8月29日は廃藩置県の日なので廃藩置県まとめ

慶応四年閏四月二一日(一八六八年六月一一日)、徳川幕府の直轄地のうち城代・京都所司代・奉行支配地を「府」、それ以外の直轄地を「県」、大名の支配地を「藩」とする「府藩県三知制」が発表され、諸藩の力に依拠した新体制が発足、この「府藩県三知制」の確立が当面の新政府の目標となった。ちなみに大名の支配地を公式に「藩」と呼ぶようになったのはこのときからである。

戊辰戦争終結後の明治二年六月一七日(一八六九年七月二五日)、かねてから議論が行われていた郡県制導入に向けて「版籍奉還」が実施された。王政復古の精神に基づき大名の領地・領民を天皇に奉還し、旧大名は華族に列せられた上で非世襲の「知藩事」として天皇に任命されて藩政を司る。急激な郡県制導入ではなく漸進的な郡県封建併用制が取られ、藩の枠組みを残しつつ旧大名の領有権は否定される折衷的なものとなったが、ここに制度上「府藩県三治制」が確立した。

そもそも明治新政府は何ら政権基盤を持たない脆弱な政府であったから、自ずと諸藩に依拠した体制の維持を前提としており、他方で列強に伍し独立を維持するために急速に中央集権化を成し遂げなければならない命題を抱える。そこで『藩体制を維持しながら中央集権化を進めるという、矛盾した困難な途が模索』(勝田P218)され、その結果として生まれたのが「府藩県三治制」であった。廃藩置県は当初の構想には無く、藩体制を基盤とした中央集権化が明治新政府の大方針であった。

ところが、幕末の戦乱から戊辰戦争までの一連の維新の動乱の費用は各藩の財政に重くのしかかり、明治二年以降の東北を中心とした東日本全域に渡る凶作がそれに拍車をかけた。結果各藩とも財政は著しく逼迫し武士の帰農や財政改革の失敗などを経て廃藩を申し出る藩が続出するほどだった。一方で政府も困窮しており、より中央集権化を進める以外の道が無く「府藩県三治制」のさらなる徹底のため、明治三年九月一〇日(一八七〇年一〇月四日)、職制の統一、中央政府による藩財政の統制強化、そして軍事費供出義務化などが定められた「藩制」が施行される。

この「藩制」の中の藩歳入の四・五%(原案段階で九%)を軍事費として上納するとされた海軍費上納問題が薩摩・長州・土佐をはじめとする各藩から多大な反発を受けることになる。シビアな藩財政改革を求めるこの方針はその最大の影響を受ける下級士族の不満を爆発させ各地で反乱や兵の脱退騒動が頻発、さらに薩摩藩によるクーデターのうわさが流れるなど不穏な空気が流れ始めていた。

明治三年一一月、岩倉具視、大久保利通、木戸孝允の三名によって薩長両藩が明治政府を「藩力」をもって支える方針を確認し、明治政府は薩長の力に依存する体制に移行、一二月には岩倉具視が薩長両藩を訪れて島津久光、毛利敬親両者に協力を仰ぎ、その際に受けた西郷隆盛の進言により土佐を含める三藩提携を模索するため、翌明治四年一月、高知の板垣退助、福岡孝弟を訪れて薩長土三藩による「府藩県三治制」の徹底による中央集権化という政府強化方針が定められた。これに基づいて当時頻発していた武力反乱鎮圧のため明治政府初の常備軍「御親兵」を三藩の兵力によって創設することが決定され、同六月末までに三藩から計八〇〇〇の兵が東京に到着。これが後の廃藩置県の際の武力的後ろ盾として機能することになる。

三藩合意に基づいた政府強化の改革だが、それぞれ様々な思惑が入り混じり混迷することになる。岩倉具視は薩長土三藩に維新政権の誕生に貢献した名古屋・福井・肥前藩を加えた六藩に国事を諮詢する大藩会議構想を提言、政府の支持基盤拡大を模索する。その頃、大久保利通は政府組織改革に着手しつつあった。具体的には大納言、参議の廃止と左・右大臣職の設置で、左・右大臣二人に権限を集中、参議の廃止によって各省長官が事務だけでなく政治にも参画することとなり、『左・右大臣(三条・岩倉)のもと、財政・軍事・民政・司法のすべての行政を、太政に参与する各省長官が統一的に実施する』(勝田P144)という行政権優位の非常に強い中央集権策だった。

この大久保案に対して木戸孝允、井上馨が反対する。大久保案では各省の権限が強くなりすぎて統制が取れなくなり政府の一体性が損なわれる可能性が高い、と。木戸は『大納言と参議を廃止するのではなく、むしろ両者を一体として立法官としての地位を明確にし、行政権を持つ各省とともに政治を行う』(勝田P145)という新政府における弱体な立法権の拡充を図ることで立法権と行政権の両立を目指すという相互牽制を重視した案を説く。また当時土佐大参事で中央にはいなかった板垣退助はむしろ諸藩会議を開設してその「議院」で政策を決定する中央集権と正反対の諸藩連合政権案を持っていたが、これは木戸・大久保から退けられる。

西郷隆盛は制度・機構改革を重視する大久保案に対して、大久保、木戸の方針対立が先鋭化して改革が停滞していた状況を踏まえ、彼は木戸の単独参議就任による政府首脳一元化を主張する。西郷は大久保を訪ね『政治の統一は「根本」が一つになっていなくては、できないものである。そこで「根本」を一つにするために、木戸孝允一人を押し立てて、他の者は彼に協力するようにすべきである。』(勝田P146)と説いたという。西郷の説得で大久保も木戸擁立案に同意し、西郷は板垣、井上、山縣らの同意も得て木戸擁立に動いたが、当の木戸は政体改革構想の違いと、結局大久保案の実施という汚れ役を背負わされるだけではないかという危惧からこれを固辞した。

木戸の頑なな態度に、大久保は木戸とともに西郷の同時参議就任を提案する。あわせて自身の改革案を大幅修正して大納言・参議の残存、各省官員の大規模削減を申し出る。この譲歩に木戸も折れ、明治四年六月二四日、前参議・各省首脳部が全員罷免され、西郷・木戸両名が新たに参議に就任、西郷・木戸連立政権が誕生することになった。

制度・機構改革の先送りと西郷・木戸への権限集中で政府瓦解の危機をひとまず乗り越えたが、この連立政権はすぐに機能不全に陥ることになった。各省人事で議論が紛糾して木戸派と西郷派の対立に発展し、木戸の主導で設けられた政体改革を検討する制度取調会議は議論が百出してまとまらず、肝心の大久保が不参加で、西郷も会議の悠長さに不信を覚えて欠席しがちになり政権発足から一ヶ月と経たずに連立政権の運営は暗礁に乗り上げる。三藩提携すら形骸化しつつあり、各地で反乱が頻発する中、中央は政争と権力空洞化に見舞われて政権瓦解の危機が再燃する。

このような状況で浮上したのが「廃藩置県」論であった。すでに名古屋・徳島・鳥取藩などが廃藩の建白を提出するなど一部の藩で議論の俎上に上っていたものの、その具体的内容の相違や急進性から進展はほとんど無かったが、明治政権崩壊を目前にした状況が一気にそれを推し進めることになった。

明治四年七月四日(一八七一年八月一九日)、山縣有朋邸を長州藩士鳥尾小弥太、野村靖が訪れ酒を飲みながら時事を語り、その中で廃藩置県を山縣に提案したという。鳥尾、野村はともに兵員改革に従事した経験を持ち現在は在野にあったことから軍事面での中央集権化の必要性を痛感していたと考えられる。山縣の同意を受け、翌五日、鳥尾と野村は井上馨を訪問、差し違える覚悟で迫る二人に大蔵官僚であった井上も財政健全化の立場から廃藩置県に同意する。井上はその足で木戸孝允を訪れて廃藩置県への同意を取り付けた。一方山縣も西郷隆盛を訪ねて廃藩置県を提案、すると西郷は「夫れは宜しかろう」と即座に同意し、あまりに早い決断に提案した山縣の方が驚いたという。翌六日、西郷は大久保を訪ねて廃藩置県を伝え、大久保もこれに同意した。このときの大久保利通の日記の一文はあまりにも有名である。

『篤と熟考今日のままにして瓦解せんよりは寧ろ大英断に出て瓦解いたしからん』

七月九日(八月二四日)、木戸孝允邸に木戸孝允、山縣有朋、井上馨、大久保利通、西郷隆盛、西郷従道、大山巌の七人が集まり、軍事力を背景とした廃藩の断行が決定、旧大名である知藩事は東京に集められて華族となり、藩は県に変更、中央からあらたに県令が派遣される、藩の借金は藩財政も含めて政府に一元化されるなどの方針が定められた。七月一二日(八月二七日)、左・右大臣である三条実美、岩倉具視と板垣退助、大隈重信に廃藩置県断行が通告されるとともに天皇に上奏され、廃藩置県の実施が正式に決定される。岩倉は「意外の大変革」と驚いたという。

七月一四日(八月二九日)午前一〇時、長州、薩摩、肥前、土佐の知藩事四人(土佐は代理の板垣退助)が集められて天皇自ら廃藩置県が伝えられ、ついでかねてから廃藩を建白していた名古屋、熊本、鳥取、徳島四藩の知藩事が呼び出され同様に天皇が自ら伝えた。午後二時、在京知藩事五六名が皇居に集められ、明治天皇の前で右大臣三条実美が廃藩置県の詔書を読み上げる。これによって、徳川幕藩体制の基礎となっていた封建制度の枠組みが完全に崩壊することとなった。

廃藩置県に対する諸侯の反乱を警戒して西郷・山縣らが臨戦態勢にあったが幸運にも武力反乱は起こらなかった。勝田によると第一に、すでに版籍奉還で天皇から委任されるという形式になっていたため大義名分が立たないこと、第二に薩長土三藩による御親兵という軍事力の抑止、第三に華族への転身や借金を政府が受け入れ、家禄も保障される等知藩事と士族に対する優遇策、第四に知藩事自らが家臣団の反乱をしないよう説得したことなどが反乱がおこらなかった要因として挙げられる。

廃藩置県後の七月一九日(九月三日)、新体制が発足する。太政大臣、納言、参議で構成される立法行政司法三権の最高決定権を持つ「正院」、「正院」に採否の権限があるものの、諸立法を議し、議員の多数決によって議事を決定する「左院」、各省庁長官と次官で構成され、各省法案や行政上の利害を審議し、「正院」に提出してその決裁を仰ぐ「右院」の三院からなる「太政官三院制」が確立、明治一八年(一八八五年)の内閣制度発足まで続くことになる。明治中央集権国家の基礎的な体制が誕生した。

■正院
太政大臣:三条実美
右大臣:岩倉具視
左大臣:(欠員)
参議:木戸孝允、西郷隆盛、板垣退助、大隈重信
■左院
議長:後藤象二郎
副議長:江藤新平
■右院
大蔵卿:大久保利通
外務卿:副島種臣
文部卿:大木喬任
宮内卿:徳大寺実則
以下長官(卿)欠員、次官(大輔)のみ
神祇大輔:福羽美静
兵部大輔:山縣有朋
司法大輔:佐佐木高行
工部大輔:伊藤博文

この新体制発足とともに大蔵大輔井上馨主導で民部省の大蔵省への合併が行われ、財政、勧業(殖産興業)、地方行政分野まで担当する巨大官庁大蔵省が誕生した。大蔵卿大久保利通は正院に参加していないにも関わらず国内行政の大部分を担うという権力の二重構造が生まれることになり、後に政府の分裂と大久保利通の独裁体制をもたらすことになる。佐佐木高行ら政権要人も大蔵省の巨大さを警戒する発言をしているが、果たしてその危惧通りの展開を辿っていくことになった。

明治四年九月二日、大久保利通・井上馨連名で三府三〇二県は三府七二県に統合が発表され、以後明治二二年に三府四三県になるまで統廃合を繰り返しつつ、現在の都道府県の政の枠組みが作り上げられていった。

廃藩置県は急激な明治国家の中央集権化をもたらして様々な近代化改革の基礎となり、海外列強と肩を並べる強国を作る原動力となったが、急激過ぎた諸施策のひずみは士族の反乱や農民暴動、格差の拡大などとなって社会を混乱させ、また大蔵省をはじめとして肥大化した官僚機構が正院の統制下を外れて各省庁割拠状態になり、やがて西郷や板垣など中枢の要人が政争を経て政権を離れ、大久保利通独裁体制を生み出していく。

その先にあるのは弱い内閣、肥大化した官僚機構、従属する司法、いざというときに歯止めのきかない構造的欠陥を抱えた明治憲法体制で、その修正は何度も試みられながら、失敗を繰り返して、廃藩置県から半世紀余り経った二〇世紀前半、日本を極限まで追い詰めることになる。廃藩置県後に生み出された体制は良くも悪くも日本の政治・行政機構を呪縛し続けている。

参考書籍・サイト
・勝田 政治著「廃藩置県―「明治国家」が生まれた日 (講談社選書メチエ)
・井上 勝生著「幕末・維新―シリーズ日本近現代史〈1〉 (岩波新書)
・坂野 潤治「近代日本の国家構想―1871‐1936 (岩波現代文庫)
廃藩置県 – Wikipedia

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