一九世紀の評価社会~フランス名望家制度の帰結

フランス革命、ナポレオンによる第一帝政を経て欧州列強の思惑を強く反映して成立した復古王政は当初は中庸的な政権運営を行っていたが、やがて自由派の伸長に怖れをなし徹底した弾圧を開始する。一八三〇年七月二六日、政府の弾圧に対し市民が一斉に蜂起、国王シャルル一〇世は英国へ亡命する。世に言う七月革命である。新たにオルレアン公ルイ・フィリップが国王となって七月王政が開始された。

この七月王政期のフランスの政治構造は「名望家制度」と呼ばれる。

この政治体制が生まれる条件は、社団が解消して法的に平等な社会になり、産業化の進行によって全国的な連関が生まれながらも、まだローカルな共同体が残り、パーソナルな社会関係が強く作用している過渡期である。(注1)

アンシァン・レジーム」下の社会構造は「社団」とよばれる中間団体の総体として絶対主義体制が成立する構造であった。「社団」の上層が特権を独占し、それによって生まれた社会的閉塞感が革命へと至る大きな動因となっていた。「社団」はフランス革命と第一帝政を通じて解消され、七月王政期までに新しいエリートである「名望家」が登場していた。

「名望家」は「アンシァン・レジーム期の貴族のように血統や身分によるのではなく」、「財力、教養、生活様式などに由来する威信のほかに、議員として直接に、あるいは人脈によって間接に中央政治に結びつ」き、「ローカル社会の価値観を管理し無言のコンセンサスをとりつける」(注1)ことで選挙に選ばれる、あるいは代表として認められて影響力を行使する人々である。特定の職業に偏ることなく幅広い階層に存在していた。文字通り名望――世間から受ける非常によい評価、評判(注2)――を集める人々である。

だが、この名望家制度はほどなくして行き詰まりを見せる。七月革命への反感から旧貴族層は中央政界から退き自身の居館へと籠りがちであった。だが、「彼らは近隣の農村社会への影響力を保持し、地方政治の侮りがたい勢力として存続した」(注3)。またブルジョワ層も分裂していた。「アンシァン・レジーム」はすでに解体し自由な競争によって誰もが立身出世の機会に恵まれる。それはむしろ一部の大ブルジョワが富を独占する寡頭支配を生んだ。中央政治に大きな影響力を行使する大ブルジョワに対し、次第に中小ブルジョワの影響力が小さくなっていく。また労働者たちに対するブルジョワの統合力も低く、未だギルド的結合関係を前提として再編成された自律的な「アソシアシオン」という組織を中心に、共和主義の影響を受けた職人層がリーダーとして活動していた。

旧貴族とブルジョワは断絶し、ブルジョワは内部の格差が拡大したことで反目しあい、労働者は自律的傾向を強めるという分断状態の中では市民社会が成熟せず、「名望家制度」は絵に描いた餅となる。

分断された社会において日に日に過激さを増す選挙権の拡大や政治参加を求める市民の直接行動は、政府に自由と民主の革命原理の両立は不可能として自由を至上とする観念を生じさせる。首相フランソワ・ギゾーは選挙権の拡大をもとめる市民にこう言い放った。

金持ちになりたまえ。そうすれば選挙に加われるだろう」(注4)

一八四八年二月二十四日、その二日前からギゾー政府が出した集会禁止令に反発する形で市民が蜂起し、ついにこの日、民衆が王宮を占拠、国王ルイ・フィリップ一世やギゾーらは亡命を余儀なくされた(二月革命)。

そして、共和制に移行したフランスにおいて、後にカール・マルクスをして「世界史上の有名人物は二度現れるとヘーゲルは書いた。だが、ヘーゲルは次の言葉を付け加える事を忘れていた。一度目は悲劇として、二度目は茶番劇としてと」(注5)と言わしめる世紀の大統領選挙が行われる。

皇帝ナポレオン一世の兄の子にあたるルイ・ナポレオン・ボナパルトは泡沫候補とみられていたが、『彼は、フランス革命で発揚された人民の権利と権威的指導者がもたらす秩序という二原則の結合こそが、フランスの混迷した現状を打破し国民に栄光を約束するとの「ナポレオン理念」を、新聞、版画、歌などの大衆的メディアを動員して浸透させ』(注6)、彼を傀儡として利用しようとする中央の名望家を中心とした保守政治家たちの協力を取り付けることで、フランス第二共和政最初で最後の大統領に就任する。

一八五二年十二月二日、大衆の圧倒的支持を受け、皇帝ナポレオン三世が戴冠する。フランス第二帝政の始まりであった。

(前略)第二帝政は、政治的デモクラシーが出現した事態に直面した名望家が緊急避難的に逃げ込んだ、名望家国家の亜種なのである。もはや暗黙のコンセンサスをとりつける力を失った名望家は、皇帝の権威のもとに影響力を保持しようとし、名望家支配を自力で掘りくずす力のない民衆は、皇帝の権威でその支配をのぞくことを期待した。(注7)

分断され未成熟なままの市民社会において、「評価」の政治原理化がもたらした帰結であった。

ただし、名望家制度が成功した社会もある。イギリスである。それは三つの特徴からなっていた。

1、名望家を構成する地主階級とブルジョワの社会的混交が順調に進行している
2、制限選挙制でありながら議会改革運動の進展によって、それが極端に寡頭的ではない
3、「自助」のエートスによるブルジョワの労働者統合がある程度成功している

一言で言えば、「市民社会」が成熟し、それが弱い中央の国家権力を下から支えるリベラリズムの国家なのである。(注8)

市民社会が成熟したイギリスにおける名望家体制の安定は議会政治の成熟をもたらしたが、他方で名望家の世襲によって階級制度の固定化にもつながり、やがて社会の分断要因として機能していくことになる。

(注1)柴田三千雄著「フランス史10講 (岩波新書)」(P146)
(注2)「めいぼう【名望】 – 類語辞書 – goo辞書
(注3)柴田(P147)
(注4)柴田(P150)
(注5)「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日 – Wikipedia
(注6)柴田(P153)
(注7)柴田(P156)
(注8)柴田(P146-7)

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