革命発生の3つの条件~フランス革命の背景まとめ

柴田 三千雄著「フランス革命(岩波現代文庫)」によると、革命の発生条件には以下の三つがあるという(注1)。」

1)既存の支配体制の統合力が破綻すること
2)大規模な民衆騒擾、都市や農民の民衆蜂起がおこること
3)新しい政治集団になりうるものが存在すること

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1)既存の支配体制の統合力が破綻すること

(1)アンシァン・レジームの行き詰まり

革命以前のフランス「アンシァン・レジーム」の国家構造は「社団国家」と呼ばれる。「社団(コール)」とは都市、農村共同体、貴族、ギルド、教会、高等法院(最高裁判所)など「それ以前の何らかの自決権をもっていた組織や団体が解消されずに、国王によってそれぞれの団体に応じた権利を認可され」(注2)ることで成立し、国王はその社団の特権を保証することと引き換えに中央集権を達成する。不完全な中央集権であるがゆえに社団の特権を保証する強い王権としての絶対主義的イデオロギーが必要とされた。そして、フランスの国民はすべて、何らかの中間集団としての社団の構成員であった。ただし、その社団国家体制からユダヤ人、異端者、浮浪者は「よそ者」として排除され、女性は社会的影響力は強かったものの、公的資格のない曖昧な立場に追いやられていた。

ブルジョワ」は様々な意味を持つ言葉だが、特に十七~十八世紀フランスにおける「ブルジョワ」とは、土地の地代(ラント)や小作料、家賃、年金など不労所得で生活する年金生活者(ランティエ)のことを指す。十七世紀から十八世紀にかけてのフランスにおける資本主義の発展は多くの商工業での成功者を生む。彼らや彼らの子らはその財産を元に土地や家を買い、あるいは官職を買って社会的地位を上昇させ、貴族と平民との間で新たな中間層を形成した。

十七~十八世紀フランスの貴族制度は二つの秩序原理から成り立っていた。一つは血統原理。中世以来の家門や血統に基づく身分秩序である。もう一つが功績や才能に基づく秩序原理。国家に対する奉仕に基づいて判断され、それは官職で表現される。当時のフランスの特徴的な制度の一つに「売官制」がある。十五世紀後半のフランスで度重なる戦争による財政赤字打開策の一つとして様々な官職(オフィース)を新設し台頭しつつあったブルジョワに購入させることで収入源の一つとして創設された。一六〇四年には相続や転売も認められ、王権にとっては国庫の増収と役人の増加をもたらし、保有者にとっては報酬とともに権威や社会的信用を与え、さらに高級官職の保有が貴族の条件ともなったため、ブルジョワたちが競って官職を購入するようになった。

十七世紀以降経済発展によって台頭したブルジョワ層に官職を購入させ、功績をあげさせることで数世代かけて貴族層に取り立てていく社会的上昇システムとして売官制が機能し、一方で旧来の領主層などの地位が低下し、彼らはブルジョワ層のように商工業に参入していくことで生き残りを図る。旧貴族階級の地位の低下と新興ブルジョワの台頭の間で王権は相対的に強化される。特にブルジョワ層は貴族になるべく世代を超えて功績を重ねられるよう子弟の教育に力を注ぐようになり、これがやがて革命下の新しい政治集団を形成する原動力になる。

このフランス絶対王政を支えたアンシァン・レジームのシステムも十八世紀に入ると限界を見せ始める。世代を重ねていくうちに社団の中で特権階級が形成され、階層社会化していく。十八世紀中葉以降の経済発展によってブルジョワ層が急拡大し、こぞってその社会的上昇過程を辿ろうとするが、ピラミッド化した階層の壁に阻まれて上昇できない。若いブルジョワ層は啓蒙思想ブームにのって文筆業などで名声を得ようとするが、既に啓蒙思想第一世代の人々が有力パトロンを独占し国家と結びついて新規参入を許さない。ブルジョワに限らず、職人も一握りの親方だけがギルドの特権を享受し、その親方になれるのも多くは世襲化されており、ごく一部の人々だけ。旧貴族も大貴族と経済活動に乗り出して成功した積極的な貴族と、質素な生活を送らざるを得ない没落貴族との断絶が生じている。階層移動の流動性が硬直化し、社会的閉塞感が広がっていた。

(前略)十八世紀後半の経済繁栄によって豊かなブルジョワが大量に出現してくると、伝統的な上昇の梯子は下が広く上が狭いピラミッド型にならざるをえない。この梯子の頂点では、首尾よく貴族化に成功した平民(ブルジョワ)と経済活動への投資によってブルジョワ化した貴族との間に、結婚や社交を通じて「新しいエリート」階層が形成されはじめる。他方では、社会的上昇のテンポがおそくなり、閉塞状況のなかでフラストレーションをおこす「ストレス・ゾーン」が底辺に堆積してくる。(注3)

(2)財政危機と貴族の革命

このような「アンシァン・レジーム」の行き詰まりを背景としつつ、十八世紀後半、政治危機が表面化する。欧州に覇を唱えた太陽王ルイ十四世以来フランスの国家財政は常に大幅な赤字財政を続けていた。贅を極めた宮廷生活、中央集権を支える行政機構、欧州最強を謳われたフランス陸軍、宿敵英国に伍して大西洋貿易の制海権を確保する海軍力などの維持のため、十七世紀後半以降、常時富裕ブルジョワ金融業者からの借り入れと中小ブルジョワに購入させていた公債の額が租税徴収を遥かに上回っており、いわば経済発展と植民地貿易に支えられた「大きな政府」の自転車操業国家であった。

一七一六年、財政赤字解消のために起用されたスコットランド人経済思想家ジョン・ローは十六億リーブルものフランスの負債全てをミシシッピ会社という自身が設立した植民地開発の新会社に買い上げさせ、政府負債の債権者たちや多くの富裕層に対し高配当を約束して、その株を購入させた。政府負債が解消し、空前の投機ブームが起きバブル経済によってフランス経済は活況を呈すが、わずか三年後の一七二〇年、ミシシッピ会社は破綻、バブルははじけ、政府には再び巨額の負債が残された。この結果、政府紙幣に対する強い不信が残った一方で、一七三〇年代以降の経済発展の呼び水となり、多くのブルジョワ層を誕生させて、アンシァン・レジームを揺るがすことになった。(注4)

十八世紀初頭の欧州政治はオーストリア、イギリス、フランスの三大国鼎立による協調が基本であり、大きな戦争が無く、それぞれ長い戦争の世紀であった十七世紀の清算と国内体制の安定化に注力していた。しかし、やがてロシアとプロイセンが台頭すると、再び戦争の時代が訪れる。プロイセン対オーストリアの対立を基本線として、イギリス=プロイセン同盟とオーストリア=フランス=ロシア同盟の対決となった七年戦争の敗北によって、一七六三年、フランスは新大陸植民地の大半を喪失。国家財政を支えていた植民地貿易が破綻する。(注5)

財政危機の解消はフランス最大の課題となっていた。王政府にとっての改革方針はこれまで税負担を免除されていた貴族(第一身分)聖職者(第二身分)への課税である。いわば特権層の特権を剥奪し、国王以外のすべての階層を平等に扱うという中央集権強化の方針である。これに対して、両階層は強く抵抗する。その抵抗の牙城となったのが高等法院である。高等法院は最高裁判所として全国十三都市にあり、その管区の王令は高等法院の審議を通さないと発効しない登録権を持つ。彼らはことあるごとに国王に抵抗し、財政改革が進まなくなる。このため高等法院の力を削ぐべく、財政改革と司法改革が一体として進められ、これにまた高等法院が強力に抵抗するという、膠着状態に陥っていく。

高等法院側は単に増税に抵抗していたわけではない。一部の特権階級を除き、第一、第二身分とも大勢は財政改革方針に賛成であった。むしろ、彼らが求めていたのは参政権である。長い絶対王政下で、特権は与えられていたものの、国王に唯々諾々と従うだけであったものが、国家の危機に際して自身の地位にふさわしい発言権を確保しようという趣旨で、絶対王政からいわば英国風の貴族・聖職者による議会制への移行を目指した動きであった。この貴族の抵抗は支配体制の亀裂を生んだという点でブルジョワ革命、民衆革命に先立つ貴族の革命「アリストクラート革命」と呼ばれることもある。

王権と高等法院の抗争が政治的混迷を繰り返す原因は、一方には課税の「平等」の名のもとに中間団体の「特権」を否定する王権側、他方には政治的「自由」の名のもとに王権の「専制」を否定する貴族側、という二つの改革の論理が、両立不可能なことにある。(注6)

一七八九年五月五日、国王ルイ十六世は袋小路に入った政局の打開のため、第三勢力である「平民」(第三身分)を味方につけるべく「全国三部会」を招集する。だが、平民たちは国王とも貴族とも対立することとなり、既存の支配体制の統合力の破綻があきらかになっていった。

2)大規模な民衆騒擾、都市や農民の民衆蜂起がおこること

(1)民衆暴動要因としての「大いなる希望」と陰謀論

政局の混乱とほぼ同時進行でフランス国内は民衆反乱の嵐に見舞われた。一七三〇年代から始まり六〇~七〇年代をピークとする好景気は一七七八年を境に急速に下降し始め、一七八七年以降経済は危機的状況になっていた。天候不順に見舞われた一七八八年は小麦などをはじめとする農作物の凶作となり、穀物の不足は穀物価格の上昇を招くとともに、相対的な地代、小作料の上昇となり農民の生活が窮乏、購買力が低下し、それが丁度英国産業革命の影響で不振に陥っていた繊維産業を中心とする商工業を直撃、都市の失業者を増大させ、また穀物の不足は都市の食糧特にパンの価格を上昇させる。この景気後退のスパイラルの中、民衆暴動・一揆が都市農村の別無く全国で頻発することになる。(注7)

一七世紀の農民暴動が中央集権化を進める国家に対する反税運動であったのに対し、この時期の農民による食糧暴動は領主や土地所有ブルジョワの特権・地代に対する抵抗運動の形を取るようになっていた点で大きな違いがある。一七世紀の反税暴動では農民の困窮で貢租の取り立てが滞ることを危惧する領主が農民側を支援するといった例も少なくない。(注8)

民衆を行動に駆り立てたのは、飢えという生理的原因よりは社会的、文化的な観念、つまり食糧不足は不作のためでなく悪徳商人や領主の隠匿や買い占めによるものであり、これが食糧の公正な分配という民衆にとっての古来の慣習的権利を侵害することへの怒りだった。そして、民衆は、慣習的権利の保障は当局の義務であるので、自分たちの行動は秩序破壊の「暴動」ではなく、当局への「警告」であり、当局がなすべきことを「代執行」する正当な行為なのだ、と考えていた。(注9)

このような考え方を生むのは民衆の素朴な宗教観であった。こんな苦しい状態にある我々を神様がこのまま放っておかれるはずがない、いつか神様がもっと良くしてくれるはずだ、という「大いなる希望」と呼ばれる宗教的意識を当時の農村の人々は持っており、現在の食糧危機はこのような神様の意思や、善政を敷こうとする国王様を妨げる者たちがいるのだ、という陰謀論へと繋がっていった。その陰謀を企図しているであろう仮想敵として領主やブルジョワ、新興エリート層が想定されるようになっていた。

(2)啓蒙思想の登場と文化の断絶

この民衆と新興エリートとの対立構造、文化的断絶の表面化は啓蒙思想の登場と軌を一にする。中世、都市、村落など民衆の共同体が誕生すると秩序維持のため彼らを統合するべく教会によるキリスト教化が進められていった。しかし、必ずしもそれは徹底して行われたという訳ではなく、「民衆の共同体的な自己管理」(注10)に頼りつつ「民衆慣習との妥協のもとにすすめられ」(注10)、民衆文化とエリート層の文化は混交した状態であった。

これが十六世紀に入ると宗教改革の動きと前後して魔術や迷信などの様々な民衆文化に対する弾圧が急増、「魔女裁判」の最盛期を迎える。ドイツから広まった宗教改革運動は都市だけでなく農村の運動としての側面を持っていたが、宗教改革運動に参加してプロテスタンティズムを、あるいは旧来のカトリシズムの権威を徹底させようとする地域のエリートたちの文化と雑多な宗教的・呪術的慣習を重視する民衆文化との乖離は拡大していき、フランスが十六世紀後半から十七世紀にかけての宗教戦争、プロテスタント反乱を経て中央集権的カトリック教国として再編されていく中で両者の文化の間には決定的な溝が生まれた。

ルネサンス期の思想の一大転換は、思考の方向の逆転であると言われる。すなわち「神からの発想が(厳密にいえば、神から発想することは人間にはできないが)、人間からの発想に逆転したのである」(注11)。この思考の方向の逆転はやがて人文主義を芽生えさせ、宗教改革運動に影響を与え、そして啓蒙思想の誕生へと繋がる。ニュートンの「プリンキピア(自然哲学の数学的諸原理)」出版をもって始まる啓蒙時代は人間の理性への絶対的信頼、科学的合理主義と無神論をその特徴とする。この啓蒙思想の主要なアクターとなったのがフランスの貴族・ブルジョワ層などエリートたちであった。

十八世紀になると啓蒙思想を学んだエリートたちはかつて自身も共有していた民衆文化を解さない。文化の分離が深刻な対立を生んでいった。

民衆は抑圧すべき危険な存在から、教化すべき愚昧な存在になった。その理由は国家の凝集性を強めるために民衆をより統合する必要が生じたからであり、これが「啓蒙」の世紀だった。したがって国家による民衆の世界への介入が強まり、エリート文化と民衆文化の緊張関係が高まる。(注12)

啓蒙主義的な行政官僚たちは君主を啓蒙することで、重商主義政策に代表されるような「国家権力の介入を排して、経済の動きを「自然の理法」のままにゆだねる」(注13)、いわば「小さな政府」路線への転換を目指した。この方針は大きな政府化したフランス財政の立て直しの方針とマッチしており、王権の強化とセットで進められていく。その代表的な人物として知られるのがベルタン、テュルゴー、ネッケルら歴代財務総監(当時の内閣の首班にあたる)たちで、彼らは市場経済の推進、ブルジョワら企業家の保護、特権層に対する課税、ギルド解体、市町村制の近代化などアンシァン・レジームを解体する法案を次々提出した。その改革は既得権益層である貴族層だけでなく、穀物価格の自由化などを進めたことで農民の反感も買う。一七七五年の大農民暴動「穀物戦争」においてテュルゴーは、フランス政府の温情的対応――それまで農民一揆の指導者らは暴動終結後、概ね許されるのが慣例であった――から一転、反抗する農民たちに対して厳罰をもってあたり、亀裂を深めた。

また、貧民対策も従来は救済を前提としていたものが、貧困は怠惰による罪であるという観念が広がることで国家による収監がなされるようになるなど、文化の分離がやがて相互の不信感へと繋がり、その亀裂はもはや埋めがたい状況にまでなっていた。このようにして、民衆にとってエリートは自身の生活を脅かす敵として認識されるようになったのである。

一七八九年七月十四日、名高いバスティーユ牢獄襲撃事件が起こると、その報は驚くべき速さで全国に拡がり、農民たちを恐慌状態に陥れることになった。全国で次々と農民たちが武装して領主を襲撃して地代証文を焼き、あるいは領主を殺害するという暴動が発生。その背景にあったのが上記の不信感である。バスティーユ牢獄がパリ市民によって占拠されたことの報復として、貴族が浮浪者や夜盗を雇って農民を襲ってくるのではないか?といった陰謀論的な噂が同時多発的に立ち、パニックを引き起こした。そのほぼすべては実際には根も葉もない噂であったのだが、その根も葉もない噂であっても、これまでの両者の断絶と対立は暴動と襲撃という取り返しのつかない事態を生むのに充分であった。このフランス全土に広がる大規模農民暴動は「大恐怖(グラン・プール)」と呼ばれ、フランス革命を一気に混沌と混乱が支配する状況に追いやることになる。(注14)

3)新しい政治集団になりうるものが存在すること

社会的閉塞感をもたらした十八世紀後半の経済成長だったが、他方で都市化が進み、消費経済を浸透させることになった。植民地から輸入されるコーヒーや紅茶を飲む習慣が始まることで、コーヒーハウスが誕生。印刷技術の向上で新聞の発刊が容易になり、コーヒーハウスは新聞を読んで議論を行う社交場として利用された。それは新たな自立した社会的結合関係の登場であり、コーヒーハウスや貴族のサロンなどでの議論が「公論」と呼ばれ、貴族から民衆まで幅広い範囲の「公共圏」を成立させることにつながった。

「公論」あるいは「公共意見」は「アンシァン・レジーム」下での用語や制度が行き詰まり、主張の正統性を保証出来なくなったため、それに代わって作り出された『既存の権力を超越する「理性的な審判者」という抽象的概念』(注15)であり、「理性に基づく公正な判断」という意味を持つ。様々な政治勢力は古い原理ではなくこの観念に訴えることで自身の正統性を主張するようになった。

一七八八年以降王権と貴族との政治的対立が混迷を極め、両者の対立の解決を目指して全国三部会の招集が決定されると、貴族側は前回の一六一四年通りの、第一身分(聖職者)、第二身分(貴族)、第三身分(平民)三身分同数代表・身分毎討議を主張。これに対する反発のかたちで、各地に形成されていた「公共圏」が革命主体である「パトリオット派」誕生の母体となる。「パトリオット派」は第一身分、第二身分の総数と第三身分の同数代表、三身分合同討議を主張する。

「パトリオット派」は自由主義貴族やブルジョワ上層を中心とした知識人集団であった。彼らの論理は『社団原理で編成されている国家機構の外にある社会的結合関係こそが正統性を持つ「公共圏」なのだという理論であり、ここに「国民」の観念が誕生する。この論理こそが変革の根幹をなす画期的なものであり、これが変革主体を形成させた』。(注16)この論理に基づいて、シェイエス「第三身分とは何か」など彼らの主張をなすパンフレットが多く出版された。

全国三部会は紛糾し空転する。結局、国王政府が譲歩し、全国三部会は三身分合同会議「憲法制定国民議会」へと発展するが、譲歩の一方で、国王は二万の軍勢を終結させ第三身分の動きを封じようと画策する。一触即発の中、バスティーユ牢獄襲撃という偶発的事件が導火線に火をつけることになった・・・

特権貴族の抵抗が王政を機能麻痺させるまでに頑強なため、袋小路に入った政局を打開すべく理論的に先鋭化した変革主体が出現する。彼らは徒手空拳の議員たちであり、急遽民兵(国民衛兵)を組織するが、その権力の行使は、民衆運動の介入によってはじめて可能である。だが、民衆運動は変革主体を援護する別働隊では決してなく、むしろ変革主体の所有秩序を脅かす自立的存在だ。変革主体はこの民衆運動の沸騰に支えられて、かろうじて中央・地方レベルの制度的な権力交替にたどりついたのだが、民衆運動に対する制御能力をほとんど欠如している。他方、王政に抵抗した旧体制の支配層の大多数は、予想もしない情勢の急展開を前にして、いまや国外勢力と連携をはかる反革命派に変容しはじめる。(注17)

かくしてフランス革命――流血と混乱の「予期せざる十年」が始まった。

(注1)柴田三千雄著「フランス革命 (岩波現代文庫)」(P74)
(注2)柴田三千雄著「フランス革命」( P79)
(注3)柴田三千雄著「フランス史10講 (岩波新書)」(P103)
(注4) 柴田三千雄著「フランス史10講」(P97)
(注5) 柴田三千雄著「フランス史10講」(P98-99),君塚直隆著「近代ヨーロッパ国際政治史 (有斐閣コンパクト)」(P145-148)
(注6) 柴田三千雄著「フランス史10講」(P119)
(注7) 柴田三千雄著「フランス革命」(P83)
(注8)成瀬治著「近代ヨーロッパへの道 (講談社学術文庫)」(P327)
(注9) 柴田三千雄著「フランス史10講」(P120)
(注10) 柴田三千雄著「フランス史10講」(P106)
(注11) 小田垣雅也著「キリスト教の歴史 (講談社学術文庫)」(P161)
(注12) 柴田三千雄著「フランス史10講」(P107)
(注13) 成瀬治著「近代ヨーロッパへの道」(P359)
(注14) 柴田三千雄著「フランス革命」(P105)
(注15) 柴田三千雄著「フランス史10講」(P105)
(注16) 柴田三千雄著「フランス史10講」(P119)
(注17) 柴田三千雄著「フランス史10講」 (P123)

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