幕末明治、日本の鉄道のはじまりについてのお話

日本と鉄道との出会いは嘉永六年(一八五三)七月一八日、ロシアのプチャーチン中将が長崎に来航したときに遡る。このときプチャーチンは上陸出来ず追い払われることになるが、軍艦上で長崎奉行所の役人であった佐賀藩士たちと面会した際、士官室のテーブルをぐるぐるとまわる蒸気機関車の模型を見せている。これを目にした佐賀藩士たちはよほど驚いたらしく、この蒸気機関車の模型を記憶だけを頼りに見よう見まねで一年がかりで作ってしまった。きちんとアルコール燃料を蒸気で吐き貨車を引いて走ったらしい。この模型は藩主鍋島候の御前で披露され、藩校弘道館の若き学生たちにも見学が許された。その学生の中に、当時一六歳になったばかりの大隈重信がいた。後に彼は明治新政府で鉄道の採用を強力に推し進めることになる。

嘉永七年(一八五四)、プチャーチン中将と入れ替わりで、一年ぶりに日本に再訪したペリー提督も、鉄道模型をもっていた。同年二月十五日、ペリー提督は幕府に大統領からの贈り物を届け、その中に蒸気車と客車の模型があったという。『長さ八尺(二・四メートル)、客車は同一〇尺五寸(三・二メートル)で、線路幅は一尺八寸一分四厘(五五センチ)』(林P36)とかなり大きなもので、線路の長さは百メートルにも及び、横浜村に開設された応接所の裏手にある麦畑に設置され幕府関係者や村人たちにも公開された。五月には江戸城にて将軍家定ら幕臣・諸侯の前で実演されたという。

幕末に日本を訪れた黒船に代表される英米仏など列強諸国の目的の一つに鉄道技術の売り込みがあった。鉄道の輸出は大量の物資やシステムの導入が必要となるため輸出側に多額の利益をもたらすことになり、諸国とも日本に対して熱心に売り込みを行っていた。フランスは勘定奉行小栗忠順宛に鉄道建設の建白書を提出していたが幕府の消滅によって立ち消えになり、アメリカは幕府の外国事務総裁小笠原長行から横浜-江戸間に鉄道敷設の免許を受けていたが米資本で全て運営する計画であったため鉄道が治外法権になる可能性を危惧した明治新政府がこれを蹴って無効とし、最終的にイギリスが明治政府に技術供与を行い全て官営で行うという計画で落ち着いた。

明治新政府樹立から間もない明治二年(一八六九)一二月一二日、鉄道敷設が決定されるが、予算金五〇万両という大規模事業であるため反対意見も根強く特に西郷隆盛ら軍部がまず目前の兵力の整備を重視する観点から強く反対していた。いつ財政破綻してもおかしくない脆弱な体制でまず鉄道という大規模な費用がかかるインフラ整備に乗り出す決断は、先行き不透明な状況では冒険と言っていい。民衆の間でも鉄道反対の暴動や建設中のレールなどの破壊活動が頻繁に起きたという。現代で言えば巨額の財政赤字を抱えた現状で福祉予算削って国債発行して増税して総力上げて宇宙ステーションや宇宙エレベーターなどを建設します、国民の生活が犠牲になるのはしょうがないです、とか言い出したぐらいのイメージだろうか。確かに究極の選択であって、明治政府は設立当初から冷徹とすら言えるほどに民政は二の次にしてひたすら上からの近代化に邁進していた。結果として鉄道網が日本の近代化に貢献した面は多大で、ほぼ日本のその後の成長を方向付けたと言っても過言では無いが、それは多くの民衆の生活を犠牲にして成り立ったもので、当時でないと出来ない決断であっただろう。

明治三年(一八七〇)、イギリスから二八歳の若手鉄道技術者エドモンド・モレルが派遣されて鉄道敷設計画が立案され、それに基づいて新橋~横浜間の鉄道建設が開始される。工部省内に新設された鉄道頭のポストには長州藩士であった若干二八歳の井上勝が就く。後に日本鉄道の父と呼ばれることになる青年は自ら現場指揮に立ち、そのわずか二年後明治五年(一八七二)九月一二日、新橋~横浜間の路線開設にこぎつけ、その後も次々と各地に鉄道路線を建設していった。

明治一五年ごろには外国人技術者の力を借りず日本人だけで鉄道建設が可能になっていた。この鉄道建設には幕末にお台場建設に力を発揮した人夫たちが力を発揮した。請負師の山中鉄五郎、梅田半之助とその配下で後に明治を代表する鉄道土木集団杉井組を起こす杉井定吉、鉄道土木の父と呼ばれ横浜市旧高島町の町名に名を残す高島嘉右衛門、現在の鹿島グループの祖となる鹿島岩蔵、後に大林組を創業し東京駅を完成させる大林芳五郎らが頭角を現した。

当初官営で行っていた鉄道事業は財政上の問題から官営だけで行うことは出来なくなり私鉄が登場する。明治一五年(一八八二)に着工した上野~高崎間は工部省主導で工事が行われ、経営を民間の日本鉄道会社が行うという日本最初の私鉄となった。日本鉄道会社は後に赤羽から板橋・新宿・渋谷を経由して品川へと至る路線を着工させ、それは後に山手線として東京の周囲を循環する鉄道路線へと発展していく。

このようにして整備されはじめた鉄道はやがて物流や交通インフラとして、都市基盤として日本の社会構造を大きく変えていくことになるのだった。

参考書籍

東京駅はこうして誕生した (ウェッジ選書)
林 章
ウェッジ
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