「傭兵の二千年史」菊池 良生 著

傭兵の歴史は古い。紀元前五世紀、「ソクラテスの思い出」「アナバシス」などの著書で知られるソクラテス門下の一人クセノフォンはギリシア人傭兵としてペルシア王やスパルタの下で従軍し、それを迎え撃つアテネもまたクレタ諸島などから傭兵をかき集め、古代としては異例の大軍勢がぶつかり合った。世に言うペロポネソス戦争である。

ローマ帝国もまた、当初は徴兵制を取っていたが、戦争の規模が拡大していくにつれて、ローマ市民や奴隷だけでは兵をまかないきれなくなり、紀元前一〇七年、志願兵制を導入、やがてそれは職業軍人の誕生へと繋がり、傭兵化していった。そして力をつけた傭兵たちは私兵集団を形成、軍人皇帝割拠時代を経て東西ローマ帝国に分裂する。四七六年、ゲルマン人傭兵隊長オドアケルが西ローマ帝国の統治権を簒奪、西ローマ帝国は滅亡する。

この本で描かれるのはそのような古代の傭兵たちではなく、中世以降の欧州で戦争の主役としてところ狭しと暴れまわった荒くれ者たちの姿だ。彼ら傭兵はしかし、近代を境にして歴史の表舞台から姿を消す。金のためではなく、祖国のために戦う国民戦争の時代が到来したためだ。著者のスタンスは、そのナショナリズムの登場の過程を、逆説的にナショナリズムとは無縁な傭兵たちの消滅の過程として描くことで、浮かび上がらせようとするものだ。

『つまり、古来、戦争とは忠誠、祖国愛といった観念とは対極に位置していた傭兵たちによって担われていたのである。それがいつしかナショナリズムにより途方もない数の人々が祖国のために身を捨てる国民戦争に変質したのである。であるならば、これら傭兵たちの歴史を覗けばひょっとしたら近代のナショナリズムの仕組みが逆説的にほの見えてくるかもしれない。
本書はこんな淡い期待のもとに書かれた。』(P5)

この本はナショナリズムの誕生そのものを描いてはいないけれども、当初は我が物顔で金のために裏切り、略奪も辞さず、騎士道をあざ笑い、自由のためなら誇りも名誉もいらぬとばかりにバイタリティ溢れる傭兵たちが、徐々にその力を失い、そしていつしか自由をすら奪われて、勃興していく国家という巨大な仕組みに吸収されていく、傭兵の哀しいまでの衰退の過程が描かれていくことで、その逆説的な試みは確かに成功していると思う。

西ローマ帝国崩壊後の欧州の混乱はやがて戦士階級を誕生させた。君主より領地を封土された彼らは騎士として正規軍の担い手となり、やがて十一世紀から十二世紀にかけての十字軍遠征を頂点として勇敢さと高潔さをモットーとする騎士文化が花開いた。

同時に十一世紀ごろから始まる中世の欧州経済の拡大は貨幣経済を浸透させるとともに戦争遂行能力を著しく高めることなり、百年戦争など戦争の規模は著しく増大することとなった。十四世紀になると経済膨張期は終わり、一転経済後退期が到来、さらに飢饉やペストに見舞われ、農業人口の減少による生産力の低下が騎士階級を直撃することになる。経済的困窮に見舞われた彼らは現金収入の道を模索し、他方で君主たちも使い勝手のいい傭兵の利用を始めるようになり、かくして騎士傭兵市場が欧州に誕生した。

群雄割拠のイタリア半島では一介の傭兵から王侯貴族にまで成り上がるサクセスストーリーが次々と誕生して傭兵を憧れの職業に押し上げ、精強ハプスブルク騎兵を完膚なきまでに撃破することで名を挙げたスイス歩兵は傭兵として欧州中で引っ張りだことなって当時の戦争の趨勢を左右し、南ドイツ傭兵部隊ランツクネヒトは騎士の矜持よりも傭兵の自由を選ぶことで略奪、凌辱の限りを尽くして悪名を轟かす。

十六世紀の宗教戦争、十七世紀の三十年戦争から始まる国際戦争の世紀に傭兵たちが戦争をリードしていった。だがその傭兵の全盛期と時を同じくして、絶対王政の時代が欧州に到来する。金のために戦っていた傭兵たちの働きによって、王に刃向う諸侯の力はそぎ落とされ、相対的に王たちの権力が著しく高まる。中でもフランスの太陽王ルイ十四世の権威は並ぶものが無いほど強まっていた。その結果、傭兵たちの地位もまた低下しつつあった。十八世紀の五大国列強の時代は軍制が整備される時代だった。プロイセンでは大王フリードリヒ二世が常備軍を整え、強引に彼の臣民を傭兵に仕立てる傭兵狩りが横行。自由の象徴であった傭兵はいつしか不自由な忌むべきものへと変化していた。

そして、フランス革命が勃発する。このときフランスの革命軍は全欧州を敵に回して、国民皆兵制度を導入。祖国防衛のために国民が喜んで命をかける「国民軍」が誕生する。列強を撃破した国民軍はやがて、皇帝ナポレオン一世の下で全欧州を席巻する。それは傭兵の時代の終わりでもあった。

と、大きな流れで言うとこんな感じか。本書ではこの大きな流れの中で個性的な傭兵たちの姿が次々と描かれていく。それはそれは魅力的な”くそ野郎”ばかりだ。戦争の泥臭さ、汚さをそのまま体現する彼らの姿は、確かに時代精神というものがあったのだろうと思う。

その一方で大きな流れで見ると、国民一人一人が祖国のために自ら死地へ赴いた近代の方が異常であるとも言える。現代になって再び傭兵や民間軍事会社が戦争に参加するようになってきているという。それは傭兵の時代の復活なのか、国家という暴力装置の弱体化なのか、あるいは進歩であるのか、反動であるのか、そんな変わりゆく戦争の姿を問い直す第一歩として、傭兵の歴史を振り返るのは面白いことだと思う。

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