1929-1932日本の政党政治はいかにして行き詰ったか

昭和四年(一九二九)一〇月二四日の株価大暴落を端緒として世界中に波及した世界恐慌は日本を容赦なく襲った。第一次大戦中の好景気は一時的な効果でしかなく、一九二〇年代の日本は一九二三年の関東大震災による震災恐慌以降慢性的な不況が続き、対外債務国に転落していた。一九二〇年代の不況を乗り切るため民政党濱口内閣は井上準之助を蔵相に起用して財界の支持を受けて財政緊縮、デフレ圧力による産業合理化、金解禁政策によって不況を乗り切ろうとしたが、世界恐慌の波は逆に日本経済をさらなる不況へと陥らせた。

このとき不幸だったのは、このような状況であっても、民政党が選挙で大勝利を収めてしまったことだった。一九三〇年二月の総選挙で与党民政党は解散時の一七三議席(三七%)から二七一議席(五八・二%)へと大躍進し、野党政友会は二三七議席(五〇・九%)から一七四議席(三七%)へと大幅に勢力を後退させる。この結果、経済界は一層合理化による不況の克服を濱口内閣に求め、内閣は引き続き緊縮財政、金解禁政策を貫くことになり、日本経済はより悪化することになる。

『浜口内閣の悪政続出にも拘らず、政友会はその積悪の故に民心を得ない。ここに於いてか民衆を悪煽動(デマゴク)して、以つて民衆と政府を戦はしめ、政権泥せんとしつつある。都市に於ける政友会の演説会は公然と失業者の暴動を扇動してゐる。』(坂野P235)

中間派である全国大衆党は一九三〇年八月、このような情勢分析を行っているという。二大政党はどちらも民衆の支持を失い、一方は既得権益層に阿り、一方は大衆迎合に走って、両者とも機能不全に陥っていた。

濱口内閣は経済不況が泥沼に陥ってもなお財政緊縮、金解禁政策に固執していたが、一九三一年九月一八日、満州事変が勃発すると、四月に濱口雄幸に代わって若槻首相となっていた民政党内閣は外交面で陸海軍とも対立することになり、その打開に向けて政友会に連立を持ち掛ける。だが犬養政友会総裁は政策の不一致を理由にこれを固辞、一九三一年一二月、総辞職して慣例に従い野党第一党による内閣が組織され、犬養首相、高橋是清蔵相による政友会内閣が誕生する。さらに一九三二年一月、総選挙が実施され、あくまで政友会が支持を受けたというよりは民政党の自滅であったが、政友会は一三二議席増と議席数をほぼ倍増させて圧勝した。

高橋蔵相の積極財政、金輸出再禁止によるリフレーション政策は急速に日本経済を回復させつつあったが、時すでに遅かった。内閣発足からわずか半年後の一九三二年五月一五日、昭和維新の名の下に海軍青年将校が決起、首相官邸ほか政府施設を襲撃し犬養毅首相は帰らぬ人となる。以降政治家はテロルの陰に怯える一方で、軍部の力は何物をも凌駕していき、やがて大政翼賛会が結成、日本は坂道を転げ落ちていく。政党政治の時代の終わりの始まりであった。

参考書籍・サイト
坂野 潤治「近代日本の国家構想―1871‐1936 (岩波現代文庫)」P231-241
山内 昌之「帝国とナショナリズム (岩波現代文庫)」P175,P192
加藤 陽子「満州事変から日中戦争へ―シリーズ日本近現代史〈5〉 (岩波新書)」P175-176
昭和恐慌 – Wikipedia

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