社
鶴岡八幡宮ができる以前からこの近隣にあったと伝わる稲荷神社。現在の社殿はかつて境内にあった源実朝を祀っていた柳営社を移築したもので一五〇〇年に建てられたものと伝わっている。

白旗神社
白旗神社
源頼朝と源実朝を祀った神社。元々は一二〇〇年、北条政子または源頼家が朝廷より白旗大明神号を賜り頼朝を祀るお堂として建立したと伝わるが、真偽は不明である。明治の合祀令の際に境内の柳営社と合祀され頼朝、実朝を祀る白旗神社となった。

よくわからない点として挙げておくと、その白旗大明神号で、明神号は室町時代に登場した吉田神道において使われる神号―例えば豊臣秀吉の豊国大明神など―であり、怨霊ではなく権力者を神として祀るというのは少なくとも十五~六世紀ごろに登場する新しい信仰である(参考:末木文美士「日本宗教史」)。また白旗神社というと多くの場合祀られているのは義経である。そして白旗大明神という語の登場は個人的に調べた範囲で確認できるのは実は十八世紀の仙台藩医相原友直(一七〇三~一七八二)の「平泉実記」だ。相原は義経を祀った白旗神社について触れたあと「鎌倉ノ白旗大明神ハ頼朝公ヲ祭レリ、頼家ノ創立ト云、義經ハ頼朝ヨリ先ニ死スルト雖トモ其白旗ト崇メシハ何レカサキナルコト未詳之」、意訳すると「鎌倉にも頼朝を祀った白旗大明神ってあるよ。頼家が創立らしいね。義経は頼朝より先に死んだけど白旗と崇められたのはどっちが先なのか謎ー」ということで、つまり謎。

また、豊臣秀吉にまつわるエピソードとして、小田原の役が終わった後、鶴岡八幡宮を参詣し白旗社に奉納されていた源頼朝像をポンポンと叩きながらこう語っているという。

凡日本広シト云共微賎ヨリ起テ天下一統ニ切敷四海ヲ掌ニ握レル者ハ吾分ト秀吉ノミナリ、去ナカラ吾辺ハ多田満仲ノ後胤ニテ王氏ヲ出テ遠カラス、其上先祖伊予守頼義陸奥守義家相継テ関東ノ守護タリ故、国侍ノ馴染モ多ク被官ノ筋目有シヲ以テ、流人ノ身成ト云共義兵ヲ挙ラルゝヤ否、旧キ好ミヲ追テ東国武士属従ヒ速成ノ大功ヲ建テラレタリ、我等ハ氏モ系図モナキ匹夫ヨリ出テ、ケ様ニ世上ヲ靡スナレハ、吾分ヨリ秀吉カ創業増タル事明白ナリ、去ハイツレニモ吾辺ト我等トハ天下友達ト云ツヘシ

「およそ日本広しと言えども小身から天下をひとつに切り従え四海握ったのはあなたとこの秀吉だけだ。しかし貴方は多田満仲の後胤で王族の出自から遠く無く、父祖の頼義、義家は東国の守護であり、国侍の馴染みも多く官位を得る筋目を有しており、故に流人の身から挙兵しても旧恩を感じる東国武士の多くが従い、素早く統一ができた。我は氏も系図もない元々は卑賤の出で、このように天下を平定したことは、あなたよりこの秀吉の創業が優れているのはあきらかである。とはいえ我らは天下友達であるというべきだろう。」

もしかしたら白旗大明神という号は秀吉とゆかりがあるのかもしれない。秀吉も豊国大明神号を死後追贈されているが、もともとは新八幡を名乗りたかったともいう。天下を取ってからの秀吉は何かと自身を頼朝に模していた。頼朝を神にまで高めることで、結果として自身をさらなる高みに引き上げる、そのような意図があったのかもしれない。

鶴岡八幡宮の、八幡信仰のもつ権力性がこのような時の権力者を引き寄せる引力を持つというエピソードのようにも感じる。

旗上弁財天社
旗上弁財天社

鶴岡八幡宮内に多数あった仏教施設の一つだったが、明治の廃仏毀釈の一環で一度破壊され、一九八〇年に再建された。源平池に浮かぶ島に作られている。

源平池
源平池
北条政子が作らせたという池。

柳原神池
柳原神池
境内有数の紅葉スポットの一つ。蛍や鈴虫なども観察できるという。若干紅葉の季節より遅れていたため、枯れ気味ながら、まだまだ見ごたえがあった。

若宮大路
若宮大路
鶴岡八幡宮は二の鳥居からが境内ではなく、その先ずっと由比ヶ浜まで参道が続いている。もともとは段葛も残っていたが再開発の段階で二の鳥居から先は取り壊されてしまっている。写真は鎌倉市体育館付近の交差点歩道橋から鶴岡八幡宮方面。

一の鳥居
一の鳥居
こちらは若宮大路を由比ヶ浜方向に向かったとき。目の前の鳥居が一の鳥居。

由比ヶ浜
由比ヶ浜
本当は朝一で鶴岡八幡宮に行き、周辺を散々散策して最後に行ったのが由比ヶ浜だったので、このように夕暮れ時であった。

津波情報地図
津波情報地図

滑川河口
滑川河口

鎌倉市街を流れる滑川の河口。滑川の向こうは材木座海岸。実はこの河口周辺は閻魔川とも通称される(参考:赤坂憲雄「境界の発生」P26-27)。古くは葬送と交易の地であった。一の鳥居近くには人骨が多く出土している骨塚などもあり、近隣の寺院極楽寺がこの一帯の葬送と交易の支配権を握っていたという。古代から中世の庶民の葬送はそのほとんどが風葬または遺棄葬で、賽の河原という言葉の通り死ねば河原に捨てられるのが常であった。鎌倉の場合はこの由比ヶ浜が賽の河原のかわりであった(参考:松尾剛次著「葬式仏教の誕生」P46)。庶民が墓に埋められるのは近世のことにすぎない。

由比ヶ浜
だが、そのような記憶も今は昔。歴史と人びとの生と死を洗い流して、今は人気の海水浴場として、地域の人の憩いの場として、由比ヶ浜は今に至っている。

由比ヶ浜
関東に住む者として、鎌倉と江戸と東京とが互いにせめぎ合い、結ばれ合い、幾重にも張りつめ、絡み合うその上に生きているという感覚を強く持っていたのでいちど鎌倉は訪れておきたかった。それゆえに鶴岡八幡宮を始め周辺の歴史的スポットを巡って当時に思いを馳せることができたのは幸福であるとともに、背筋が伸びる思いだった。

夕日が本当に綺麗で、極楽浄土というのはあの先にあるのだろうという思いを当時の人々も抱いていたのだろうと思わずにいられなかった。祈りの先にあるものもまた・・・新年はこの記事とともに始めたいと思います。あけましておめでとうございます。

参考サイト
鶴岡八幡宮
鶴岡八幡宮 – Wikipedia
鶴岡八幡宮~鎌倉~
鶴岡八幡宮
源頼朝 – Wikipedia
段葛 – Wikipedia
鎌倉 – Wikipedia
平泉雑記 巻之五
相原友直小伝
豊臣秀吉 – Wikipedia
okadoのブログ: 頼朝に天下を語った豊臣秀吉~白旗神社~

参考書籍

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