説明責任を負う個人~浸透する「オーディット文化」について

オーディット(audit)」はもともと会計監査を意味したが、その意味を拡張して「専門的な品質管理、認定、保証、報告、評価など、形式化された説明責任の様式を広範に指示するもの」(春日P2)として用いられる。「オーディット文化(audit culture)」は現代社会を特徴付ける「市場化」と「自己規律化」という二つの運動の進展によって、個々人が自己点検、自己評価とそれに基づく説明責任を果たすことを求められる状況のことを指す。

第二次大戦後の福祉国家を主体としたブレトンウッズ体制とフォーディズムからなる戦後体制の行き詰まりを打開するために始まった一九七〇年代以降の先進諸国における新自由主義政策、金融の自由化と国際化、情報化という諸変革は地球規模での社会関係のネットワーク化をもたらした(正村P89)。そのプロセスとして観察される市場化と自己規律化という二つの運動の相互作用として生み出されたのが「オーディット文化」である。

まず市場化の急激かつ著しい進展は検証する役割を当事者だけで担うことを困難にし、リスク分散と選択のため個々人にいたるまで「説明する役割、受ける役割、評価する役割を、さまざまな立場で」(春日P2)果たすことを余儀なくさせる。

『質量ともに刻々と増殖する商品が地球大で流通し始めるとき、商品の品質やリスクの保証、売買行為の妥当性の検証が格段に求められて、その作業は当事者や政府や専門家でさえも単独で担いきることができなくなり、全員の参与する文化のかたちで共同作業としてたえず編み上げられるようになった。』(春日P2)

同時に自己規律化という運動は人々に「オーディット文化」の担い手としてあるべき姿を提示する。

『「自己点検」「自己評価」の標語が正直に示すように、オーディットは自分で自分を監視し、客観的な基準によって自己を診断して、他者へと開示するよう命じる。他者に向けた説明行為は、自分が自分であるべく自己を律する行為であり、他者への責任を果たしながら、その他者に向けて「お前も自己であれ」と命じる。』(春日P2-3)

『二重の運動が協力して生みだしたこの文化は、市場メカニズムと自己のテクノロジーとを同時一体に点検して向上させる装置となる。市場はそれによってふさわしいプレイヤーを確保し、自己は自己でより安全な充実した生活を他者とともに生きるように整備しながら、市場へと立ち戻る。二つは補い合って効率的かつ倫理的に、私たちの現実を形成していく。』(春日P3)

市場化と自己規律化という二つの運動の産物であるがゆえにオーディット文化は個々人に「ビジネスパーソン=自分で課題をみつけ目標を達成する能力を有する人材」であることを要求する。それは「問題-解決」と「投資-利潤」という二つの思考様式を偏在化させた。

オーディット文化は「近代」と共通の単線的な時間認識を前提としている。「未来とはまず過去-現在との連続上にあり、過去の経験をつうじて予想すべきもの」(春日P8)、「不確実性は計算されて予測されるべきもの」(春日P8)であるとみなされるから、個人が自分を律することで「あるべき自己」に近づくために「自分の問題を自分でみつけて反省し、目標を設定して努力し、評価し説明する」(春日P7)という「問題から解決への道程を面や線によってイメージさせる」(春日P7)ことになる。これが「問題-解決」型思考の偏在化である。

同様に、オーディット文化の単線的な時間認識は「投資-利潤」型思考も要求する。『充実した人生を自分の手で設計し、あるいは今を活き活きと生きるべくカネの算段をするように促し、つまりは消費や生産や自己啓発などの諸活動を「投資」へと変貌させる』(春日P7)。その投資は単線的な時間認識の先にある未来の自分に対して利潤として戻ってくる、という認識を前提としている。

『二つの運動はともに参加者に対し、各自の同一性を確保しながらあるべき自己となるように要求し、それぞれの進み具合、遅れ具合を点検させる。先取りのために投資活動を促し、遅れを取り戻すためにオーディットを呼びかけ、一度きりの不可逆的な時間を自分のために有効に活用して、便利で安全で倫理的な生活を少しでも高いレベルで実現せよ、と謳っている。』(春日P9)

前述のように七〇年代の一連の新自由主義的改革は行き詰りを見せていた戦後体制からの脱却を目指した、「経済発展、民主化、教育の普及、人権尊重」(春日P6)などの「近代」が目指した志向を継承させる試みであり、結果として冷戦における民主主義勢力の勝利をもたらすことになった。ゆえに市場化と自己規律化の産物としての「オーディット文化」は普遍主義的な色彩を強くする。”あたりまえのこと”として浸透し、そうでない者に対しておのずと抑圧的にならざるをえない。かくして「オーディット文化」は括弧書きの「グローバリゼーション」を象徴し、その得体の知れなさに対する不安と恐怖によって生み出された陰謀論的主観に彩られる「反グローバリゼーション」との間で無自覚な「文化戦争」を生み出しているように見える。

「近代」という壮大なプロジェクトの継承の結果として生まれた「オーディット文化」だが、その特性ゆえに自己目的化せざるを得ない。「遅れないように先手を打つようにと努力はしても、はたして先行すること自体にどんな意味があるのか」(春日P10)という問いは当然のものとして生じる。果たして市場が求めるビジネスパーソンとして生きることに何の意味があるのかと。もちろん「意味」などない。「意味」を問う必要すらない。「オーディット文化」が求めるのはその意味を問うことではなく、その思考様式をどのようにして受け入れるかである。

個人としてはもはや「オーディット文化」をどのレベルで受け入れ、どの程度の距離を保つか、という次元でしか接する方法が無いが、一方で「オーディット文化」が謳う「責任」を個人でどこまで担うことが出来るのか、という問いがなされなければならない。「オーディット文化」は主体としての個人に責任を強く要求するが、他方で同じ市場化と自己規律化という運動はその個人という主体そのものを大きく動揺させた。

『内部と外部を明確に分離し、自律的にふるまうという点では、近代国家は、近代的個人と構造的な同型性をもっている。なぜなら、近代的個人も、理念的には自己と他者を明確に分離し、自己の内部を区別する物理的境界と意味的境界が存在する。皮膚によってかたどられる物理的境界が生得的に備わっているのに対して、自己と他者を区別する意味的境界のあり方は、社会に応じて異なってくる。他者から明確に区別された自己意識をもち、自己が従うべき規範や基準を内部に取り込むことによって自らの行動を自分自身で決定する自律的存在、それが近代的個人である。』(正村P29)

さまざまな主体が登場し市場経済の全地球規模の進展によって主体としての近代国家の立場は大きく低下しつつある。その反動としてナショナリズムが台頭する反面、国家に変わる諸主体の力をより強化しようとする脱ナショナル化といえる動きとが同時進行し、近代国家という枠組みの融解とともに個人という存在もまた自律し、自己統治しうる範囲が、あいまいになりつつある。

例えば非自発的理由で移動を余儀なくされた際のシチズンシップの問題、民主主義的体制下でありながら自身に影響を及ぼす決定に自身が参加できない場合の責任を負う主体はどこか。選挙における投票でもマーケティング技術やメディア技術の著しい向上はその個人の意思を左右しうるほどに投票行動に強い影響を及ぼすことが可能になってきた。それは選挙に止まらず購買行動でも同様だ。楽しい、購入したい、などの欲求はどこまで自律的・自発的であろうか。「健康」は自己管理が強く求められる概念のひとつだが、近年の医学の発達は「新しい病」を次々と創出しており、むしろ疾病にある方が常態であるとさえ言える。長期化する不況など経済動向は個々人の雇用や職業選択から自己決定権を行使しうる対象を著しく狭めている・・・などなど。

市場化と自己規律化の結果としての「オーディット文化」は確かに脱ナショナル化を推し進めるが、他方で個人に対して「他者から明確に区別された自己意識をもち、自己が従うべき規範や基準を内部に取り込むことによって自らの行動を自分自身で決定する自律的存在」たれと命じる点で何にもまして「近代」への回帰と言える。「オーディット文化」の浸透は単線的時間認識に基づいて未来に突き進ませるという点において「進歩」であるが、それが求める「個人」の姿が近代のそれであるという点において「反動」である、と思う。

決して個人の力を及ぼすことが出来ない運動の帰結として、個人に責任を分散することで誕生し、選択の余地なくその責任に応え続けることを強く求める文化として「オーディット文化」は存在する。「オーディット文化」は自己目的化し、かつ抑圧的であるがゆえに、浸透すればするほど個人に閉塞感を植えつけることになるが、一方でその活動なしに高度にネットワーク化しつつある社会を存続させることができない。現実に在る個人とオーディット文化が要求する個人との間には大きなジレンマがあり、その両者がともに同じ市場化と自己規律化の産物であるがゆえに、人々はその葛藤を受け入れることなしに生きることは困難である。

人口に膾炙する「オーディット文化」はやがて政治的要求として結実する。現代のポピュリズムの特徴の一つに政治に企業統治や市場原理の導入を図ろうとすることがある。彼らポピュリズム的手法を駆使した政治家の特徴は「世論を政策や理念で導くのではなく、むしろ世論が重要視していることをマーケティングによってあらかじめ特定し、それをもとに自らの公約や政策を作りあげ」(吉田P43)ることだ。イタリアのベルルスコーニ政権は「競争力のある民主主義」を掲げて「グローバル化のなかで競争する国家では、もはやイデオロギー対立などではなく、むしろ効率性や迅速性を競い合う民主主義が尊重されなければならない」(吉田P44)といい、ブッシュジュニア政権は「オーナーシップ社会」を謳い「個人の自立や自助努力、すなわちセルフ・ガバナンス(自己統治)を奨励」(渡辺P121-122)した。

「オーディット文化」が求める個人の責任が「倫理的」で「他者への責任」であり「自己の従うべき規範や基準」の内在化であるという点においてそれは道徳的な色彩を持つ。故にその政治化である現代ポピュリズムはあたかも対立するかに見える二つの概念、市場主義と権威主義とが並列で語られることになる。個人の責任を果たせ、共同体の規範に従え、そして強いリーダーシップを!・・・われわれが切望してやまない未来へようこそ。

参考書籍
・春日 直樹著「「遅れ」の思考―ポスト近代を生きる
・正村 俊之著「グローバリゼーション-現代はいかなる時代なのか(有斐閣Insight)
・森 政稔著「変貌する民主主義 (ちくま新書)
・吉田 徹著「ポピュリズムを考える―民主主義への再入門 (NHKブックス No.1176)
・渡辺 靖著「アメリカン・デモクラシーの逆説 (岩波新書)

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