一七世紀オランダが「黄金時代」を築いた理由

オランダの台頭はまず地中海世界の衰退から始まる。

一六世紀欧州で二つの大きな変化があった。一つは、人口の急激な増大である。『一五〇〇年ごろに八一〇〇万人であったヨーロッパの人口は、一六〇〇年ごろに約一億四〇〇万人』(玉木P37)になり、『一〇〇年間で、およそ二二パーセントの増大』(玉木P37)であった。この人口増にともない都市の急成長が起こる。『人口四万人以上の都市が、一六世紀初頭には二六であったのが、一七世紀の転換期には四二に、一七世紀末には四八』(玉木P39)となり、一六世紀末には存在しなかった人口二〇万人以上の都市は『一六〇〇年ごろには三都市に』(玉木P39)なり、『一七世紀末には、人口四〇万人以上の都市さえ現れた』(玉木P39)という。

この結果、欧州全体で食糧生産が追いつかず、食糧危機が顕在化する。特に地中海諸国はそれまで自給自足出来ていたが、一気に輸入に頼らざるを得なくなった。その輸入を一手に握ることになったのはイタリアの商船ではなく、オランダの商船であった。

もう一つの大きな変化が森林資源の枯渇である。急激な人口増と都市化はエネルギーや建築資材として近世において最も主要な供給源である木材の需要を増大させ、結果森林資源の枯渇を招いた。特に人口増に伴う食糧供給を担うため森林が次々伐採され穀倉地帯へと変貌する。また一方でイタリア商業の発展が森林資源の枯渇に追い討ちをかける。運搬用船舶の建設資材や燃料など木材需要は高まり続けていた。『イタリアのロンバルディアにおいては、都市以外の地域においてさえ、森林が土地全体に占める割合は、一五五五年にはわずか九パーセントにすぎなくなっていた』(玉木P40)という。

この結果、地中海世界では近隣地域に森林資源を求めることが不可能となり、船舶の建造費が高騰、輸送費の上昇を招き、これら全てを輸入に頼らざるを得なくなった。その木材の輸入を引き受けたのもまたオランダを代表とした北大西洋諸国の商船であった。

これら人口増に伴う食糧危機と森林資源の枯渇という地中海世界および全欧州の二つの危機を克服するための資源供給源としてバルト海地方の重要性が高まる。バルト海地方には非常に多くの森林資源が残されており、またバルト海地方のポーランドは当時欧州一の穀倉地帯であった。そのバルト海地方の重要性に早くから目をつけ貿易網を確立したのがオランダであった。バルト海地方およびその西側(クライネ・オースト)一帯を代表する商業都市ハンブルグから輸出された資材は全て一旦アムステルダムへと集積された上で、欧州各地へと再輸出される。一七世紀、バルト海との穀物・資材貿易によってアムステルダムは欧州の中心都市へと躍り出た。

穀物貿易と並んでオランダ貿易の柱となったのが武器貿易であった。

オランダは一五六八年から一六四八年までの長きにわたりスペインとの八十年戦争の真っ只中にあったが、その間に戦争で疲弊するのではなく、むしろ欧州最強の経済力を蓄えていた。それはオランダが分裂国家であったことによる。七つの州がそれぞれ主権を有し、形式的にホラント州の総督が指導的立場にあったが、あくまで支配権を持っていたのは各州で、戦争の実行は商業を阻害しなかった。

むしろオランダが戦争状態にあることを受けて武器貿易が盛んになる。この武器製造の原料となる鉄や銅などの鉱物資源の調達先を、穀物貿易を独占していたバルト海に求めた。当時、『スウェーデンは、鉄や銅などの鉱物資源は豊富にあったが、それを生かす技術と資本に欠けていた』(玉木P71)。これに対しオランダはそれを活用しうるだけの資本と技術とを有していた。オランダ商人は次々とスウェーデンに渡って鉱山開発に貢献し、産出された鉄や銅がバルト海貿易を通じてアムステルダムに運ばれ、アムステルダムで大砲や銃器に変わり、八十年戦争、ユグノー戦争、英西戦争、三十年戦争、清教徒革命など一六~一七世紀の戦乱のさなかにあった欧州全土へと輸出される。『武器貿易商人は、スウェーデン、デンマーク、イングランド、フランス、ヴェネツィアに、場合によっては、敵国のスペインにも武器を売った』(玉木P73)という。

この原材料産地としてのスウェーデンと製造・輸送を担ったオランダの連携は、スウェーデンが三十年戦争の勝利によってバルト海一帯をその支配下に治めスウェーデン・バルト海上帝国となったことで、「オランダ=スウェーデン複合体」として、一八世紀初頭のオランダ、スウェーデン両国の没落まで実質的に欧州経済の中心として支配的な地位を築いた。

穀物貿易、武器貿易以上にオランダに莫大な利益をもたらしたのが中継貿易による輸送料収入であった。ポーランドもスウェーデンも輸送はほぼオランダ船に依存しており、イタリアにおいても森林資源の枯渇にともなう造船コストが急増したことで輸送はオランダ商船にかなりの部分とって変わられていた。穀物貿易においては『穀物の五〇パーセント以上はオランダ船(より正確にはオランダ人を船長とする船)によって輸送されて』(玉木P46)おり、また一四九七年から一六六〇年の間でバルト海の玄関口エアーソン海峡を航行した四〇万隻以上の船舶のうち『五九パーセントがオランダの北部七州から出航していた』(玉木P65)。統計によるとバルト海とオランダの穀物貿易における利益額に占める輸送費の比率は一六八四年から一六八八年の時点で三三パーセントにも上っていたという。

あわせて、オランダの優位性としては、宗教戦争の真っただ中にあった欧州で格別宗教的寛容さのある社会であったことで、宗派に関らず多様な取引先や商人の出入りを認めていたこと、武器や穀物などの産品とともに軍事情報や商品の最新価格など商業情報のやり取りが活発であったことなど無形のソフトパワーの存在も指摘される。

穀物貿易、武器貿易、そして中継貿易における海運業によってオランダに流れ込んだ莫大な利益は、オランダの金融を大きく発展させた。当時オランダの一人あたりの税負担は欧州最大であったが、税制自体は全国的規模で徴収されるのは塩税のみで、あとは各州で徴収される消費税が大きな割合を占めていたという。一方、州ごとに発行される公債は富裕層だけでなく水夫や職人層、さらに女性にいたるまで階層に関らず購入されており、欧州最大の投資社会であった。このような投資社会下において、オランダ各州が対スペイン戦争の戦費をすべて借入で賄っていたから、政府の財政部門は発達しなかったが、民間部門の金融が発達し、「最初の近代経済」を誕生させることになった。

やがてオランダのやり方を模倣しつつ、独自に中央集権的な金融・財政制度を整えた「最初の近代経済国家」イギリスが現代社会の祖として台頭していくことになる。

以上、玉木敏明著「近代ヨーロッパの誕生 オランダからイギリスへ (講談社選書メチエ)」(P28-89)より。

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