「自分探し」の旅人の三つのタイプ

承前:「説明責任を負う個人~浸透する「オーディット文化」について

現代社会を形作る二つの運動、市場化と自己規律化のうち自己規律化の浸透は自己へのこだわりを深化させ、様々な「私」を市場に溢れさせる。好むと好まざるとに関らず現代人は何らかのかたちで「私」と向き合い、あるべき「私」を探し、そして目指さずにはいられない。『「遅れ」の思考―ポスト近代を生きる』で春日直樹は『仕方なく出かける「自分探し」の旅』を三つのタイプに分類している。

「遅れ」の思考―ポスト近代を生きる
春日 直樹
東京大学出版会
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先回りタイプ

『先回りタイプは「投資」行為であり、自己実現の願いをかなえてくれそうな商品や活動に狙いをさだめて、取得と実践に励む。有形無形の支出や労苦に耐えて目標の達成を目指すこの旅人は、「問題-解決」の枠組みの正しさに賭けている。』(春日P11)

待機タイプ

『待機とは、自己実現をどこにどう探しにいくかがわからず、また狙いをさだめて選択するという行為自体を躊躇することから生まれる。積極的な支出は要らないが、能動性を抑えるためにさまざまな機会を逃すという不安を抱える。待機する旅人は「問題-解決」型の思考を疑い、枠組みの外側にとどまっている。』(春日P11)

・同行タイプ

『同行とは、自己実現のために「問題-解決」に賭けるのでも「問題-解決」から抜けだすのでもなく、「問題-解決」としての自己実現そのものを検討する。このタイプは先回りと待機に対して設定されるが、先の二つと対立するわけではない。むしろ、先回りの旅人と待機の旅人が随時立ち寄って参加し、自己実現とは何なのかを考える旅である。』(春日P11)

前回の記事でも説明したが「問題-解決」型の思考とは、近代に特徴的な単線的時間認識を前提とした「未来とはまず過去-現在との連続上にあり、過去の経験をつうじて予想すべきもの」(春日P8)、「不確実性は計算されて予測されるべきもの」(春日P8)という認識の上で個人が自分を律することで「あるべき自己」に近づくために「自分の問題を自分でみつけて反省し、目標を設定して努力し、評価し説明する」(春日P7)という思考様式を浸透させた。七〇年代以降の市場化の進展により、「ビジネスパーソン=自分で課題をみつけ目標を達成する能力を有する人材」であれという個々人に対する社会的要求が強化された結果、現代は、あたりまえのものとして誰もがこの思考様式を受け入れるようになる「問題-解決」型思考の偏在化を大きな特徴としている。

例えば今や多く信奉者で溢れるライフハックブームとは人生のありとあらゆる面についてこの「問題-解決」型の枠組みで可能な限り捉え尽くそうという運動であり、「先回りタイプ」の代表と言えるだろう。

『「自分探し」の三つのタイプは、共通の難題と向かい合っている。先回りをする旅人は、「自分」をさらに先の未来へと逃がしてしまったことを思い知る。待機を選ぶひとは、取り戻せない過去の「自分」を追いかけては後悔を繰り返す。そして同行の参加者は、決して捕まらない現在の「私」に気がつき、永遠に同定できない「自分」を受け入れるしかない。三つに共通する経験とはなにか。未来へと取り逃がしたという気持ち、過去において失ってしまったという思い、現在に追いつけないという感覚――、つまりは<遅れ>である。』(春日P12-13)

「自分探し」は何か特殊な風潮であり、若者や一部の世代、ある条件下の環境に置かれた人々がのめり込むものであるという捉え方がされているようでもあるが、そうではないと思う。「私」というものとなんらか向かい合い、折り合いをつけて、社会があるべき姿として要求する「ビジネスパーソン=自分で課題をみつけ目標を達成する能力を有する人材」という理想像とのギャップに直面しながら、誰もが「自分探し」の旅に仕方なく出かけることになる。そのとき自覚的にあるいは無自覚に先回りと待機と同行とを使い分けながら、極端へと傾斜しないように多くの人々がバランスを取って生きている。

ゆえに「自分探しはやめよう」とか、「自分探しはほどほどに」という助言は善意に溢れてはいても、発言者自身が自分探しをしていないのではなくその自分探しの過程を無自覚なうちに上手くこなせているに過ぎないのだから、両者の間の断裂を一層浮き彫りにするだけに過ぎない。

日々の生活の中で、あるいは仕方なしにでかけた「自分探し」の過程で直面する<遅れ>という名の難題から逃れるために、さらなる「自分探し」という袋小路を彷徨うことでしか解決の手段が見いだせないという構造的な問題が存在する。それは誰しもが陥るかもしれない迷路である。「一方には救いようもないほど自分でしかない自分がいるのに、他方ではその自分をどうしても捉えきれない」(春日P13)というジレンマが、われわれを捉えて離さない。「自分探し」の旅人にとっては、希望を捨てることでしか「自分探し」の呪縛から自由になることが出来ないがゆえに、袋小路なのだ。

そして常に探し求める「私」にいつまでも追いつけない<遅れ>た私という孤独は理想の「私」を共有する「われわれ」という物語へと回収されうる。「理想の自我を一つの語りへと収斂させる強い感情」(春日P44)が高じると「許容してきた自己内部の曖昧さや矛盾を強引に一元化して、統一的で潔癖な<われわれ>を実現しようという動きが起きるだろう」(春日P44)。「自分探し」の旅は”純粋”で”透明”な”本当”の「われわれ」の発見へと繋がった時、個々の営みから巨大な運動へと変わる可能性がある。見つかるはずの無い<遅れ>の原因の答えを求め、その答えとして<われわれ>以外の他者を発見し、敵意を燃やす運動へと。

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