ナショナリズム神話としてのジャンヌ・ダルク

柴田三千雄著「フランス史10講」より近代ナショナリズム神話としてのジャンヌ・ダルクについて。

ジャンヌ・ダルクといえば、日本ではおそらくナポレオンとならぶフランス史上の有名人だろう。しかし、フランスで彼女が「救国の乙女」として歴史的関心の的となったのは、主に一九世紀中葉からのことで、それまでは無関心または忘却のままに放置されていた。この少女をはじめて形象化した共和主義歴史家ミシュレは、ジャンヌを愛国の、しかも共和主義的な民衆の娘に仕立て上げ、これにたいして反共和主義のカトリックは信仰のもつ超自然的な力を強調した。この対立は、第三共和政の安定とともにやがて「愛国の聖女」という折衷的イメージとなったが、それにつれて、今度はジャンヌを反アングロ・サクソンのシンボルとする右翼ナショナリズムが台頭した。(P55)

ナポレオン三世による第二帝政の崩壊、続く社会主義革命パリ・コミューンの失敗の後に誕生したフランス第三共和政において、大統領職は形骸化し議会の共和主義勢力が政治の主導権を握った。オポルテュニスト(ご都合主義者)と呼ばれる主流派はカトリックの権力を奪い国家の管理下に収めるべく教育の世俗化、政教分離を推し進める。それは市民の知識・技術の習得とともに、『愛国的な「国民」をつくりだす狙い』(P168)があった。共和国の象徴として各地に自由の女神マリアンヌ像が建てられるのもこのころである。

やがて軍の有力者によるクーデター未遂事件「ブーランジェ事件」、ユダヤ人将校へのスパイ冤罪事件「ドレフュス事件」などを経てオポルテュニストに変わって共和主義は急進派が主流派となるが、政治基盤としてはオポルテュニストたち以上に脆弱であった。一八七〇年から一九一四年までの四五年間に六〇の内閣が誕生するなど不安定極まりない体制を続けていた。

反カトリック政策を目的とした共和主義勢力が国民統合を推し進めたようにナショナリズムは左翼とともに登場したが、やがて急進派が共和主義の主流派になると、右翼の側にナショナリズムが移動していく。一九世紀後半に登場した新右翼は旧右翼の王政主義とナショナリズムを組み合わせることで新たなイデオロギーを構築する。

彼らによれば、フランス革命がアトム化した個人あるいは階級をつくりだすことによって祖国を駄目にしたのであり、自由主義、社会主義の双方を排撃してナショナリズム、人種主義、反議会主義をそのスローガンとした。知識人の賛同者を多くもち、都市ブルジョワを支持基盤とし、暴力的な行動力を備えていた。(P177)

ジャンヌ・ダルクはこのような社会背景の中で歴史の闇のなかから再発見され、ナショナリズムを強化する神話としてその物語が作り上げられた。第三共和政下では同時に国内政治の不安定さの解消を外に求めるように帝国主義的膨張政策が推し進められており、ジャンヌ・ダルクの戦闘主義イメージが利用された。彼女に限らず様々な国で国民国家の形成過程で歴史上の人物が再発見され神話化されたが、やはりジャンヌ・ダルクはその典型と言えるのだろう。

ナショナリズム神話から離れた歴史上のジャンヌ・ダルクについて二点指摘されている。

第一に、これは近代国民感情にかかわることではない。ドンレミ村はブルゴーニュ派が強い東部地域の中にあって古くからヴァロワ領であり、ジャンヌも戦禍を避けて一時村を立ち退く経験をしたが、この頃からたびたび「フランスを救え」との「神の声」を聞きはじめたらしい。ジャンヌを突き動かした動機は、郷土愛と、ランスの聖油によって聖別される神聖な王という民衆の間に流布していた国王観念であり、彼女がシャルルの聖別式を最優先させたのも、計算された戦略ではなかった。このような民衆的信仰にかられる果敢な行動が、味方に自信、敵に怖れを引き起こす「奇跡」を生んだ。この意味で中世は宗教の時代である。

第二に、百年戦争の経過にみられるように、政治情勢は王朝の対立であり、国民的事件ではない。ブルゴーニュ派との和解を模索する王の側近にとって、ジャンヌの純粋な戦闘主義は有難迷惑であったし、また、彼女に体現される民衆的宗教感情にたいする警戒心も強まってきたのであろう。このため王側はジャンヌ救出の動きを一切おこなわず、彼女を見捨てた。こうして危機に際して噴出した民衆的熱情は、王権によって利用され、翻弄されることで終わったのである。(P55-56)

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