水戸黄門諸国漫遊物語はどのように生まれたのか?

テレビドラマなどでもお馴染み水戸黄門こと徳川光圀が助さん格さんほかお供の者を引き連れてお忍びの諸国漫遊に出て、旅先で悪代官などを倒していく、という多くの人が知る水戸黄門漫遊物語は、実は成立がはっきりしていない。金 文京著「水戸黄門「漫遊」考 (講談社学術文庫)」ではその水戸黄門物語の成立過程について考察されている。

そもそも実在の徳川光圀はその生涯において旅らしい旅をしたことがない、およそ水戸と江戸の往復、あと祖母が建立した寺院がある鎌倉を何度か訪れた程度でしかなかった。だが光圀に代わって多くの家臣が旅に出ている。光圀は歴史書「大日本史」編纂のため儒者を集めて彰考館を設立したが、その史料収集のため多くの儒者を諸国に使わせた。その諸国を訪れた儒者に佐々宗淳(介三郎)、安積澹泊(覚兵衛)という人物がおり、この二人が後の助さん、格さんのモデルになったと考えられている。

徳川光圀に関する創作は江戸時代にすでにいくつか存在していたらしい。十九世紀初頭の水戸藩儒学者石川久徴の「桃蹊雑話」では水戸領内を光圀がお忍びで歩き、古墳を発見したり洞窟探検に出たりした話があり、また明治になって発見された十八世紀半ば宝暦年間に書かれたとされる小説「水戸黄門仁徳録」では虚実織り交ぜて光圀の生涯が描かれ、幕府の要人の陰謀を防いだり、怪異に立ち向かったりといった冒険譚になっているという。

『要するに江戸時代における黄門像は、幕府の内紛やお家騒動に際し、悪人の姦計を阻止し、正しいご政道をおこなう天下の副将軍、そして引退後は各地を巡見して神秘的な事跡にかかわった超能力者ということになるであろう。そしてこのご政道を正す副将軍と各地を巡見する超能力者が結びついたところに、やがて漫遊譚が生まれるのである。』(P233)

人々が横暴な大名たちや権威に対する批判を光圀というキャラクターに仮託してこのような人物像になっていったのかもしれない。

幕府が倒れてほどなくした明治十年(一八七七)十二月、幕末明治の巨匠河竹黙阿弥によって水戸黄門を主人公とした歌舞伎「黄門記童幼講釈」が上演、大ヒットとなる。大まかな内容は「水戸黄門仁徳録」に沿ったもので、幕府の陰謀を防ぎ、綱吉の生類憐みの令をも止めてしまう大活躍をする幕府の失政を批判した内容であったという。ただしあからさまに歴史上の人物を悪役にしたためその子孫らからクレームがついて上映禁止となった。

同じ明治十年ごろ、講釈の世界では光圀が諸国を回って悪をこらしめる漫遊物が登場していたらしい。ただしこの頃の資料は残っておらず、水戸黄門漫遊が描かれた講釈本で現存する最古のものは明治二十六年以降である。光圀の諸国漫遊物語はそれ以前、幕末ごろから登場してきたとも推測されているが、同じく確実な史料は残っていない。

その明治二十六年以降の講談本で描かれる水戸黄門の漫遊物語には大坂型と東京型の二種類があったとされる。講談は東京と大阪が二大拠点で特に東京が最も盛んであった。

「大阪型」は現代の水戸黄門物語の原型となっている。佐々木助三郎と渥美格之丞という二人の家臣を引き連れ、農夫のふりをして東北や大阪などへ旅に出て伊達家や相馬家のお家騒動を解決し、悪事をたくらむ者たちを退治して回り、水戸黄門手ずから楠木正成の碑を湊川に建てる佐々宗淳の史実エピソードなどがある。また後に九紋龍長次という元盗賊や、東海道で騙りを働く竜宮の万五郎(長五郎)らを改心させて配下にする話もあり、後の風車の弥七やうっかり八兵衛の原型に近いキャラクターも登場するようだ。講談師は玉田玉芳斎、笑福亭松鶴など。

「東京型」は大きく違う。主に東北がその活躍の舞台で、若き日のエピソードも交えつつ、隠遁後に儒者水鏡(酔狂)に扮した光圀が俳諧師松雪庵元起こと取り潰しになった越後高田の松平家の家老山田左膳とともに伊達家お家騒動や、南部家の不正を正し、最後は左膳に助力して越後高田の松平家を再興、天寿を全うして終わる。大名家のお家騒動や政権中枢の不正を正すのが主眼で悪代官などをこらしめる話は出てこない。別エピソードとして家臣朝比奈弥太郎とともに湊川に楠木正成の碑をたてる旅にも赴くが、基本奥州がその舞台になっている。講談師は明治天皇の御前講釈も行った当時を代表する講談師の桃川如燕など

江戸時代の創作や民間伝承、歌舞伎の演目などに影響を受けてまず先に東京型が生み出され、その東京型の東北漫遊を発展させたのが大坂型と考えられている。

このような水戸黄門の諸国漫遊物語が誕生した要因となる社会的背景として第一に江戸後期から明治にかけての空前の旅行ブームがある。経済の発展と平和によって幕府の統制力が緩んだ結果、お伊勢参りや講の発展、物見遊山の旅などを一般庶民が行うようになり空前の旅行ブームが到来していた。それ以前であればいくら徳川御三家の一人とはいえ、庶民に扮した水戸黄門が諸国漫遊するなどは非現実的なお話でしかなく、物語として説得力を持ち得なかったことを指摘している。

もう一つは明治期の東北に対するイメージである。幕末から維新にかけての東北地方は官軍との国を二分する戦いの主戦場であった。

『徳川慶喜は周知のとおり水戸家の出身であり、水戸は幕末以来、攘夷派のシンボルであったが、そのそもそもの元祖は光圀である。維新以来の急激な文明開化についてゆけず、これに反感をもった多くの民衆の心情が、攘夷派の元祖、水戸黄門に向かい、義経伝説などから判官びいき的に東北に集まったとしても不思議はないであろう。高田藩再興のための元起の活躍なども、高田のすぐ近くの長岡藩の戊辰戦争に際しての奮戦や、明治十六年に高田で起きた自由党人士の逮捕事件などが連想されたかもしれない。
(中略)
東北は、反権力と伝説にふさわしい土地柄であった。』(P277)

旅行ブームと移動の自由によって諸国漫遊が現実的なものとなり、反権力的な心情が東北と徳川光圀に集まる。それとともに指摘されるのが明治天皇の存在だ。

明治天皇は明治新政府樹立後、その権威の確立のため明治五年の大坂巡幸を皮切りにおよそ十五年八十八回に渡って日本中を巡幸して回った。この巡幸に際して人々は禁止されていたにも関わらず次々と直訴を行い、現状の諸問題の解決を天皇に求めた。『天皇が民間の苦しみを理解し救済してくれるはずだという宗教的といってもよい願望』(P297)が、天皇巡幸と同時期に成立した水戸黄門物語に反映されたと考えられている。

反権力の指向が、その権力をねじ伏せる、より強い権威を求めるというのは様々な運動を例に出さずとも明らかなお話だが、当時もその傾向は強かった。明治維新はたしかに上からの革命であるが、一方で民衆の間にも草莽と呼ばれるように草の根の運動として尊王の動きは強く存在していた。黙阿弥の歌舞伎は水戸黄門が忠孝を説くもので、民衆レベルでの尊王思想を強く反映した内容であるという。また、講談師の桃川如燕は明治天皇を始め、明治政府の要人と深いつながりがあり、当時の明治天皇に対するイメージを水戸黄門が強い権威者として悪を懲らしめるという物語に反映させた可能性があることが指摘されている。明治前半、出来て間もない明治国家の理念を演劇に積極的に取り入れる傾向が強く存在しており、水戸黄門もその影響下で生まれたと考えられている。

東京型よりも大阪型の方が残った理由は第一に東京型が『越後高田藩のお家再興と密接につながっており、他の地方への応用がきかないこと』(P273)、第二に漫遊記が『諧謔的性格をもち、滑稽化する傾向』(P274)があり東京型のストーリーの方が堅苦しいイメージがあるのに対して大阪型は弥次喜多道中の影響などもあるなどコメディ向きであった。また、東京型の登場人物が扮するのが儒者や俳諧師など芸人に属するアウトサイダーであるのに対して、大坂型は農民で勤勉さや忠孝をアピールしていくのに都合が良かった点もある。

その後講談を通じて次々と上演されたが、大正に入って講談が衰退すると小説や映画で語られるようになり、より広く民衆の間に浸透。第二次大戦によって一時廃れるが、戦後再び喜劇映画で復活する。この戦後の復活の時期も昭和天皇の巡幸の時期と一致しており、少なからずその巡幸する王としてのイメージが投影されていることが指摘される。

そしてテレビドラマ化に際して、戦前の皇国史観的イメージを払拭して新たに作られたキャラクターや諸設定が登場する。農民から商人になり、印籠が登場し、ホームドラマ風演出となってキャラクターも一新して制作された。その制作に関してスポンサーであり製作総指揮に名を連ねた松下幸之助の影響が指摘されている。商人になったのも、好々爺としてのキャラクター造形も松下幸之助を若干念頭に置いたものらしい。また印籠を使うのは脚本家宮川一郎氏が考案したものだが、スタッフの反対の中で松下幸之助が強くプッシュしたことで登場することになったという。

国民的人気を誇った水戸黄門物語の誕生の過程から日本の近代史が透けてみえるところが非常に面白いと思う。

また、今回参照した「水戸黄門「漫遊」考 (講談社学術文庫)」は実はタイトルの水戸黄門に関する考察は七章から九章にかけてのもので、それ以外の部分は中国や朝鮮半島を中心としたアジア諸国における水戸黄門と類似の物語の収集、紹介とそれら類似の物語が登場した当時の諸国の社会状況の解説にあてられている。これがすこぶる面白い。直接の影響の有無はもちろん明確ではないが、アジア地域にはよく似た物語が無数にあり、そのような近しい文化圏の中にあることを再度認識させてくれる。

そしてこの本は日本の近代というのがアジア諸国との分断の歴史であったことを水戸黄門物語の考察を通して浮かび上がらせようとしている意欲的な本であると思う。この本を第一章から読んで中国史や朝鮮史からの視点を持つことで、ここで紹介した水戸黄門伝説の全く違った側面を見出すことができるし、むしろそうすることによってはじめて、水戸黄門物語の誕生について知ることになるだろう。

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