マルティン・ルターのソーシャルメディア的炎上

承前:「ドイツ宗教改革前夜の民衆の信仰世界

一五一七年、ザクセン選帝侯領ヴィッテンベルクの修道士マルティン・ルターは、当時カトリック教会が率先して売って回っていた贖宥状――購入することで自身とすでに死んだ者たちの罪が赦される――に対し強く異を唱えた。彼が公表した「九十五か条の論題」は贖宥状について神学上の批判を行うものであったが、あくまで議論の提示であって、教会の権威に挑戦するだとか、民衆を鼓舞するなどという意図は全くなかった。だが、ルター自身が全く想定していないかたちで、急速に人々に広がって反響を巻き起こし、宗教改革運動の起爆剤となっていった。それは活版印刷技術によってその姿を現しつつあった「世論」という名のソーシャルメディアにおける「炎上」と呼ぶにふさわしかった。

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第一章 活版印刷技術の登場

ヨハン・グーテンベルクを活版印刷技術の発明者とするのは正しくない。十五世紀中ごろ、金細工職人であった彼は印刷工場を友人たちとともに起こし、一四五五年、「四十二行聖書(グーテンベルク聖書)」を印刷する。彼が行ったのは無から技術を生み出したのではなく、既存の技術の組み合わせと質的改良、そして事業化であった。

活版印刷の四つの要素である金属活字、インク、印刷機の開発、紙の製造は当時かなり隣接した技術であった。金属活字製作はグーテンベルクのような金細工職人が手がけ、インクは金細工職人とともに教会の壁画や装飾に従事する絵師によるものであり、印刷機は亜麻布織業の亜麻布圧縮機から改造されているが、当時のインクの原料の一つが亜麻仁油であり、亜麻布圧縮機と同じ構造の圧縮機が紙の製造工場で使われていた。ほぼパラレルに発展していた技術が活版印刷へと集約されていく過程でそれを事業化した中の一人がグーテンベルクであった。ちなみにグーテンベルク自身は事業に失敗しすべてを失って失意のうちにその生涯を終える。

印刷技術の向上はもちろんだが、十五世紀から十六世紀にかけて格段の進歩を見せたのが紙の製造であった。八世紀に中国からイスラム世界へ紙の製法が伝わった後、イベリア半島経由で欧州へ伝わり、一一五〇年、スペインに欧州最初の製紙工場が設立、一三九〇年、ニュルンベルクにドイツ最初の製紙工場が作られた。高コストな羊皮紙に替わり急速に普及する。

『当時のドイツの主要な経済中心地フランクフルト・アム・マインでは、未使用の白紙(大きさや品質は不明だが)の値段は、一三七七年から一四三八年までに一五パーセント低下し、一四三八年から七〇年までに三〇パーセント、一四七〇年から一五一三年までに四〇パーセントも安くなったという。』(注1)

活版印刷による印刷物が広く社会に普及する下地が整いつつあった。そしてその爆発的普及をもたらしたのが宗教改革であった。宗教改革において、印刷物はメディアとしての力を見せつけることになる。

第二章 マルティン・ルターの炎上

ルターの思想では人はただ神のめぐみによってのみ救われるとされる。彼にとって当時ドイツで教会が売っていた、購入することで救いが与えられるとされる贖宥状(免罪符)はとうてい認めることが出来ないものであった。一五一七年にルターが公表した「九十五か条の論題」は贖宥状の是非について問題提起を行う文書であったが、教会批判や教皇の権威の否定を行うものではなく、またラテン語で書かれた専門家向けのものであって民衆を鼓舞するような趣旨ですらなかった。通説では十月三十一日正午にヴィッテンベルク城教会の扉に貼り出して民衆に広く訴えかけたとされてきたが、これはルターを偉大な宗教改革運動の指導者、改革者としたいわゆる「宗教改革神話」であって、現在ではその日付や貼り出されたかどうかも真偽は不明である。

あくまで単なる神学上の論争を行う趣旨で発表された「九十五か条の論題」であったが、「それはただちに、誰かの手でドイツ語に訳され、異常な速さでドイツ各地に広がって、大変な反響を巻き起こ」(注2)すことになった。まず、贖宥状を売って回っていた説教師テッツェルが属するドミニコ修道会が『ルターの「論題」は教皇権を侮辱するものであり、こんな「異端」はただちに火刑台に送るべきだ』(注3)と騒ぐ。これに対してルターは一五一八年二月、「贖宥状の効力に関する論議の解説」をブランデンブルク司教に送り、その裁可を仰ぐとともに、ドイツ語で「贖宥と恩寵に関する説教」を同三月に刊行、自身の考えを広く知らしめようとした。

ドミニコ修道会が騒ぎ、ルターが反論を書物として刊行し、関係者がその論争を注目しはじめる。教皇レオ十世はメディチ家の出身で政治センスが高く遊興と文芸には熱心であったが神学論争には興味を持たない、いわゆる俗人であったから、論争当初は特に無反応であった。八月になってドミニコ修道会に突き上げられてやっとその重い腰を動かし、ルターに対しローマでの異端審問裁判への出頭命令が送られる。これに従えばおそらくルターは処刑されたであろうが、そこでザクセン選帝侯フリードリヒが異を唱えた。

ドイツ最大の聖遺物コレクターとして知られたザクセン選帝侯にとって贖宥状は目の上のたんこぶであった。聖遺物の御利益で死後の罰が軽減されると信じられていたから、拝観日ともなると人々が殺到し、その際の献金でザクセン選帝侯は多大な利益を得ていた。贖宥状を買うだけで救われては商売あがったりである。であるから、ザクセン領内の修道士ルターが贖宥状批判を始めたのは彼にとって好都合であった。ザクセン選帝侯が口出ししてきたことで、問題は途端に高度な政治性を帯び始める。

時の神聖ローマ皇帝マクシミリアン一世は病床にあり、その後継者として孫のスペイン王カルロス一世(後の神聖ローマ帝国皇帝カール五世)が有力視されていたが、もしカルロス一世が即位するとスペインと神聖ローマ帝国とが同君で統治されることとなり、欧州に強大な勢力が登場することになる。教皇レオ十世はハプスブルク家の伸長を警戒し、カルロスの戴冠を阻もうと選帝侯たちに働きかけている最中であった。

たかが一修道士の異端審問と神聖ローマ帝国の帝位を巡る駆け引きとならば比べるべくもない。教皇も譲歩せざるを得ず、異端審問はローマではなく神聖ローマ帝国議会が開催されていたアウグスブルクで行われることとなった。枢機卿カエタヌスが送られ、カエタヌスはルターから教皇権を否定する言を引き出すことに成功、異端とされることになったルターは選帝侯の計らいでアウグスブルクから脱出、ザクセン公国ライプツィヒへと逃れ、新たな挑戦者を迎え撃つ。一五一九年六月、新たにルターに論争を挑んできたヨハン・エックは衆目が見守る中、巧みに論争を誘導し、ルターに対し「どうも君にはベーメンの異端者フスの臭いがするようだ」(注4)と煽ることで決定的な言質を引き出した。

『ライプツィヒでフスの名を口にすることは、はなはだ悪辣なやりかたといえた。なぜなら、フスの登場によってプラハ大学にチェコ人の民族主義が燃え上がったとき、そこのドイツ人教授たちがザクセンに亡命してきてつくったのが、ほかならぬライプツィヒの大学だったからである。ルターはこの仕組まれた罠に落ち、ついにエックが待ちのぞんでいたことばを吐いた。すなわち彼は、宗教会議も誤謬を犯すことはありうる、コンスタンツで異端の判決をうけたフスやウィクリフの教説のなかには、きわめて正しい点がいくつかある、といったのである。』(注5)

そもそもルターにしてみれば単なる学術的論争を始めただけのはずが、気が付くと決定的にカトリックと対立し、袂を分かつことになってしまっていた。まさしく「炎上」していたのであった。

第三章 新たなる情報メディアの誕生

カトリックとの対立が決定的となり当時の社会から孤立することとなったルターとその支持者たちは、活版印刷物を活用して広く民衆にアピールして支持を集める施策に出た。一五一八年から一五二三年にかけてドイツ語で出版された書籍のうちおよそ半数がルターによって書かれたものであったという。彼ら宗教改革派が利用したことで、この時期に活版印刷物の流通量が爆発的に増加する。「宗教改革の真実」ではいくつかのデータが紹介されているが、概ね宗教改革を通じて数倍になっている点が指摘できる。

スクリブナーは、ドイツで出版されるドイツ語書籍について、十五世紀の終わりから十六世紀はじめごろまでは、年間平均で約四十種類程度であったが、一五一七年にルターが『九十五ヵ条論題』を発表して宗教改革がはじまった後、一五一九年には百十一種、一五二三年には四百九十八種になったという数字をあげている。ほかにも彼は、一五一八年から二六年までに出版されたドイツ語文献が、一五〇一年から一七年までの出版量の約三倍になっていること、一五一九年の出版物の三分の一、一五二三年の出版物の五分の二がルターの著作であること、一五二三年の四百九十八種の出版物のうち、四百十八種が宗教改革に関する内容であったこと――なども記している。(注6)

爆発的に出版量が増えたとは言え、当時のドイツではそもそも文字が読めない人がほとんどだった。十六世紀初頭のドイツの識字率は三パーセントから五パーセント程度でしかなく都市部でも十パーセント程度であったと推測されている。そこで宗教改革派は「集団読書」という方法を撮った。説教師や牧師が民衆を集めルターや宗教改革派の著書を読み上げる。ただ読み上げるだけでは理解しづらいので、彼らは自身の注釈を付け加えるなどしてわかりやすく広めることに努めた。

また活版印刷物の発行と集団読書の活用とともに、木版画や銅版画を使った絵入りのパンフレットが多く利用された。教皇を悪魔風に描いたものや、聖人風あるいは英雄風に描かれたルターなどわかりやすい絵を見せながらその主張を訴える。活版印刷物より格段に印刷しやすかったことで大量に出回ったという。「木版画と銅版画も、活版印刷術ほどではないにしても、ヨーロッパ近世の情報メディアのありかたを変える技術革新であった」(注7)

やがて牧師・説教師たちは活版印刷や銅版画を通じた説教という情報メディアを与えられたことでルターの義認論思想からも離れて独自の意見を述べ始める。社会の不公正や教会、権力者に対する不満や怒りを自身の言葉で語りかけ、聴衆が鼓舞され、至る所で中心になるアジテーターや集団が登場し、そしてドイツ、やがては欧州全土を覆う巨大な宗教改革運動が出現した。それは一つの思想運動では決して無い、多様な意見が入り混じる混沌とした運動であった。ルターの他にもカルヴァン、ツヴィングリ、カールシュタット、フッテン、メランヒトン、ミュンツァー・・・数えきれないほどの宗教指導者が登場し、彼らと彼らが説く信仰を信じる人々はプロテスタントと呼ばれることになる。

カトリックの側はこの新しいメディアの利用に関して完全に出遅れていた。伝統的に「文字を読むのは知識人階層だけで、信仰のことがらをはじめとして、民衆は、知識と権威のあるひとから口述で知識を得るべき」(注8)という考え方が支配的で、その文字とはラテン語のことであったから、聖職者の間でも高位の聖職者と地方の司祭との間で知識に大きな格差があった。このような古い固定観念に囚われていたことで彼らはプロテスタントに大きく後れを取る。宗教改革運動が世を覆う一五二七年、かねてから教皇と敵対していた神聖ローマ帝国皇帝カール五世のローマ劫掠によってローマが灰燼に帰し、教会は全てを失う。そこまで追い詰められて初めて体制内改革運動「対抗宗教改革運動」が起き、やっと固定観念を捨てて様々な手を使った布教活動に邁進しはじめる。その代表的人物がイグナチオ・デ・ロヨラ、そして十六世紀の日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルであった。

カトリックとプロテスタント双方の宗教改革運動は苛烈を極めたが、その対立以上にプロテスタント同士の対立によって多くの殉教者を出した。宗教改革運動はとてもフェアなものでも知的なものでもない、相手を罵倒し、あるいはデマを流し、自身の主張を有利に見せて、世論の支持を獲得しようとあらゆる手を尽くす闘争であった。

『パンフレットによる対話という新しいジャンルは、形式的にはかなり単純だが、洗練された技術の修辞法と論証法のフォーラムとなった。実際、それが新しいタイプのメディアであったという事実が、著作者たちに自由に実験させることを可能にしたのである。視野を広げ、変化の意識を生んだのは、二つの事柄、メッセージとメディアの組み合わせであった。しかし、出版された資料を信頼できない史料にしたのも同じこの意識であった。プロテスタントのパンフレット印刷物は重要なテーマや、さまざまな宗教党派間の対話がどのように進んだかについて多くのことを語ってくれるが、包み隠しのない歴史の記事とはなっていない。宗教改革は言語戦争で、世論の好意を獲得する闘争であり、どこでレトリックが終わり、どこで歴史的現実が始まるのかを決定することはしばしば困難である。』(注9)

メディア革命であったがゆえに当時の文献の多くがデマや嘘、レトリック、罵倒、創作が入り混じる混沌としたものばかりで客観的な事実――などというものが本当にあるのならば、だが――から人々を遠ざけ、対立を煽ることになった。そして欧州諸国を巻き込んだ正義と正義が激突する宗教戦争の時代を招来する。

(注1)永田諒一著「宗教改革の真実」(P34-35)
(注2)成瀬治著「近代ヨーロッパへの道」(P66)
(注3)成瀬(P68)
(注4)成瀬(P72)
(注5)成瀬(P72-73)
(注6)永田(P36)
(注7)永田(P45)
(注8)永田(P62)
(注9)スクリブナー、ディクスン「ドイツ宗教改革」(P95-96)

参考書籍、サイト
・R.W. スクリブナー、C.スコット ディクスン著「ドイツ宗教改革 (ヨーロッパ史入門)
・永田 諒一著「宗教改革の真実 (講談社現代新書)
・成瀬 治著「近代ヨーロッパへの道 (講談社学術文庫)
・小田垣 雅也著「キリスト教の歴史 (講談社学術文庫)
ヨハネス・グーテンベルク – Wikipedia
活版印刷 – Wikipedia
レオ10世 (ローマ教皇) – Wikipedia

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