外見的立憲主義型市民憲法としての明治憲法の限界

近代市民憲法は、権力の濫用を阻止し、人権の享有を確保することを課題とする。憲法という名称の法典が存在しているにもかかわらず、その課題にこたえる内容を欠いている市民憲法を「外見的立憲主義型の市民憲法」という。「外見的権利保障」は、憲法の保障で国民の権利が保障されているにもかかわらず、権力に十分に対抗できない権利の保障をいう。(注1)

十九世紀、市民革命と産業革命によって市民憲法を整え、資本主義経済を浸透させた英米仏の国力は他を圧倒しつつあった。後発国としてそれを追う立場のプロイセンは革命を経ずに近代化を行う「上からの近代化」路線を取る。

「封建的土地貴族のイニシアティヴにより、封建的土地貴族と農奴の関係をそのまま資本・賃労働関係に再編成し、政治的にはそれに対応する外見的立憲主義の憲法によって立憲体制の外見をほどこすという、近代化のしかたである。」(注2)

そのため、可能な限り旧い原理が温存されることとなり、必要最低限に保障された権利は「法律の留保」を前提としており、君主主権を原則として行政、立法、司法は国王の下におかれた。

「プロイセン憲法は、人権の観念を欠いていただけではなく、国民主権を欠き、権力分立も堅持していなかった。君主主権に伴う権力の集中が存在したという方が的確であった。権力の濫用を阻止する権力の原理や制度も欠けていたのであり、国民の権利は権力によって蹂躙されがちになるはずであった。」(注3)

同様に後発国として「上からの近代化」路線を突き進む日本が、英仏米の市民憲法を考慮しつつもプロイセン憲法を範としたのも自然な流れだったのかもしれない。特に半封建的な寄生地主と新興資本家によって、高率の小作料でギリギリの生活をする小作人と低賃金の工場労働者によって成立する生産関係によって資本主義経済の成長を目指していたから、自ずと権利保障も制限的にならざるを得ない。

明治憲法においては「人権」はなく「臣民の権利」として「法律の留保」を伴い制限列挙されていた。法の前の平等も無く、また『「立法」につき「法規」の概念も成立しなかったので、憲法が法律によると明示している場合を別として、国民の権利・自由を制限したり国民に不利益を課したりするにあたっても、その基準を法律で定めることは必要とされて』(注4)おらず、また『明治憲法の第二章で保障されている諸権利は、「戦時又ハ国家事変ノ場合ニ天皇大権ノ施行ヲ妨クルノコトナシ」として、全面的な停止さえも認められていた。』(注4)

プロイセン憲法同様君主主権である天皇主権が取られたが、その理論として王権神授説的思想である「現人神」神話が創出され「万世一系ノ天皇」が「統治権ヲ総攬」した。

「王権神授説とは、君主の権力は君主が神から直接に授けられたもので、君主は、神の代理人としてそれを行使し、神に対してのみその行使について責任を負う、というヨーロッパ封建時代末期(絶対王政期)にとられていた政治論である。それによれば、君主は、神ではなく、神から最後の審判のさいにその権力の行使について厳しく責任を追及される立場にあると考えられていた。神から、神の代理人にふさわしく、神法や自然法に従って権力を行使したかどうかの審判を受けるというのである。

しかし、明治憲法においては、天皇は神の子孫として「現人神」・「現御神」であり、そのような責任を負うものとも考えられていなかった。」(注5)

また天皇が統治権を総攬するため権力分立は成立せず、法律を「決裁」する権限は天皇にあり帝国議会は法律について「協賛」するにとどまっていた。また「統帥権の独立」によって国務大臣の関与も排除されたことは後に軍部の独走を許すことになった。

『ひとしく君主主権が憲法原理とされてはいても、一九世紀後半のドイツの場合とでは大きく異なっている。ドイツの場合は、憲法の運用において国家法人説を成立させたが、明治憲法下の政治は国家法人説を取り込むまでにはいたらなかった。

国家法人説によると、国家は、領土、国民、統治権の三つを要素とし、「一定の領土を基礎とし、固有の統治権をもち、国民を包括する団体である」(G・イェリネック)とされる。そして、そのような国家が法人格(権利・義務の主体となる法的な資格、つまり権利能力)をもち、国家権力(統治権)の固有の所有者とされる。法人たる国家は、議会、内閣、裁判所などの国家の機関を通じて国家権力を行使する。そこでは、主権者たる君主は、国家権力の所有者ではなく、国家意思の最高の決定権という権限をもつ国家の最高機関にすぎないとされる。

明治憲法下においても、天皇は国家権力の所有者化それとも法人たる国家の機関かが、華々しく論議された。上杉・美濃部論争は、とくに有名である。国家法人説=天皇機関説は、大正デモクラシーの憲法論として、学界では多数の支持をえたが、現実の政治の理論にまではなれなかった。昭和に入ると、軍部の台頭と「天皇親政論」によって批判され、一九三五年(昭和一〇年)には「国体明徴問題」の中で反国体的な理論として政治により圧殺された。美濃部の書物は発売禁止となり、「天皇機関説」は大学でも抗議できないものとされた』(注6)

明治憲法の解釈をめぐっては当時三つの政治路線の議論があったとされる(坂野潤治「近代日本の国家構想―1871‐1936 (岩波現代文庫)」によると穂積八束の「大権政治」、美濃部達吉の「内閣政治」、吉野作造、北一輝の「民本政治」である)が、明治憲法が持つ権力の濫用の容易さを掣肘することはできなかった。(注7)

自らの手で作り上げた唯一の憲法がこのような不完全極まりないものであり、その改善がほとんど出来なかったことは、戦後の歴史に多大な影響を及ぼすことになる。いわゆる五十五年体制という保革の対立構造は資本主義対社会主義、再軍備の是非とともに、占領期の上からの改革の是非をめぐる対立であったから、占領期の改革を否定する人々は自ずと戦前への回帰、戦後民主主義への反発と改憲が共存し、それが日本型保守と位置づけられた。一方で革新の側も保守への対抗を前提として戦前の否定、戦後民主主義の肯定と護憲が共存する。(注8)

現在の日本社会の苦境の原因、「失敗の本質」について様々議論があるが、戦前における明治憲法体制の制限不可能性と、戦後のすべてが否定か肯定かの二項対立に収束する対立構造とに絡め取られ続けた結果、リベラリズムの歴史が育たなかったことに、若干単純化し過ぎではあるが、いわゆる「失敗の本質」があるような気がする。

(注1)杉原 泰雄著「人権の歴史 (岩波市民大学 人間の歴史を考える 7)」(P63)
(注2)杉原(P61)
(注3)杉原(P67-68)
(注4)杉原(P71)
(注5)杉原(P72)
(注6)杉原(P72-73)
(注7)坂野 潤治著「近代日本の国家構想―1871‐1936 (岩波現代文庫)」(P161-209)
(注8)松岡 完、広瀬 佳一、竹中 佳彦著「冷戦史 -その起源・展開・終焉と日本-」(95-96)

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