殿ヶ谷戸庭園、お鷹の道と真姿の池湧水群

去年の十二月初旬、国分寺駅付近から武蔵国分寺跡にかけて散歩しました。武蔵国分寺一帯は別の機会に紹介するとして、まずは殿ヶ谷戸庭園とお鷹の道、真姿の池湧水群について。

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殿ヶ谷戸庭園

殿ヶ谷戸庭園

殿ヶ谷戸庭園は大正二年から同四年にかけて三菱合資会社の幹部、後に満鉄副総裁となる江口定條の別邸が建てられ、昭和四年、三菱財閥創業家の岩崎彦弥太によって庭園として整備された。昭和四十九年、東京都が買取り、地域住民の「殿ヶ谷戸の緑を守る会」の保護運動などもあって昭和五十四年、日本庭園として一般公開されて今に至る。

殿ヶ谷戸庭園は国分寺崖線(こくぶんじがいせん)――武蔵野台地が多摩川に浸食されることで、武蔵村山市から世田谷区にかけて形成された武蔵野台地が立川段丘へと落ちる崖地――の一角に位置する。谷戸(やと)とは自然が作った谷地のことで、1)三方が台(丘)に囲われ、一方が開いている、2)囲われた低地は湿地、後に水田となったところが多い。3)谷底から溢れた水が流れ出しているなどの特徴がみられる。関東地方を中心に多くみられ、武蔵、相模地方において殿ヶ谷戸(とのがやと)・谷戸川(世田谷区砧公園を流れる川)など地名として使われることが多い。また同じ谷戸地形はやつ(扇ガ谷、谷津など)、さわ(北沢、野沢など)、くぼ(浅久保、荻窪など)、ふくろ(袋、池袋など)などとも呼ばれる。東北地方ではやちと呼ばれる(参考:田中正大著「東京の公園と原地形」P21-28,165-171)。

敷地面積は21,123.59平方メートルで、20分から30分もあれば一回りできる程度の広さでしかないが、起伏にとんだ地形に、紅葉の季節ならば色とりどりの木々、竹林が植えられ、天然の湧水が流れ込んだ次郎弁天池など非常に歩き甲斐がある。

殿ヶ谷戸庭園

国分寺崖線に沿って落ちていく傾斜。この起伏はたまらない。写真左が国分寺崖線でその上が武蔵台台地、右が立川段丘でこの谷底にあたる谷地が殿ヶ谷戸と呼ばれる。

殿ヶ谷戸庭園竹林の猫

竹林にて物思いにふける猫様をお見かけする。
殿ヶ谷戸庭園竹林の猫
しかし、竹林の賢猫様は人間なぞ相手にしてられぬと、いずこかへ・・・

次郎丸弁天池

次郎丸弁天池
天然の湧水を国分寺崖線の段差を利用して滝にして次郎丸弁天池に流れ込ませている。谷戸地形ではこのような天然の湧水が流れ出して池となるハケと呼ばれる形状が至る所に見られる。あるいは国分寺崖線そのものをハケと呼ぶことも多くある。ここは都内でもそのハケの代表格として挙げられるほどの美しさで知られる。

殿ヶ谷戸庭園の紅葉

天然の湧水が流れ込んだ池。紅葉とのマッチングがひじょーーに美しくて惚れ惚れする。写真がいまいちなのはまぁ大目に見ていただいてですね、ぜひ生で見ていただきたいところ。

殿ヶ谷戸庭園の紅葉

鹿おどし

自然の湧水を利用した鹿おどし。カコーンと風情のある音を聞かせています。

馬頭観音

馬頭観音

国分寺市内に現存する十一基の馬頭観音の一つ。文政七年(一八二四年)七月二十三日建立とある。当時の国分寺村は戸数六十六、男一五七人、女一四九人、馬二十二頭であったという。馬は農耕に従事したほか、薪炭や野菜などを江戸へ運搬したり、府中宿への助郷として供給された(園内の掲示板より)。馬頭観音は馬の供養のために特に江戸時代以降に各地で建立された供養塔で、馬の供養の他、旅の安全なども祈られた。助郷について簡単に説明すると、江戸幕府は江戸を拠点として発展させるべく五街道を整備し、街道沿いに中継地点となる宿駅を設置、さらに公用輸送を円滑に進めるため周辺の村落に対し、各宿場への人馬の提供を義務化した。その夫役を助郷と呼ぶ。国分寺村には最大十五頭の馬の供給が期待されていたとのことなので、それに十分応えることが可能な馬があったということだろう。また、供給できない場合は金銭で代納できる。

馬頭観音は関東地方のありとあらゆる場所にあったが、戦後の都市化の過程で、その多くが取り壊されるか、神社仏閣あるいは郷土博物館などに移設されているので、見つけてみるといいと思う。そして、その由来などを調べてみると、当時の名もなき人々の営みがじわじわと浮かび上がってくるのでとても面白いのです。

殿ヶ谷戸庭園


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JR中央線・西武国分寺線・多摩湖線「国分寺」駅南口徒歩2分

さて、殿ヶ谷戸庭園の西側に面した道路を南方向へ十五分ほど道なりに歩いて住宅街の間を抜けたあたりから国分寺崖線から流れ出して野川へと注ぐ小川に沿った「お鷹の道」という遊歩道が整備されています。

お鷹の道

お鷹の道

お鷹の道
寛延元年(一七四八年)、国分寺一帯は尾張徳川家のお鷹場に指定された。鷹狩は古くから権力者たちの遊戯として親しまれ、徳川家光の代に公式に江戸近郊の一帯に鷹狩を行う地域「鷹場」が指定された。多摩地区には三鷹など鷹場由来の地名も多く残る。そのような歴史にちなみ、国分寺崖線から流れる清流に沿って昭和四十七年に整備された遊歩道に「お鷹の道」と名付けられた。

現在でも夏になるとホタルや、そのホタルの餌となるカニワナなどがみられるほか、現在でもこの清流で洗濯をする様子も見られるとか。あとで紹介する真姿の池湧水群とともに環境省指定名水百選にも選ばれている。

お鷹の道から真姿の池へ
住宅街の間を抜けていくお鷹の道を十分程度歩くと、真姿の池との岐路に。

お鷹の道
右折すると、ひときわ美しく整備された遊歩道が目の前に広がる。

真姿の池湧水群

真姿の池湧水群

国分寺崖線から湧き出た水がこの左手付近にある真姿の池と右手の用水路へと流れ出して流路を作り、野川へと至る。野川はやがて多摩川へと合流し東京湾へと続く、その源流の一つ。写真のように崖線と崖線上の雑木林、斜面の中腹にあるおやしろ、水が湧き出てくる流路のバランスがひじょうに美しくて見惚れる。

真姿弁財天

真姿弁財天

真姿の池に弁財天が祀られている。言い伝えによると「嘉祥元年(八四八)不治の病に苦しんだ玉造小町が、病気平癒祈願のため国分寺を訪れて二一日間参詣すると、一人の童子が現れ、小町をこの池に案内し、この池の水で身を清めるようにと言って姿を消したので、そのとおりにしたところ、たちどころに病は癒え、元の美しい姿に戻った。それから人々はこの池を真姿の池と呼ぶようになったという」(現地の掲示板より)。

玉造小町は謎に包まれた人物の一人である。玉造小町伝説は平安中期から平安末期にかけて成立した物語で、かつては美しかったが親兄弟を失い零落して老いさらばえて街を徘徊し、往時を思い出しながら自らを語るという物語になっている。その彼女の伝承はいつしか小野小町と重なり合って、小野小町伝説として語り継がれるようになっていく。そのようなよく知られた悲劇のヒロインの傷すら癒す、という伝承によってこの湧水地の美しさを讃えるものとされたのであろう。

真姿の池湧水

この日も見かけたが、湧水を汲みに来る人は多いらしい。ただし水質は劣化しているようで、かつては生水での引用は禁止であったらしいが、現在、環境省のページでは「飲用としては不適」とされているので注意が必要だ。

湧水の湧出口のあたり

湧水の湧出口のあたり

真姿の池湧水群

ということで涼やかな水源地を堪能したので、お鷹の道に戻り、そのまま武蔵国分寺跡へと向かった。ということで続きはまたそのうち。


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JR中央線・西武国分寺線・多摩湖線「国分寺」駅南口徒歩15分
参考サイト
殿ヶ谷戸庭園|公園へ行こう!
宿駅伝馬制度って、なんのこと?
助郷 – Wikipedia
京浜河川事務所|多摩川の名脇役|お鷹の道
タチオンWalking(ウォーキング)-お鷹の道(国分寺市)
・環境省選定 名水百選/詳細ページ
玉造小町子壮衰書
小野小町の謎

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