源頼朝の墓

建久九年(一一九八)一二月二七日、源頼朝は相模川で行われた橋供養からの帰りに体調を崩し、翌建久一〇年(一一九九)一月一三日、五三年の生涯を閉じた。一説には落馬とも呼ばれるが確かではなく、その死因は不明とされている。頼朝は彼が政務を執った大倉幕府の裏手にあたる高台に葬られ、その上に法華堂が建てられた。

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白旗神社(旧法華堂)

白旗神社(旧法華堂)

頼朝の遺骨が埋葬された法華堂跡に建てられた神社。生前、頼朝が乳母からもらった観音像を祀った持仏堂が建てられ、死後はその遺骨が埋葬されて法華堂となった。頼朝の墓所ということで誰も手を出せないことから、頼朝死後の内紛に際してはたびたび一族の避難場所となったが、宝治元年(一二四七)、執権北条氏に対して反旗を翻した三浦一族が立て籠もり、一族と家臣ら五〇〇余名がここで自刃した。明治維新後の廃仏毀釈・神仏分離令によって法華堂は取り壊され、新たに源頼朝を祭神とする白旗神社が建立されて現在に至る。

源頼朝の墓

源頼朝の墓

渋い造りの墓だが、実は作られたのは安永年間(一七七二~八一)のこと。頼朝の子孫を自称する薩摩島津家当主島津重豪によって、頼朝の父源義朝の墓がある勝長寿院の層塔を移設したものという。島津氏は頼朝の御家人として古くから仕えていたが、後世、頼朝の子孫を自称するようになった。頼朝と最初の妻八重姫との間の子で、八重姫の父伊東祐親に三歳で殺害された千鶴丸が実は生き残って長じたのが島津家の開祖島津忠久であるとしたものだが、当然ながらその証拠はない。

二〇一二年二月に酔っぱらった男性により破壊されたが、現在は再建されているという。これを撮影したのは二〇一一年末。

頼朝の墓の裏手には頼朝に仕えて幕府の政務を取り仕切った功臣である大江広元、その子で安芸毛利氏の祖となった毛利季光と薩摩島津家の祖である島津忠久のものとされる墓がある。

伝・大江広元の墓

伝・大江広元の墓

実は文政六年(一八二三)に長州藩によって季光の墓とともに建てられたもので、実際の大江広元の墓の場所は不明のままである。ちなみに隣接する島津忠久の墓も安永年間に頼朝の墓と同時に建てられたもので、その名に比してどれもかなり新しく整備された墓と言えるだろう。島津と毛利という後々手を組むことで明治維新を成し遂げることになる両家の開祖が隣り合って祀られているという点でとても象徴的な場所だが、意外と知られていないようでもある。

頼朝の墓周辺という鎌倉幕府ゆかりの地でありながら、”明治維新”が色濃く前面に現われているというところが非常に面白い。まぁ、普通に史跡を歩いていると、様々な時代の遺物を上書きするように明治維新的なるものが存在感を見せつけてくる、という例は嫌と言うほど体験することではある。その異質さの体験もまた散歩の醍醐味というところかなと。


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