日本の啓蒙時代を切り拓いた夭折の天才「富永仲基」の思想

富永仲基(とみなが・なかもと)は正徳五年(一七一五)、大阪で醤油屋を営む富裕商人富永吉左衛門の子として生まれた。同時期の欧州で台頭していたブルジョワ階級がそうであったように、吉左衛門もまた教養を高めることに努め、他の商人とともに私塾懐徳堂を設立、著名な儒学者三宅石庵を招き、当時儒学振興を重視する将軍吉宗の教化政策に乗って補助金を受け、半官半民の教育機関として大阪町人の学力向上に寄与していた。

仲基も若くから懐徳堂で学び頭角を現すが、若干一五歳で表した書「説蔽(せつへい)」の内容が儒学の存在意義そのものを問う、すなわち幕府の教化政策に反するセンセーショナルな内容であったため、師の三宅石庵は彼を破門したと伝わっている。ただし「説蔽」は現存していないため、その内容は明らかではないが、中国先秦時代の思想史を概略し、儒教を思想の発展史に中に位置づけ、絶対的な思想ではなく諸子百家の一つにすぎないことを論じたものだという。儒教諸派のいずれの立場にも立たず、権威を徹底的に相対化したことが危険視されたと考えられている。

懐徳堂を破門された仲基は家を出て大阪のどこかに住み、個人教授や著作に従事していたという。そして、その時に著した二冊の書「出定後語(しゅつじょうごご)」と「翁の文(おきなのふみ)」によって、彼の名は江戸思想史上に燦然と輝く天才として刻みつけられることになる。

一八世紀初頭、日本の思想は開明期を迎えようとしていた。第一次啓蒙時代と呼ばれるこの時代の特徴は『理性に対する確信とそれを担う自己にたいする信頼とにもとづいて、従来の伝統的考え方や価値観を疑い、相対化し、そして批判するような精神的態度』(源了圓著「徳川思想小史」P118)の登場である。この時代を準備したのは主に三つの要因からなるという。(源P123)

(1) 商業資本の発展と、その発展に即応しようとした田沼意次の政治
(2) 徳川時代における知的文化の内的成熟
(3) 長崎を窓口としてはいってきた西欧の文化や思想の触発

一七世紀の思想世界においては、徳川政権の統治理論として儒学が選ばれたことで、仏教やキリスト教などに対する儒学の正統性の確立や儒者としての思想性を磨くことなど内面的真理探究が主要な問題であったが、思想史上の巨人荻生徂徠の登場がその空気を一変させる。彼は実証主義的な古文辞学を提唱して朱子学を批判し、「先王の道は外に在り」の言葉通り、思想世界を儒教の枠から解き放ち多様な外的世界へと羽ばたかせる。彼の影響により経世学など社会・経済を対象とする実学が花開き、実証主義的な思想・歴史研究が浸透しつつあった。これと併せて西欧の医学・天文学などの科学思想や西欧の社会・文化の情報は合理主義的思考を育み、日本の枠を超えて世界の中に日本を位置づけようとする普遍主義的志向を芽生えさせ、伝統的思考に対する相対的・批判的態度を生み出しつつあった。

そして、このような時代の胎動の中で、天才的な思考によって啓蒙期の先駆者となったのが富永仲基であった。

彼の代表的理論が「加上」である。それまでの仏教研究の手法は『あらゆる経典をその形式と内容にしたがって分析・分類し、最もすぐれたもの、それに次ぐもの、等々の位階をつける方法』(源P131)である「教相判釈(きょうそうはんじゃく)」と、法然が考案した『自己のたましいの救済という主体的観点から、経典・仏説の中から自己に最もふさわしいものを選択する方法』(P132)である「選択(せんじゃく)」があった。

この二つの手法に対し、仲基の「加上」は仏教のみならずあらゆる思想研究に適用できる普遍的手法であった。

「加上」とは文字通り「加え上ぼす」ことである。仲基は思想発展の過程において、思想家たちは、前説の特異な点を選び出し(揀異(かんい))、自説をその思想体系の始祖の諸説であるかのように装い(託)、自分の説は正統的なものであるとして、前説の上に自己の説を「加え上ぼす」という作業をやる、ということを『出定後語』で指摘している。(源P131)

つまり、あらゆる思想・宗教はその発展過程で登場する様々な思想家たちは『既存の言説を上回る何かを示そうとして、強い論点を打ち出す傾向がある』(島薗進著「宗教学の名著30」P46)という思想家たちの動機に注目して、その思想家たちの心理的背景を踏まえてその教説を分析するという客観的な文献研究手法を編み出した。

「加上」の概念が示すのは、経典や教諭書において相互の優位争いが大きな動機となっていること、そして今この場所に生きる者にとってそれは附随的な意義しかもたないということである。経典や教諭書には特別なアイデンティティの主張や闘争心・競争心が行き渡っており、部外者はそれに共鳴できない。

そこで、どこにその文書の特殊なアイデンティティの主張や闘争心・競争心があるかを理解すれば、その主張に惑わされないですむ。仲基は異なる教説が相互に張り合ったり、対立したりすること自体を分析の対象とする。(島薗P46-47)

この「加上」理論とともに「三物五類」という文献研究の際のことばについての原則を唱える。(源P132-133)
三物
(1) 用語が学派や経論によって異なること
(2) 同一のことばでも時代によってことなること
(3) ことばには類別がある
五類(三物の第三であることばの類別を五つに分類したもの)
(1) 本来の意味を拡大したもの
(2) 拡大する以前の本来の狭い一部のもの
(3) 包括的に使われたもの
(4) 激発的に使われたもの
(5) 反対的な使われ方をしたもの

仲基は「加上」と「三物五類」という実証主義と合理主義に基づいた冷徹なアプローチでこれを仏教だけでなく儒教や神道など当時の様々な思想に適用し、自由な思想研究の道を切り拓いた。これらが示された「出定後語」は延享元年(一七四四)、彼が二九歳の時に書かれ延享三年(一七四六)に刊行されたが、その序文には加上説を思いついて十年になるとあり、二十歳前後ですでにその構想が出来ていたらしい。

さらに彼は「国に俗あり、道之が為めに異なり」(『出定後語』)として、地域や文化の違いが思想形成に与える影響を重要視する。『インド人は「幻」(幻術性・神秘性)、中国人は「文」(文飾性・誇張性)、日本人は「絞」(直情性・切迫性)というそれぞれの国民的特性をもっている』(源P133)と考え、比較文化論的な視点からも、伝統的思想の相対化と分析を行った。

「翁の文」では仏教、儒教、神道をこれらの観点からばっさりと批判する。(島薗P47-49)

「僧侶のやることはすべてインドにならったものである。自分の身を収め、また人を教化するのだが、とくに梵語をつかって説法などをするものだから、だれもこれを会得したためしがない。」
「日本の儒者は、すべてなにごとも中国の風俗に似せようとして、わが国ではとても通用しないことばかりを行っている。」
「今の神道は、すべて昔のことを手本として、あやしげな、異様なことばかりしている。」
「今は、もはや末の世であって、偽や盗をするものが多いのに、神道を教えるものが、かえってその悪いところを擁護するようなことは、はなはだ道理にもとることだといわねばならない。」

これら伝統的思想・宗教のいずれもが最早現実に即していないことを指摘し、その枠組みを超えた普遍的な「あたりまえの理」によって合意される「誠の道」を彼は展望する。

『今の習慣に従い、今の掟を守り、今の人と交際し、いろいろな悪いことをせず、いろいろとよいことを実践するのを誠の道ともいい、それはまた、今の世の日本で実践されるべき道だともいえる。』(島薗P49)

「翁の文」は元文三年(一七三八)、二三歳という驚異の若さで書かれ、延享三年(一七四六)に「出定後語」に続いて刊行されたが、その刊行後ほどなくして彼は三一歳の若さでこの世を去る。もし長生きしていれば、彼はさらに思索と分析を進めて、宗派や思想を超えたところにあるかもしれない普遍的倫理へと到達していただろうか。

死後、一度は忘れ去られたが、やがて本居宣長が彼の「出定後語」を読み「玉勝間」で絶賛したことで復刊され、それを目にした様々な研究者や思想家たちに多大な影響を与えることになった。平田篤胤は排仏の立場からこの本を支持し、その思想の平易化に努めたという。また、明治を代表する史学者内藤湖南は江戸期の思想家の第一に彼の名を挙げて大天才と絶賛し、「加上」理論を踏まえた東洋史研究で成果を残した。また島薗進も「宗教学の名著30」で宗教学の先駆としてヒュームやイブン・ハルドゥーンとともに富永仲基を挙げている。

わずか三一年の生涯であったが、確かに彼は先駆者として時代を切り拓き、揺るぎない成果を残して後世に多大な影響を与えた。

だが、未だ世界は対立を乗り越えた「あたりまえの理」によって合意される「誠の道」へと到達してはいない。「あたりまえ」が融解し、次々と変化していく世界で、いかにして「誠の道」を見出すのか。あるいはただ「誠の道」を希求するがゆえに誰かを憎み、誰かと対立せざるを得ない現実がある。むしろ西欧において、富永が先駆となったのと同様の古い宗教的価値観の相対化の先に脱宗教化という近代の幕開けがあったことを考えれば、「誠の道」的普遍を望み続けた結果として現代社会があるとも言える。世界で広がる再宗教化と伝統回帰志向はその反動でもある。もしかすると、この大天才の超克こそが現代において向かい合わなければならない難問なのかもしれない。

参考書籍・サイト
・源了圓著「徳川思想小史 (中公新書 (312))
・島薗進著「宗教学の名著30 (ちくま新書)
懐徳堂とその周辺(14)「富永仲基(1)」
懐徳堂とその周辺(15)「富永仲基(2)」
富永仲基の学問と方法―著述と思想―水田紀久
内藤湖南 大阪の町人學者富永仲基
CiNii 論文 – 翁の文
CiNii 論文 – 聖俗の反転 : 富永仲基『出定後語』の真相

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