トクヴィルのイスラーム観と帝国主義

山内昌之著「帝国とナショナリズム」にアレクシス・ド・トクヴィルのイスラーム世界観が紹介されている。それは『十九世紀初頭ヨーロッパのキリスト教徒貴族の知識人にありがちな偏見』(P81)に満ちたものだ。

『ぼくは腰をすえてコーランを勉強してみた。とくに、アルジェリアやオリエント全域でのムスリム住人にたいするわれわれの姿勢のためだ。世界にはいろいろ宗教がある。しかし、率直にいって、あらゆる点を勘案しても、この世でマホメットの宗教ほど、人間にとって忌まわしい宗教はほとんどないという確信をこの学習から得たというものだ。ぼくの感じでは、今日では誰の目にも明らかなイスラーム世界の没落の主な原因は、この宗教そのものにある。それは古代の多神教のように愚にもつかない宗教ではない。しかし、僕の考えでは、その社会や政治の傾向は多神教などよりはるかに恐ろしいものだ。そこで、ぼくは異教自体と比べてみても、イスラームを進歩として考えるよりも、むしろ退廃としてとらえている。

(一八四三年十月二十二日付手紙 Tocqeville所収)(山内P80-81)』

山内はムスリムに改宗してイスラム世界とフランスとの相互理解の懸け橋となり、後に幕末の日本で駐日フランス公使として活躍した外交官レオン・ロッシュと比較する形でトクヴィルについてこう書いている。

『かれは、外国の社会風俗を分析する場合も、アメリカ社会に固有のキリスト教精神が民主主義を実現可能にしていたのに対し、イスラーム社会の精神と風俗に深く浸透していたイスラームの道徳が物質主義と狂信性によって人間の可能性をそこねたと考えていたからだろう。トクヴィルは、イスラーム世界と呼ばれる地域に現在のような停滞をもたらしたのは、ほかならぬイスラームとムハンマド自身だと信じていた。
トクヴィルは、イスラームに欠けている要素をしきりに見つけようとする。根拠もあげずに、イスラームの目標が戦争にあると断定する有様である。そして、イスラームをまるで化石でもあるかのように停滞した存在として性格づけるのだ。かれが提示する根拠は、イスラーム世界がヨーロッパの優勢に太刀打ちできないという<現象>的側面にすぎない。「アメリカの民主主義」や「旧体制と革命」などの著述を通して、北米とヨーロッパの社会分析で発揮した深い洞察力が、イスラームの考察から完全に抜け落ちているのはどうしたことだろうか。
かれは、イスラーム文明が中東という揺籃の地を遥かに超えて広大無辺の地域に拡大した理由に考えをめぐらそうともしない。イスラームの持続力や精神的なダイナミズムの内容を理解する関心がすっぽりと抜け落ちているのだ。トクヴィルこそ、まさに西欧の文化と近代資本主義のもった二面性を体現しているといえよう。』(山内P82)

確かに、一九世紀当時の『誰の目にも明らかなイスラーム世界の没落の主な原因は、この宗教そのものにある』というトクヴィルの視点は慧眼で、それはイスラーム教がキリスト教とは比較にならないほど社会・生活・政治などに根差した政教一致の宗教だからだ。

『イスラームは当初から、小さいながらも都市国家を持って生まれた。その教えは、精神的な宗教だけではなく、それを社会に実体化するための法をも含んでいる。法は人の心に生きるだけではない。法を実施するには、国家が必要であり、社会秩序を維持する権力が必要である。また、領土を防衛し、国内での法の実施を保障する軍事力が必要である、ということになる。(中略)イスラームがその場合(引用者注:キリスト教)と違うのは、現実的な力の必要性が宗教理念の中に最初から含み込まれているという点にある。』(小杉泰「イスラームとは何か」P265-266)

つまり、近代化した西欧の侵略による植民地化に対応できないという軍事的・政治的問題はイスラーム世界にとってはそのまま宗教的な問題でもあったからだ。だが、それは山内が指摘する通り『イスラーム世界がヨーロッパの優勢に太刀打ちできないという<現象>的側面にすぎない』。
むしろトクヴィルほどの人でも、西欧世界の普遍性を前提とした非西欧世界を劣ったものとみなししまう当時の時代性から自由ではいられなかったという点がとても興味深い。いや、当時のフランスを代表する民主主義思想の研究者・擁護者であるがゆえにそうならざるを得なかったのか。
特に十九世紀中盤から始まるフランスの海外植民地進出を支えていた論理が、一つは『国内の社会的矛盾を国外への膨張主義によってそらす社会帝国主義』(柴田三千雄「フランス史10講」P178)、もう一つがフランス革命の国であるという自尊心から生まれた『植民地化を無知・野蛮な現地人を「文明化」する崇高な使命だという独善的な文化的要因』(柴田P179)で、最先端の民主主義思想を実現した西欧世界の優越という普遍主義が帝国主義政策を支えた。自由と民主の名の下に非西欧世界の自由を奪うことに狂奔した時代だった。
そのような意味で、時代性とか社会常識と呼ばれるものがどれほど人の思考を呪縛するかと言う点に思いを至らせたとき、僕は著者ほど強くトクヴィルを批判しようという気にはならない。確かにこのトクヴィルが書いているようなイスラームに対する偏見と軽視の視点が欧州で支配的であったことで、やがて現代まで綿々と繰り返される中東世界の悲劇の連鎖へと繋がっていくのだけれども、その時代精神から自由であることの困難さは、百数十年を経た現代世界を見渡しても痛いほどよくわかる。どれほどの知性と教養の持ち主であっても、思考の自由を持ち続けられる人はほとんどいない。
この不自由さを思うとき、一人の思想家の言葉を思い出す。二十世紀初頭のアメリカの神学者ラインホルド・ニーバーは、アメリカが内包する思想的矛盾を鋭く突いた著作「アメリカのアイロニー」などで知られ、バラク・オバマ大統領が強く影響を受けた人物として近年注目を集めている思想家・宗教者だが、彼は自身の思想態度として心がけている言葉を以下のように挙げているという。

『狂信的になることなしに限りなくこの世を超越し、俗物的になることなしに限りなくこの世に生きる』(大木P50)

時代精神や常識から自由になる方法はこの言葉に言い尽くされている。この言葉を去年見かけて僕はいたく感銘を受けたので、ずっとこうありたいと思い続けているのだが、困難すぎる道だなぁと思わずにはいられない。
個人的な意見だが、ニーバーはトクヴィルと同程度には注目されてしかるべきだと思う。彼は冷戦下のアメリカが自身の正義を確信するがあまりに暴走する姿を戒める。

『われわれの献身の価値は理想といったものが、たといそれが普遍的妥当性を持つように見えるとしても、その中にそうでない諸要素があることを、慎み深い仕方で認識する態度を要求する。』(大木P52,ニーバーP124)

帝国主義の時代が生んだ両大戦を経てなおも戦おうとするアメリカへの警句は、この言葉自体が普遍性を持つ。また彼はスターリニズムを批判してこう語る。

『シニカルな信条よりも幻想的希望の方がはるかにひどい残虐や専制を産み出す可能性があるわけだが、この事実が認識されるのは、人間の歴史の中では歴然たる悪よりも善の腐敗の方が、一見もっともらしい外見をもってかえってはるかにひどく危険なものであるということが理解されるかぎりにおいてのみである。』(大木P58,ニーバーP194)

これはスターリニズム批判であると同時にそのまま民主主義という思想の普遍性を盲信した果てに生まれた悲劇の批判でもあり、アメリカ自身が陥りかけていた冷戦という時代への批判でもあるし、また現代にも通じる警句だと思う。この警句を受け止めることが出来ないまま歴史は繰り返されてきたわけだが。
トクヴィルの賞賛とニーバーの批判とが組み合わさって初めてアメリカの民主主義の考察は民主主義思想の考察として普遍性を持つのではないだろうか、と思ったりもするのだがまだ両者ともちゃんと読めていない。
余談だけど、歴史本とか哲学本とか読むたびにトクヴィルに限らず歴史上の思想家は手紙まで晒されて色々批判されて可哀相だなぁと同情してしまう。まぁ、ぼくはそういう点で研究者とかには決してなれないんだなたぶん。
参考書籍・論文
・山内 昌之著「帝国とナショナリズム (岩波現代文庫)
・小杉 泰著「イスラームとは何か (講談社現代新書)
・柴田 三千雄著「フランス史10講 (岩波新書)
・大木 英夫著「ニーバーの思惟の特質:ラインホルド・ニーバー「アメリカ史のアイロニー」をめぐって」(聖学院大学総合研究所紀要No.47)
・渡辺 靖著「アメリカン・デモクラシーの逆説 (岩波新書)

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