シリア騒乱を長期化させるトルコvsイランvsサウジの対立の構図

承前「シリア騒乱の遠因となったイラク難民問題

2011年3月のデモに端を発する民主化勢力と政府との武力衝突が一年以上に渡って続き、泥沼の様相を呈するシリア騒乱。それを長期化させた要因に中東諸国の覇権争いがある。山内昌之「帝国とナショナリズム」の最終章でシリアを巡るトルコ、イラン、サウジ及び諸国の対立構造が整理されているので、それに沿って簡単にまとめ。

2003年の多国籍軍によるイラク進攻以降、中東はイスラエルの庇護者としてのアメリカの影響力を背景としたエジプト・サウジなどの穏健派連合とイラン・シリアの戦略的同盟を中心とする急進派勢力という二つの勢力の対立によって均衡していた。しかしオバマ政権誕生後、米軍が2011年末までのイラクからの全軍撤退を発表したことで、アメリカの軍事力を背景とした求心力が低下し、同時に「アラブの春」と呼ばれる一連の民衆運動が勃発、地中海沿岸からペルシア湾沿岸への戦略的重要性の移行、イラン国内の政争激化と外交の行き詰まり、トルコが中東重視外交にシフトしたことなどの要因によって、この中東の勢力バランスが大きく変動することになった。

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1)イランの「大イラン勢力圏」構想

欧米との関係改善など西欧社会に接近し国際協調主義を取るムハンマド・ハタミ政権であったが、2002年にブッシュ政権が一方的に「悪の枢軸」として名指ししたことでその求心力を失い、経済制裁によってイラン経済の立て直しにも失敗することで、2005年、大統領選で敗北する。代わって大統領に当選したのは米国との対決姿勢を強調するマフムード・アフマディネジャドであった。

ポピュリズム的手法でテヘラン市長から下馬評を覆して大統領職を掴みとったアフマディネジャドは確固とした支持基盤を持たないため、常に改革者・強いリーダーとして振る舞うことで国民の支持を得続ける必要があった。国内にあっては既得権益化した宗教者・軍の利権構造の打破を訴えて最高指導者ハメネイ師、革命防衛隊(軍部)と三つ巴の政争を展開しており、腹心の官房長官マシャイとともに世俗化改革を進めようとしている。

対外的には国際社会から孤立することで『イラクとシリアと南レバノンを押えて、湾岸から地中海につながる「シーア派ベルト地帯」にアケメネス朝やササン朝を思わせる「大イラン勢力圏」をつくろうとする』(P359)という覇権主義的外交を進めるようになった。特に国内の政争が三すくみ状態となり、経済的にも停滞する中内政の失点を外交的成功で回復しようとする傾向が強まっている。

このようなイランにとってシリアのアサド政権は最重要のパートナーである。2004年以降軍高官レベルの年次会合が行われ、『シリアに年間五億ドルのパッケージ援助』(P360)を行うことでソ連解体後のシリアの後ろ盾として振る舞っている。シリアを従属国とすることでシリアの隣国レバノンのヒズボラへの影響力を確保し、スンナ派諸国による反シーア派・反イラン・ブロックの牽制を企図している。ゆえに、アサド政権の崩壊はイラン外交の崩壊を意味するため、何が何でも阻止しなければならない最重要の外交課題となっている。

2)トルコの「新オスマン外交」

トルコ共和国は国父ケマル・アタテュルクによる建国以来西欧型民主国家の建設に邁進してきた。そんなトルコによってEU加盟は国を挙げての悲願であった。1963年にEECの準加盟国となり、1987年と1997年の二度にわたってEU加盟申請が拒否された末、1999年にやっと加盟候補国として承認される。だが、2001年9月11日の米国同時多発テロ以降状況が一変する。欧州諸国にイスラムフォビアが広がり、オーストリア、フランス、ドイツなど主要国の間で民意を反映してトルコ加盟を敬遠する動きが表面化した。

2003年にトルコ首相となったレジェップ・タイイップ・エルドアンはEU加盟が遠のいた情勢を踏まえて、中東重視外交に軸足を移す。トルコは『カスピ海から北アフリカ、バルカンからホルムズ海峡まで』(P365)を射程に入れて影響力を確保していく新戦略「新オスマン外交」を活発化させた。基本的に隣国の体制は現状維持を支持する「ゼロ・プロブレム」を唱えて中東の独裁者たちに寛容な姿勢を取りつつ、イラク、シリア、エジプトなどに影響力を行使していくことで地域大国を目指すもので、イランの「大イラン勢力圏」構想と正面から対立する。

「アラブの春」に際してはチュニジアやエジプトの変革に対しては市民側に理解を示し、リビアに対してはNATOの攻撃を支持、シリア騒乱に対しても住民側に立ちつつ、シリア政権側に抑圧しないよう呼びかけた。それぞれの新政権に対してトルコ型民主主義体制の輸出によって影響力を確保しようとするもので、「アラブの春」へ「トルコの夢」をプッシュしようとしている。

また、「新オスマン外交」と呼ばれるゆえんとして、北アフリカ、バルカン、中東などの旧オスマン帝国支配下の諸地域に対する投資額が一千億ドルに及び、バルカン諸国やシリアに対しては最大の投資国になっている。ゆえにシリアの反政府勢力を支持しつつも、アサド政権の維持を前提として段階的に民主化することを望んでおり、シリア騒乱の勃発以降、イランとトルコは両者ともアサド政権の維持を前提としたイニシアチブ争いを繰り広げている。

3)サウジの「イラン封じ込め」戦略

「アラブの春」に際してサウジアラビアは同じ君主制国家六か国(クウェート、サウジアラビア、バーレーン、カタール、アラブ首長国連邦)からなるペルシア湾岸協力会議(GCC)との共同歩調を取った。GCC加盟国への民主化運動の波及阻止、君主制堅持を基本姿勢とする。GCC諸国の混乱はペルシア湾の安全保障と密接にリンクしているため、それを防止することが最優先課題となる。そのような中で、2011年2月、GCCの一国バーレーンで王制廃止などを訴える民主化運動が勃発する。

バーレーンはペルシア湾のバーレーン島を中心に33の島からなる王政をとる国家である。国民のおよそ70%がシーア派で、王家ハリーファ家を始め少数派のスンニ派が支配者層を占めていた。バーレーンは1975年の議会停止以降2002年まで絶対君主制、2002年以降立憲君主制を取っており、かねてからシーア派の反政府活動・民主化運動が盛んであった。

2011年2月4日、バーレーン市民がエジプトの反政府デモに呼応して反政府デモを開始。最大野党のシーア派政党「ウィハーク」などを始め諸勢力が王制廃止を訴えはじめ、デモが過激化、2月18日には治安部隊が投入されて武力鎮圧が開始され、それに対して市民も抵抗活動を行うようになる。このシーア派反政府デモの後ろ盾となっていたのがイランであった。

バーレーン騒乱の過激化による君主制の危機とイランの勢力拡大を怖れたGCCは3月14日、サウジアラビア軍、UAE警察軍などから構成されるGCC連合軍をバーレーンに進駐させ、反政府勢力の排除を開始する。3月15日、非常事態宣言が発令、3月中に死者30人を出して民主化運動は鎮圧された。外部勢力の軍事介入による民主化運動の弾圧という異常事態であったが、米国はこれを黙殺した。バーレーンが米国第五艦隊司令部の所在地であり、同国の混乱とイランのペルシア湾への伸長が望ましくなかったからだ。

このバーレーンの君主制打倒(シーア派による民主化)失敗がイランのアフマディネジャド政権にとっては大きな外交的失点となり、シリアのアサド政権堅持をイランにとって最重要課題とさせた。

GCCは2011年5月にはGCCにあらたにヨルダン、モロッコの二つの君主国を加盟させてGCC強化を図り、民主化運動の波及を食い止めるべく画策する。イエメンのサレハ大統領退陣のレールを敷き、アラブ連盟をリードしてリビアに飛行禁止区域を設定することでリビア政府軍の行動を掣肘するなど不安定化の解消の目途が立たない非GCCの国々については早期解決を図ることで、波及することを回避した。と同時にこれら君主国の体制堅持はイランがペルシア湾に対して勢力拡大をしようとする意図を防ぐ「イラン封じ込め」の目的が大きかった。

サウジ及びGCC諸国にとっては、イランの伸長は防ぎたいが、シリアの政権が倒れることで民主運動の波が再び押し寄せることもまた怖れており、現状維持が望ましいと考えていた。そのサウジの意図を汲んでイランもバーレーン介入の失敗などを受けて2011年7月に湾岸諸国に譲歩する姿勢を示している。

『サーレヒー外相は、イランとサウジアラビアとの関係は問題がなく、重要な地域大国として国際的にも影響力が大きいサウジアラビアとの対立も「解釈と分析の違い」にすぎないと弁解した。バーレーンについては、その主権と独立を尊重する政策に変わりなく、この国の平和と安定と安全保障を尊重すると公言した。』(P360)

それまでの流れを踏まえると、湾岸諸国には手を出さないのでシリアを下さい、という意図とも取れる。少なくともサウジにとってはシリア問題への介入は利が無く2011年3月の時点でアサド政権の支持と民主化運動に対する非難を表明して以降積極的に動くことは無かった。イランとサウジという二大国の利害の一致と妥協の産物として、シリアの混乱が放置されることになったと言える。

4)ロシア、イスラエルの動向

ロシアとしてはソ連時代からシリアは武器輸出の最大の顧客であると同時にシリアのタルトゥス港に軍艦基地の建設計画があるなど中東に対する影響力を行使するための橋頭堡としての役割が大きい。また、シリアでのスンナ派市民による民主化運動によってイスラーム勢力が興隆することで、チェチェンなど北カフカースのスンナ派国家で反ロシア機運が高まる可能性を警戒している。

イスラエルにとってシリアは御しやすい敵国であった。シリアはイスラエルを仮想敵国としつつも『イスラエルとの戦争を四十年ほども巧みに避ける一方、対イスラエル戦争の危機や不可避性を煽り立てながら独裁政治の「塹壕」に立て籠もってきた国』(P346)で、予測可能な対応をする隣国であり、予測不可能な勢力に政権が変わるぐらいならアサド政権の維持の方が望ましかった。むしろシリアが支援するレバノンのヒズボラや、イランの勢力拡大、地域大国を目指してイスラエルに敵対的姿勢を顕わにし始めたトルコなどの方が脅威といえた。

5)袋小路に陥ったシリア問題

以上が2011年末までのシリア騒乱を中心にした中東諸国の動向で、覇権主義を取るイラン、中東に軸足を移すトルコ、イラン包囲網を取るサウジという三大国の対立がシリアの政権を延命させ、紛争を泥沼化させる外部要因となっていると言えるだろう。

そしてこれらの動向を踏まえて考えるなら、シリア騒乱をどこに着地させるか、その落とし方次第では失点を重ねたイランのアフマネディジャド政権が危機的状況に陥り、イランだけでなく中東全体を不安定化する可能性を孕んでいると思う。例えばアサド政権が崩壊したことで外交的に追い詰められたアフマディネジャド政権(またはアフマディネジャドが失脚し軍部が台頭する)が軍事的冒険(イスラエルかペルシア湾か)に出る、というシナリオはありえないことではない。特にペルシア湾岸諸国の不安定化はダイレクトに世界経済を痛撃する。またアサド政権が弱体化することでシリアの保有する化学兵器が流出し反イスラエル勢力の手に渡る可能性も指摘されている。ゆえにシリアが内戦状態に陥り、市民が日々殺戮されながらなお、シリア政府の権力を温存する前提でソフトランディングさせる道が探られているのだろう。

ここ10年の国際社会の反省点として、シリアやイランといった非民主的体制をとる諸国を国際社会は追い詰め過ぎたのではないか。それらの国々が世界の安全保障を脅かす可能性が少なからずあったかもしれないが、その存在を「敵」として認定し、孤立させたことで、彼らは生き残りを掛けて最も危険な道を突き進まざるを得なくなった。その帰結として、一国の紛争が世界を揺るがしかねないほどの危機をもたらし、世界に非常に困難な綱渡りを強いることになっている。そして、出口の見えない袋小路の中で、今日も市民の命が奪われ続けている。

参考書籍・サイト
・山内 昌之著「帝国とナショナリズム (岩波現代文庫)」(P341-378)
・内藤 正典著「イスラーム戦争の時代―暴力の連鎖をどう解くか (NHKブックス)」(P152-191)
2011年シリア騒乱 – Wikipedia
2011年バーレーン騒乱 – Wikipedia
マフムード・アフマディーネジャード – Wikipedia

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