妖怪はどこに現われるのか?

小松和彦編著「妖怪学の基礎知識」の第六章、佐々木高弘氏による「妖怪の出現する場所」では歴史地理学的手法で過去の妖怪伝承の中で出現場所がわかっているものを抽出して当時の地図に落とし込み、妖怪が出現する場所の傾向から、その背景について空間論的・言語認識論的分析が試みられている。これがとても面白かったので簡単に紹介したい。

歴史地理学的手法では三つの研究領域があるという。第一に『文献資料や考古資料によって過去の地理を復原』し、第二に『過去の人たちが抱いていた、イメージ世界の研究』を行い、第三に『諸分野の成果や方法論を駆使して』、『普遍的に存在するであろう、抽象的概念の空間的表現』を見出そうとする(P142-143)。

同様の手法で、妖怪の出現場所について、大阪、京都、江戸について調査が行われている。江戸から明治にかけての怪異を語る落語から場所が特定される噺を選び出して、場所をそれぞれの都市の地図に落とし込んだ結果、妖怪の出現場所にはある一定の偏りが明確になったという。

『当時の大坂は、殿様不在の城下町と言われたように、上方落語を楽しんだ主体は、大坂城ではなく商人の町である船場であった。そこで船場を中心に、妖怪の出現した場所を見ると、東南方向に偏っていることが分かる』(P159)

この偏りは京都や江戸も同様だという。上方落語のうち京都を舞台にしたもので場所が特定されるものを抽出した場合、『平安京を中心とすると、怪異空間は、やはり東南あるいは北に変更する。大坂でも近松の心中物を怪異に加えるのであれば、北にも偏向する』(P159)といい、また江戸について、江戸落語から同様に抽出した場合、『江戸城を中心に見ると、やはり東南から東、そして北に偏向する』(P159)のだという。

それぞれの地図が挿入されているが面白いぐらいに東側にのみ偏っており、西から南にかけてはほぼ皆無に近い。とりあえずここでは近世の江戸、京都、大坂が例に取られているが、例えば中世の鎌倉や京都などではどうなのだろうという興味も湧くところではあるが、とりあえず江戸時代の落語に見られる怪異は主要都市の東南と北に集中的に発生しているということらしい。

また、地方村落の例として、徳島県石井町旧石井村の口頭伝承「首切れ馬」の発生場所の調査結果がある。落ち武者が乗った首の無い馬を見たというもので、収集された七一事例のうち、(1)旧村境に一致する伝承が十九事例(2)小字の境界に一致する伝承が二十五事例(3)村境と小字界の両方にまたがる伝承が九事例(4)村境や小字界に一致しない伝承が五事例(5)場所をはっきりと記憶していない伝承が十三事例で、場所が判明している五八事例のうち五五事例が村や小字の境界に発生しているものだという。さらに、それは単に村境、小字界に登場していたのではなく、『古代の条理地割のみを選んで出現している』(P155)のだという。

まず、都市の妖怪の出現地域が北から東南側に偏向している理由について、空間論から考察が行われている。『さまざまな文化に共通する人間の普遍的な空間概念を、人間身体に基づいて想定』(P162)すると以下のようになるという。

『私たちは普遍的に、空間を身体に基づいて分節化し、言語化することで、人間の価値領域に取り込む。その結果として、私たちの身体の上方は価値が増し、下方は価値を失う。同様に前方には未来の明るい展望が開かれており、後方は暗い過去となる。その際、明るい前方とは太陽の光、つまり南を意味することになる。また右がプラスの価値を帯び、対照的に左はマイナスとなる。このように、そもそも漠とした自然としての地表面に、私たち人類が自身の身体を中心に据え、空間を分節化し、方位に価値を付与し、混沌とした世界を秩序立てていったのである。』(P162)

これが本当に普遍性を有しているのかはよくわからないが、少なくともこの空間論を前提とすると、都市の東側は左のマイナスに、北側は後方の暗い過去へと当てはまり、都市の妖怪の出現場所は身体的観念におけるマイナス空間と一致することになるのだと言う。

また言語記号学的アプローチとして、隠喩、換喩、提喩の三つの認識のあり方から妖怪の出現場所を隠喩の世界として考察されている。

人は『外部情報を身体感覚を通して脳に受容』し、『身体を中心に、空間を上・下、左・右、前・後と分節化する』という換喩とよばれる認識判断を行う。一方で内的世界には意味世界が広がっている。頭は重要性の象徴であるとか、足は不浄の象徴であるといった意味世界における象徴記号で認識されることになる(提喩)。身体的知覚によって分節化されて認識された外部世界は言語化されることで内面の意味世界へと向かい、その二つが類似関係として把握されることで、合体することになる。プラスと認識されるものが「上」に喩えられ、マイナスと認識されるものは「下」に喩えられる。天国は上方に、地獄は下方にあると想定される。つまり空想の世界の「天国」は実際の空間認識の「上」と類似関係にあると考えられる。これが隠喩と呼ばれる。

つまり、妖怪という空想の世界の存在が、身体的知覚を通して実際の空間に位置づけられるという過程を辿って、都市のマイナス空間に登場することになる。すなわち妖怪は隠喩の世界に出現する。

『言語学者の瀬戸賢一は「レトリックの宇宙」の中で、隠喩は外の世界で生じた出来事が、内の世界である意味と対峙するとき、従来からあった固定的な意味関係を活性化し、新しい意味を再布置させると同時に、世界を再認識する役割を演じる、とする。特に、時代の変わり目は、新しい隠喩を数多く生む。それによって新しい時代精神や世界観が生まれるのだと。新しい隠喩は、社会が変動するときに生じる。つまり社会が変化するとき、私たちの周囲には、今までの認識では理解できないような、新しい事態が発生する。その新しい外的世界を内的世界と折り合わせ、私たちが何とか認識し解釈する役割を、この隠喩が演じていたのである。』(P165-166)

都市の例とともに挙げられる旧石井町で村境や小字界に怪異現象が集中して起きているという例も、その妖怪の出現箇所が他者との境界を巡る争いや、洪水など災害でたびたび崩壊した境界線であり、妖怪がそこに位置づけられることで、古い禁忌を知らしめる役割を担っていたのだという。

このように、妖怪の出現場所を考察したこの章が興味深いのは当時の妖怪を巡る心理というような民俗学的な視点だけでなく、その考察過程に普遍的な概念を利用していることで、現代社会を考察することにも転用しうるのではないかということだ。

現代人は最早ここに挙げられているような南だとか東だとか方角からプラス・マイナスを認識するということは少ないだろう。では我々の身体的知覚は何をもってプラス・マイナスを判断し、外的世界と内的世界の折り合いをつけようとしているのだろうか。また、認識しうる外的世界はそれこそ全地球規模にまで圧倒的な広がりを見せながら、我々の内的世界はさほどの深みを持っている訳ではない。そのズレは隠喩の世界にどのような影響を与えているのだろうか。

これは世界に統一した支配者を空想する陰謀論の広がりであるとか、敵と味方を峻別する原理主義的な運動の拡大、あるいは世界から遊離して閉じこもる傾向を見せる個人といった様々な現代的現象にも通底する何かを見出すパースペクティブを提供するようにも思う。

現代の常に変動し続ける社会で生きる我々は、何処に異質なもの、排除すべきもの、敵視すべきものとしての「妖怪」を見出しているのか?妖怪が跋扈すると幻視する隠喩の世界を解き明かすことで、現代社会は見えてくるのではないだろうか。自身の身体的知覚の在り様と私の内面に広がる様々な意味世界、そしてその二つが私の中で融合し、言語化されるプロセスに向かい合う必要がありそうだ、とこの論文を読んで思った。

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