ユーゴスラヴィア戦争前史~緩やかな連邦制は如何にして瓦解したか

一九八〇年五月四日、ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国終身大統領チトーが死去した。前年の自主管理社会主義思想の理論的支柱エドゥアルド・カルデリの死に続く最高指導者の死は絶妙なバランスの上にあったユーゴスラヴィアを一気に混乱と解体へと転落させていった。

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1.「七四年憲法体制」

一九四八年のコミンフォルムからの追放以降ソ連と東側世界から決別したユーゴは生産手段の国有ではなく社会的所有、分権的経済市場の形成、労働者の自主管理などからなる「労働者自主管理社会主義」と東西両陣営どちらにも属さない「非同盟政策」を二本柱とした独自の社会主義路線を歩む。しかし六〇年代の性急な経済自由化はむしろ『生活水準の低下、所得格差の拡大、失業者の大量発生、貿易収支の悪化』(柴宜宏「ユーゴスラヴィア現代史」P124)を生み、連邦政府に対する反感が強まった結果、六八年のコソヴォ暴動や七一年のクロアチアの春など各地で民族運動や暴動が頻発することになる。

このような六〇年代の民衆運動を受けてチトーは緩やかな連邦制への移行を決断した。一九七四年、新憲法が制定される。民主集中制と地方分権とを組み合わせたこの体制は「七四年憲法体制」と呼ばれる。

『チトー、共産主義者同盟、連邦人民軍を”統合の絆”としつつ、この体制下で、六共和国と二自治州はすべてみずからの憲法を有し、裁判権や警察権だけでなく完全な「経済主権」を持ち、連邦幹部会において同じ一票を行使できる存在となった。きわめて緩い連邦制が成立したのである。』(柴P129)

軍の強制力を背景としつつチトーが諸共和国・自治州の調停者としてその関係を絶妙な政治手腕でもってバランスさせ、その上に終身大統領として君臨するというもので、長く模索してきた労働者自主管理の達成形態であった。

その調停者にして独裁者であるチトーの死が、ユーゴという人工国家の崩壊の序曲となったのは必然であっただろう。

2.経済危機と混乱の始まり

ユーゴを的確に評した言葉に「七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家」というものがある。それぞれ歴史も背景も生活習慣も違う人々が、一つの枠組みにまとめられた複合的な国家、それがユーゴスラヴィアであった。チトーの死後、その儚げな紐帯を断ち切ったのはやはり経済問題だった。

「七四年憲法体制」下において各共和国・自治州は独自の租税政策を実施し、連邦政府を通じてだが通貨政策や外国為替についても独自の政策を立てることが可能であった。連邦政府と各共和国・自治州の協議と合意に基づくボトムアップによる「協議経済」と呼ばれる経済政策を特徴とするが、むしろこれは統一市場の喪失をもたらし、七〇年代の二度に渡る石油危機と世界的不況の影響を受け、各共和国がそれぞれ設備投資のための借入を行ったことで対外債務が積み上がり、貿易収支の大幅赤字、インフレの恒常化などによって八〇年代には深刻な経済危機が生じていた。

一九八一年三月、慢性的な経済危機に喘ぐコソヴォ自治州で多数派を占めるアルバニア人によって大規模な暴動が発生、連邦政府の経済政策に不満を訴え、自治州の共和国昇格や社会主義批判を唱え、死者十一人を出して警官隊に鎮圧される事件が発生した。この事件は経済的不満から始まったものだったが、連邦政府がアルバニア人組織の煽動としたことで、セルビア人・モンテネグロ人とアルバニア人との民族対立に発展。さらにこの「コソヴォ問題」を巡ってセルビア共和国とスロヴェニア、クロアチア両共和国との対立が表面化する。

その後も経済危機は深刻化し、八七年頃からは全国で労働者ストが頻発、連邦政府に対する批判が強まり政治スト化していく。さらにコソヴォ事件以後、コソヴォ自治州では少数派の支セルビア人やモンテネグロ人に対して、同自治州の人口の七八%を占めるアルバニア人による迫害が頻発し、セルビア人自衛組織が誕生していた。またコソヴォの反連邦政府勢力に対する締め付けが強化されて「反革命」として次々と逮捕されるようになっていた。

3.民族主義の台頭

経済危機、民族・階層対立、そして社会不安の増大は民族主義的ポピュリストの台頭をもたらす。

一九八七年、セルビア共和国幹部会議長に就任したスロボダン・ミロシェヴィッチは、七四年憲法体制下で多数派のセルビア人が不遇であったこと、セルビア人の地位向上などを説くことでセルビア国内で台頭する民族主義的心情に訴えて支持を拡大し、民族主義派を支持基盤として影響力を拡大した。特に七四年憲法改正による連邦政府の権限強化や、周辺のセルビア人居住地域を併合する大セルビア主義的主張を繰り返すようになり、セルビア共和国内のコソヴォ自治州におけるセルビア人とアルバニア人の対立を先鋭化させる。

同じころ、スロヴェニア共和国でも民族主義が台頭していた。共和国内のスロヴェニア人が九一%と民族的均質性が高い同共和国は一人当たりの国民総生産が六一二九ドルでユーゴ内で一位と経済的に豊かな成功した共和国であったが、八〇年代の経済危機対応を巡って連邦政府が権限強化の動きを見せると、「経済主権」の制限を怖れてこれに反対し、やがて反連邦・反セルビア色を強めていく。知識人を中心とした反体制の動きから派生してユーゴにおいて法廷などで使われる言語がセルビア・クロアチア語であることに対する反発が強まり、民族主義が台頭、ユーゴ連邦からの独立の動きを見せ始める。さらにコソヴォ問題を巡って反セルビアの点からアルバニア人を支援するようになり、セルビアと対立を強めていった。

クロアチア共和国では、セルビア共和国内の民族主義の高まりによってセルビア国内のクロアチア人に対する差別や排除が強まったことを受けて、反セルビアの風潮が強化されつつあった。やがてセルビア国内から次々とクロアチア人がクロアチア共和国へ脱出してくると、クロアチア民族主義が台頭し始める。一九八九年、クロアチア民族主義と排外主義的思想のフラニョ・トゥジマンが極右政党クロアチア民主同盟を結成、クロアチア独立を訴えることで急激に支持を広げていく。翌一九九〇年には初の自由選挙となったクロアチア総選挙でクロアチア民主同盟は第一党となり、トゥジマンは大統領に就任、セルビアやユーゴ連邦との間に火種をまき散らすことになる。

4.ユーゴスラヴィア戦争へ

一九八九年の一連の東欧革命は混乱するユーゴスラヴィアにも多大な影響を与えることになった。経済危機が続くユーゴスラヴィアの諸共和国でも市民の発言力が高まり、複数政党制や民主化の要求が強まってくる。一九九〇年、分離独立を強く主張するスロヴェニアを始めとして、六共和国全てで複数政党制と自由選挙が実施、それぞれセルビアのミロシェビッチやクロアチアのトゥジマンらが大統領となるなど民族派、独立派が政権を獲得する。

セルビアではミロシェビッチが大統領に就任したことで国内の民族派が勢力を拡大し、非セルビア人に対する迫害がさらに強まった。特にセルビア共和国に属するコソヴォ自治州に対してはセルビア人保護を名目にたびたび干渉を繰り返すようになる。これに対してコソヴォ自治州のアルバニア人勢力はスロヴェニアの支援を受けて民主化を掲げる「コソヴォ民主同盟」を結成、九〇年七月「コソヴォ共和国」として独立を宣言、セルビアとの対決姿勢を明確にした。

クロアチアではトゥジマン大統領によって民族自決に基づくクロアチア独立運動とそれを背景にした排外主義的傾向が高まり、セルビア人に対する迫害とそれに対するセルビア人の抵抗運動が頻発していた。たびたびセルビア系住民とクロアチア警察軍や連邦人民軍との衝突が繰り返される。一九九〇年九月、クロアチア内のセルビア人が多数派を占めるクライナ地方が「クライナ・セルビア人自治区」の創設を宣言、翌九一年五月には同自治区で住民投票が行われて住民の九〇%がセルビア共和国への編入を支持し、クロアチア国内の緊張が一気に高まった。

混乱したユーゴの方向性を巡っては、連邦政府の権限強化を主張するセルビア・モンテネグロ・ユーゴスラヴィア連邦政府と、連邦制の解体による国家連合化を主張するクロアチア・スロヴェニア、主権国家による共同体という折衷案を唱えるボスニア・ヘルツェゴビナやマケドニアなどの間で話し合いが平行線となり、妥協点が見いだせないまま、ついに一九九一年六月二五日、クロアチア共和国とスロヴェニア共和国が独立宣言を発表、分裂が不可避な状況となり、ついに全面的な軍事衝突へとなだれ込んでいった。

一九九一年六月二七日、ユーゴスラヴィア連邦軍がスロヴェニアに侵攻を開始する。だがスロヴェニアは巧みに連邦軍を誘い込み補給線を寸断して、メディア戦略を駆使してユーゴ政府がいかに悪者かを訴えるなど戦略的優位を確保し、全面的戦闘に到らないままユーゴ軍はなすすべなく撤退、スロヴェニアは独立を獲得した。ユーゴスラヴィア紛争の前哨戦として短期間で終了したこの独立戦争は「十日間戦争」と呼ばれる。だが、解決のために話し合いでなく軍事的手段に訴えたことはユーゴスラヴィア情勢を泥沼に引きずり込むことになった。

クロアチアでは独立宣言以降、クロアチア共和国政府と独立に反対するセルビア人武装勢力の間で内戦状態となっていた。一九九一年九月、諸共和国が離脱し実質セルビア共和国と一体化したユーゴスラヴィア連邦政府がクロアチアに軍を投入、全面的な戦争へ突入する。軍だけでなく民間人も武器を取ってセルビア人とクロアチア人同士殺し合う悲惨な戦争が開始された。このクロアチアを舞台にした熾烈な内戦は、ボスニア戦争、コソヴォ紛争、マケドニア紛争と次々波及し、世界中を巻き込んだ、十年以上に及ぶ長い長いユーゴスラヴィア戦争の幕開けとなった。

参考書籍・サイト
柴 宜弘 著「ユーゴスラヴィア現代史 (岩波新書)
松岡 完 他編著「冷戦史 -その起源・展開・終焉と日本-
高木 徹 著「ドキュメント 戦争広告代理店 (講談社文庫)
塩川 伸明 著「民族とネイション―ナショナリズムという難問 (岩波新書)
最上 敏樹 著「人道的介入―正義の武力行使はあるか (岩波新書)
ユーゴスラビア紛争 – Wikipedia
十日間戦争 – Wikipedia
スロボダン・ミロシェヴィッチ – Wikipedia
フラニョ・トゥジマン – Wikipedia

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