ポール・ヴァレリー「独裁という観念」「独裁について」

フランスの作家・詩人ポール・ヴァレリー(一八七一~一九四五)が「独裁という観念」「独裁について」という独裁を論じた二つの小論を書いている。前者は後にエスタド・ノヴォと呼ばれる権威主義的体制を築いたポルトガルの独裁者アントニオ・サラザールを批判した一九三三年に書かれた本の序文として寄稿されたもの、後者は一九三四年に独裁について書かれた本のやはり序文として寄稿されたものである。

「独裁という観念」でヴァレリーは独裁という観念の生成を準備する段階をこう描く。

『考えられるあらゆる政体の下で必ず存在する、存在せずにはいられない濫用・誤用・故障が社会理念の生命原則(すなわち社会理念の信頼度とその力の優位性に対する信念)を変えない限り、世論は色々困惑させられるようなことが起こっても、それほど騒ぐことはない。

(中略)

しかし一般意識の限界値に達して、大方の国民に、「国家」の無策の責任に帰せられるべき問題を考えずには自分たち個々の問題も考えられないという事態にいたることがある。したがって、一般状況が個人生活に大きく影響するほど悪化し、公的事象が出来事に翻弄されているように見え、人々や制度への信頼感が失われて、行政機能や業務実態、法律の適用が好い加減になって、依怙贔屓や因習に流れるようになり、諸党派が争って権力の甘い汁を吸い、低級な利権を貪って、権力が提示する理念的な救済手段には目を向けなくなったとき、――そうした無秩序と混乱の感覚は、それを身に受け、そのような解体からはいかなる利益も引き出すことのない人々の心に、必ずや、正反対の状況を想い描かせ、ほどなく、そういう状況を実現するためにすべきことは何かを喚起することになる。』(P388-389)

正反対の状況、つまり秩序だった社会が形成され、行政や人々への信頼が回復し、有能な指導者によって政治が安定する、という状況を実現するために、すべきことは何か。それが強いリーダーシップを持った指導者の登場である。それは時に独裁的な体制となる。

『独裁が想像裡に描かれるようになるのは、精神が出来事の推移に権威・連続性・統一を認められなくなったときである。反省的意志(の存在)と組織された知識の統御の標識であるその三つのものが認められないと、精神の反応は必然的に(ほとんど本能的に)独裁を思い描くのである。』(P389)

人々はこのような状況で何故独裁を希求するようになるのか、それは身体的知覚が関係する。

『要するに、精神が自分を見失い、――自分の主要な特性である理知的行動様式や混沌や力の浪費に対する嫌悪感を、――政治システムの変動や機能不全の中にもはや見出すことができなくなったとき、精神は必然的にある一つの頭脳の権威が可及的速やかに介入することを、本能的に、希求するのである。なぜなら、様々な知覚、観念、反応、決断の間に明確な照応関係が把握され、組織され、諸事象に納得できる条件や処置を施すことができるのは、頭脳が一つのときだけに限られるからだ。

あらゆる政体、あらゆる政府やこうした精神による判断にさらされる。権力の取る行動あるいは無策が、精神にとってあり得ないようなものに思われ、自らの理性の行使と矛盾するように思われると、たちまち、独裁の観念が姿を現す。』(P390-391)

この記事のひとつ前の記事「妖怪はどこに現われるのか?」で、伝承上の妖怪の出現場所に明確な偏りがあること、その偏りの理由を考察する手法として言語記号学的な手法を紹介したが、ヴァレリーの論はそれと同様の手法である。つまり、人は外部世界を身体的知覚を通して分節化して認識し、内面世界の様々な象徴記号との類似関係で把握され、言語化されることになる。頭脳として手足を統括し、様々な判断を下す頭が重要なものと認識されるように、頂点に立つ指導者が重要視され、強い自我=指導者が希求される。混乱する政府・国家という外部世界と自身の内面に拡がる意味世界とが身体的知覚を通して合流するその結節点に「隠喩(メタファー)としての独裁者」が幻視されるというわけだ。

少しこれを現代社会に引き寄せると、現代のポピュリズムの特徴の一つにストーリーテリングという手法を使う点があると吉田徹「ポピュリズムを考える」にはある。現代のポピュリストはイデオロギーや政策ではなく、マーケティング技術を駆使した情報戦略に基づいて自身と支持者とを重ね合わせるようなストーリー(困難な目標、共通の敵、その先にある夢など)を提示することで国民の支持を集め、文字通り「化身」となる。強いリーダーを求める心理を掬いとり、あるいは煽ることでポピュリストは自身の振る舞いを決定する。往々にして「独裁者」というよりは「独裁的手法」を使う、あるいは「独裁的手法」を主張する政治家となる。現代のポピュリストは人々の心の中で希求せずにはいられない独裁者像を絶妙なさじ加減で具現してみせることで、初めて権力を行使することになる。

ヴァレリーに戻ると、このような独裁という観念の発生の考察に続けて、独裁体制が構築された後の理想や秩序が重視され人間が軽視される傾向や、国民組織が分業形態に集約されていくことなど独裁体制の考察が加えられている。今でも色々示唆に富み一読の価値があると思うので、興味のある人は読んでみると良いと思う。最後に、「独裁について」の結びを紹介して終わりとしておく。敢えて言うことではないが下記の「現代」とは一九三四年のことなのであしからず。

『現代はこれまで魂や記憶、社会習慣や政治・法律の約束事を、自分たちが近年創り出した新しい身体や器官に適応させることができず、知的獲得物と感受性の力で構成された、歴史起源の諸概念や理想と実証的・科学的起源である欲求・連関・条件・急速な変化などの間に、刻一刻、露呈される対照関係や矛盾に困惑しているのである。急速な変化は、あらゆる分野で、現代を不意打ちにし、古い経験を役立たなくする。

現代は自ら経済、政治、道徳、美学、はては宗教――あるいは・・・・・・恐らく論理にいたるまで、新しい形を模索している。成功するかどうか、行きつく先を予見することが不可能な、ただ端緒を示唆するだけの諸々の試行錯誤の中に、独裁の観念、あの名高い≪啓蒙僭主≫のイメージが提示され、ここかしこで、力を得ているのはどうも感心できない。』

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