徴兵制推進論と「想像の共同体」化する「世代」

断続的に話題になる徴兵制だが、実際施行されたら武器の扱いや格闘術に練達した若者が社会に溢れる訳だけど、おそらく兵役に就かないであろう徴兵制を主張する主に年配の、社会的地位が比較的高い人たちは、果たしてその現実に冷静でいられるだろうか。彼らは自身よりはるかに高い戦闘能力を持った「キレる若者」にいつ襲われるかという猜疑心に支配され、拭うことのできない不安な日々を送ることになる。

問題は若者の軟弱さにではなく、自身が抱く「若者」という想像上の集団に対する不信であろうから、徴兵制を声高に叫ぶことで自身のその不安から目を背けるのではなく、正面から向き合わない限りその不安は増大する一方だろう。まぁ、そんな自己の客観視が簡単に出来るのならばだれも苦労はしないだろうし、徴兵制を主張するまでには、その弱さを覆い隠すため幾重にも自己確信に到る「正しい情報」を積み重ね、自己の価値観を無謬なものにまで肥大化させているのだろうから。

むしろその矛先が向かう「若者」という想像上の集団を、実際の世代へと無理やり当てはめようとする試みにこそ大きな問題が孕んでいると思う。統計上の区分とかは色々あるだろうが、「若者」というくくりはかなり曖昧で、概ね批判的文脈で誰かが「若者」と言えば「若者」であると規定されるような形の無さがある。にも関らず、誰かが自分のことを「若者」だと、彼らが攻撃の矛先を向けているのは自分だと認識するようになると、そこに想像上の集団であったはずの「若者」が具現化し、「若者」たちはその批判に対する抵抗を始めざるを得なくなる。

それは「ユダヤ人」の形成過程とどこか重なりあうようにも見える。一九世紀欧州のユダヤ人は言語的にも文化的にも宗教的にも周囲の多数派と同化した生活を送っていたが、周囲の多数派が主に差別や迫害を理由として「あいつはユダヤ人だ」と名指しすることで、「ユダヤ人」を意識させられる。『「本来の意味でいえばもはやユダヤ人でなくなりつつあるはずだが、それでも他者からユダヤ人とみなされ、そのことを本人も意識することで、ある種のユダヤ性を帯びる人々」という入り組んだ自己意識』(塩川P61)がユダヤ人という民族集団を形成させることになった。

ひとたび「ユダヤ人」が形成されると、その安寧の地を求めて「イスラエル」という約束の地が想像される。その純粋なユダヤ人だけのパラダイスを現実のものとするため「パレスチナ人」の排除に乗り出し、イスラエルが建国される。「イスラエル」を「日本」に、「パレスチナ人」を「在日」に、あるいは「イスラエル」を「社会的地位」に、「パレスチナ人」を「老害・団塊」に、など置き換えてみるとなんとも言えない照応関係が見え隠れする。

憎悪を浴びることで形作られた社会集団は、その憎悪を向ける対象を新たに想像することでアイデンティティを保とうとするのかもしれないが、ともかく既得権益層などの社会的上層であるとか、マージナルな層などにある人々を新たに安寧を脅かす想像上の外部集団として創出することは歴史上少なくない。特に高齢者層があたかも諸悪の根源であるかのようなイメージは少なからず蔓延しているが、「若者」を憎む人々と同じように「老害」という想像上の集団に対する不信がその根源にあるのだろう。

最近感じるのは、このような「若者」に対する敵意や、「老害」などという言葉に代表されるような年配層に特定の名称をつけて怒りを表したりしつつ、<われわれ>を意識する現象があるような感覚だ。「世代」がまるで「想像の共同体」と化しているかのような。

歴史学者ベネディクト・アンダーソンは「国民」(ネーション)という概念が近代に創造された虚構の人造物「イメージとして心に描かれた想像の政治共同体である」(B.アンダーソンP24)とした。一度も会ったことも無いにも関わらず同胞であることを意識し、その共同体は他者と明確に限られたものであり、政治的主体性を持つとされる。「国民のなかにはたとえ現実には不平等と搾取があるにせよ、国民は、常に、水平的な深い同志愛として心に思い描かれる」(B.アンダーソンP26)ことになる。

古代の石版から「最近の若い者は・・・」という言葉がみつかったうんぬんという笑い話もあるように、たぶん「世代」というのは常に<われわれ>として語られてきた言葉なのだろうと思う。輝かしい過去を共有したという懐古、ともに歩んだ郷愁、そういったノスタルジーを纏いつつ、「同世代」であればより強い親近感を覚える。他の「世代」に対して自身が帰属する「世代」を代表して意見、あるいは「社会」で上位にある「世代」であれば下位の「世代」を教育するということもこれまで頻繁に行われてきただろう。いわば「世代」は社会を構成する一集団であった。

しかし、そのような「世間」「社会」という枠組みの中で緩やかに繋がりあった旧来の意味での「世代」ではなく、その境界線が憎悪でもって引かれることで成立する「世代」が登場しているのではないだろうか。

うろ覚えなのだが、社会学者のどなたか、確か小熊英二氏だったか、日本の社会は世代が欧州における民族の役割として機能していたといった趣旨のことを書いておられたように記憶している。経済が行き詰り、社会の流動性が失われていく中で、「世代」は統計上の意味ではなく、虚構の「想像の共同体」として機能しつつあるのではないか、という若干パラノイアックな疑念を抱いている。であるならば、文化戦争や民族紛争とまではいかずとも社会を深刻に分断する対立は最早対岸の火事ではない、と、徴兵制の是非などという実に馬鹿馬鹿しい議論の奥に潜むであろう心性を考えつつ、思う。

参考書籍
・塩川 伸明 「民族とネイション―ナショナリズムという難問 (岩波新書)
・ヤコヴ・M.ラブキン 「イスラエルとは何か (平凡社新書)
・ベネディクト・アンダーソン「定本想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 (社会科学の冒険 2-4)
・橋本 健二 「「格差」の戦後史–階級社会 日本の履歴書 (河出ブックス)

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