シリア騒乱の遠因となったイラク難民問題

一年以上に渡って混迷が続くシリア騒乱、シリア市民の不満を爆発させるほどに社会を行き詰らせた最大の要因にイラク難民問題がある。

周辺国へのイラク難民はフセイン政権崩壊前、2003年4月時点で21万2000人、難民認定されていないが難民同様の状態にある人々が約45万人であった。この数値は米国のイラク進攻によって爆発的に増大する。戦災によって2007年までにイラク人口の七分の一にあたる400万人のイラク難民が発生し、その大多数である140万人がシリアに流入した。

サウジ、クウェート、イラン、トルコなど周辺諸国が難民流入を嫌って国境を封鎖する中、シリアだけは門戸開放政策を取り、しかもビザなしで積極的に難民受け入れを行っていた。その理由は一つには「汎アラブ主義」に基づくアラブの盟主としての自負が、もう一つには寛容さをアピールすることで国際的孤立を解消したいという意図があった。

2002年2月、米国のブッシュ大統領は北朝鮮、イラク、イランの参加国を「テロ支援国家」として「悪の枢軸」と呼んで世界の敵であることをアピールし、同5月にはその「悪の枢軸」にシリア、リビア、キューバが加えられて、国際的な非難や経済制裁等が加えられることになった。

だが、シリアについて言えば、パレスチナのハマスやレバノンのヒズボラを支援していたことを理由としたとしても、この呼び名ははなはだ不当と言えた。どちらも2000年代以降武力闘争から合法活動にシフトしており、米国のイスラエル重視政策を前提として反イスラエルの両勢力の力を削ぐため、後ろ盾だったシリアを孤立させる目的であった。そして何より、2000年に独裁者であった父ハーフィズ・アル=アサドの後を継いだバッシャール・アル=アサド大統領による腐敗官僚の追放や欧米との関係改善、民主化など「ダマスカスの春」と呼ばれる上からの政治改革の真っ最中であったのだから。

米国が実際に「悪の枢軸」と名指ししたイラクへの軍事行動を実施するに及んで、バッシャールは民主化をあきらめ、体制の引き締め、国内の民主化勢力の弾圧など独裁体制に移行する。とはいえ、元医師で政治家経験の無い彼に代わり、父の時代からの首脳陣がその実権を握っていた。

絶大な権力を振るった父や「悪の枢軸」呼ばわりされてもどこ吹く風の他国の首脳と違い、英国留学経験もある彼にとって欧米からの敵視は耐えきれなかったのだろう。イラク難民を率先して受け入れることで「テロ支援」に関っていないことをアピールし、関係改善に努めようとした。アラブ諸国からは賞賛されたが、欧米諸国はこれを無視し、難民が膨大な数に上ることでシリアが困窮しても、国際組織や民間支援のレベルにとどまった。

2000年以降、バッシャール大統領のイニシアティブで経済自由化政策が進められたが、経済制裁も相まって上手くいかず、スンナ派商人階級とアラウィー派などを中心とする富裕層をさらに富ませるだけに終わり、むしろ国内の経済格差が拡大した。1990年に250万人だった15-24歳の若年層は2010年には460万人にほぼ倍増したにも関らず、それを吸収する雇用が無く、失業率は20%-25%に上る(山内2011 P348)。それにあわせて、140万人のイラク難民である。彼らイラク難民に対してバッシャール大統領は他のシリア国民と同様の公的サービスを受ける権利を与えたから、財政は悪化の一途を辿った。

『シリアは20%の国民が貧困最低線以下の生活をしている貧しい国である。イラク難民増加による人口過多はシリアの脆弱な社会経済基盤を圧迫し,シリア政府の公共サービス供給能力は限界に達している。イラク難民の流入により,シリアのインフレ率は2007年で8 %に上昇し[Central Bureau of Statistics 2007],なかでも賃貸不動産市場は劇的な影響を受け300%も価格が上昇した。また2005年と比べ,ダマスカスにおけるパンの需要が35 %,電気が27 %,水が20%上昇した[IRIN 2007b]。また,2006年はイラク難民への飲料水と衛生サービスの供給だけでもシリア政府に680万ドルのコストがかかったとされている[Forced Migration Review 2007a]。』(酒井 2007)

さらに、『UNHCRによれば,シリアのイラク難民の約27%が女性を筆頭とする家族とされており,現在売春業に従事しているイラク難民女性は5 万人にも上る[The Independent2007a ; The New York Times 2007b]』(酒井 2007)という。雇用の受け皿が無いまま失業者と難民が溢れ、経済格差が拡大し貧困層は増大する一方という一連の状況は、彼らイラク難民に対するシリア国民の反感を呼び、やがてシリアの人々によるイラク難民への暴力へと結びつき、社会を混乱させていった。イラク難民の一部はその後イラクが安定化したことで帰国したが、多くの人々がシリアに残らざるを得なかった。

これに宗派対立が絡む。支配者層であるシーア派は人口の12%、大衆層のスンニ派は60-65%と少数派のシーア派による多数派のスンニ派支配という構図があり(山内 2011 P347)、シーア派が中心のイラク難民への憎悪と国内の支配者層であるシーア派への不満が交錯することで、一層事態を複雑にした。

この社会に充満する不満と不安に対して、支配者層は恐怖政治という手を取り、徹底的に反対派を粛清し、市民に対して抑圧を繰り返すことになった。『2010年のヒューマン・ライツ・ウォッチによれば、アル=アサドが権力を握って以来の10年間で、シリアの人権記録を改善させることに失敗したとされる。』(2011年シリア騒乱 – Wikipedia

そして、2011年3月18日、ダラァでのデモを契機に、市民の怒りが爆発する。これに対してバッシャール・アル=アサド大統領は強権を持って臨む。バッシャールのこの頑なな態度には就任以後10年で蓄積された欧米諸国への失望があるのではないか。国の基盤を揺るがしてまで欧米との和を望んだにも関らず、無視され、ひたすら敵として扱われたことによって芽生えた不信と憎悪が彼を殺戮者に変えているような気がしてならない。

最早一刻も早く無限とも思える暴力の連鎖と殺戮を終結させ、バッシャール・アル=アサドにはその責を取らせる必要がある。だが、今世紀最悪の独裁者にして殺戮者となった男を産んだのは、彼ひとりの資質によるだけではなく、民意によって選ばれた指導者たちによって「われわれの敵」が作られた結果でもある。「我々」は取り返しのつかない事態を引き起こした、と未だ終結の兆しすら見えないシリア情勢の報道を見ながら思う。このような悲劇を生むがゆえに、「敵」を求め、「敵」を作る政治は批判されなければならないのだ。

参考書籍・サイト
・山内昌之著「帝国とナショナリズム (岩波現代文庫)
・酒井 紫帆論文「イラク難民・国内避難民問題
・イラク難民がシリアにもたらすもの – IPS Japan
・国際社会の興味が減少する中、深刻化するイラク難民の窮状に配慮するUNHCR
バッシャール・アル=アサド – Wikipedia
Damascus Spring – Wikipedia, the free encyclopedia(英語)
2011年シリア騒乱 – Wikipedia

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