「日本から出ていけ」論の背景にあるファシズム的自由観

自由主義は個人の利益のもとに国家を否定していたが、ファシズムにおいては国家こそが個人の真の実現なのである。自由が、個人主義的自由主義が考えるような抽象的な傀儡にではなく、現実の人間に属するものであるなら、ファシズムは自由のためにある。真実重大な唯一の自由、国家の自由と国家の内なる個人の自由のためにファシズムはある。それゆえファシズムにとって、すべては国家の内にあり、国家の外には、人間的あるいは精神的な何ものも存在せず、いかなる価値もない。(注1)

ベニート・ムッソリーニは一九三二年、自ら「エンチクロペディア・イタリアーナ」の「ファシズム」の項にこう書いた。(注2)

市民社会の国家への還元、つまり国家による社会の排除が、いわゆる「全体主義」国家の最大の特徴であるわけだが、それはすなわち統制された道徳的全体性の創出を意味する。自由の主体を個人ではなく国家として、国家という共同体の自由の実現に奉仕することが個人の規範となる。このような国家と社会が同一化したコミュニティを「トータル・コミュニティ」(注3)と呼ぶ。国家が社会を吸収することで創出されるものもあれば、社会が国家の機能を代替することで創出されるものもある(注4)が、概ね二〇世紀初頭にその姿を見せ始める。

ウェブ上での発言をしている人ならば一度や二度は「●●が嫌なら日本から出ていけ」という言葉を浴びせかけられる、あるいはそのような発言を見かけるものだと思うが、実のところその心性がどうにもよく理解できないでいた。だが、このムッソリーニの論を読めばそのショービニズム的言説の背景にあるものが「想像の共同体」としての「トータル・コミュニティ」にある点に思い至る。

すべては国家の内にあり、国家の外には、人間的あるいは精神的な何ものも存在せず、いかなる価値もない」のであり、ゆえに個人の利益に基づく自由を主張して国家共同体の自由を阻害する者は「国家の内なる個人の自由」の敵であり同時に社会の敵なのである、というロジックが存在しているのではないか。そしてそれを自己正当化させる「伝統」「歴史」「文化」の存在も。

国家というものの優位性が大きく揺らぐ現代、もう一度、国家、社会、共同体、個人の関係性について、自由について問い直されなければならない。陳腐な結論ではあるが、「日本から出ていけ」という言説の背景にある得体のしれない心性は、当事者だけでなく一人一人がよくよく見つめてみる必要があるように思う。

(注1)エンツォ・トラヴェルソ著「全体主義」P32
(注2)エンツォ・トラヴェルソ著「全体主義」P31
(注3)ジェラード・デランティ「コミュニティ グローバル化と社会理論の変容」P30-36
(注4)トータルコミュニティの前者の例としてはいわゆる全体主義国家、後者の例としてデランティはイスラエルの農業共同体「キブツ」やアーミッシュのコミュニティを挙げている。

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