葉山の総鎮守、森戸神社と森戸海岸

三浦半島西岸、葉山町の相模湾に面する森戸崎に位置するおよそ八〇〇年余りの歴史を持つ古い神社。引っ越したわけだし葉山の総鎮守に参らないわけにはいかないだろうということで、ちょっとがっつり調べてみた。

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森戸神社の歴史と源頼朝

森戸神社の鳥居と参道
由緒書きには伊豆に流された源頼朝が源氏再興を祈願していた三嶋大社の祭神三嶋明神(大山祗命)を治承四年(一一八〇)九月八日、この地に勧請して森戸明神としたのだという。それ以前には小さな山王社が祀られていたという。

以後、この神社の境内には源頼朝の別墅(別荘)が造られていた他、森戸海岸から神社脇へと流れる森戸川の河口部は七瀬禊という七つの海岸で行われる儀式の場所の一つとされ、歴代将軍もここによく訪れていたという。鎌倉歴代将軍や有力御家人からの信仰が強く、天正一九年(一五九一)には関東に移封となった徳川家康が社領地七万石を寄進したのをはじめ、徳川光圀もここを訪れたことがあると伝わる。

森戸神社の狛犬
頼朝がこの地を選んだのは、単純に信仰心だけではないだろう。当時、この付近一帯は鎌倉と三浦半島西岸とを同時に望むことが出来るため、鎌倉防衛の最重要拠点として機能していた軍事的要衝であった(注1)。この地から一キロと離れていない、現在の葉山マリーナ近くにある鎧摺(あぶずり)という場所は平安時代末期には鎧摺城という頼朝の有力御家人三浦氏の城の一つがあり、頼朝が鎌倉を攻略する際には三浦氏はこの付近から兵を船に乗せて由比ヶ浜へ侵攻したという。後に三浦氏と対立する北条氏も、三浦氏に親しい諸勢力の抑えとしてこの地を重要視していた。

ゆえに、富士山を望むことができるなど風光明媚な面とともに、非常に戦略的な意味から、この地に頼朝自身が影響力を行使する意味で手ずから神社を建立し、別邸まで作ったのではないかと思う。特に創建と伝わる治承四年九月の頼朝は、前月八月二〇日に初戦の「石橋山の戦い」で手痛い敗戦を蒙り、再起を目指して再度挙兵を行ったころだ。三浦氏も頼朝の挙兵に呼応して前月に鎌倉の由比ヶ浜に侵攻(由比ヶ浜の戦い)するも圧し戻され、居城衣笠城すら失って(衣笠城合戦)いる。鎌倉攻略を果たすのは同一〇月六日のことであり、一〇月二〇日、富士川の戦いで平家軍を撃破、鎌倉の支配権を確立する。もし由緒通り治承四年九月八日創建であるのなら、間違いなく鎌倉攻略の橋頭堡としてこの地を選び、戦勝祈願と当地への影響力行使のため最もゆかりの深い伊豆の三嶋大社を勧請したということになるのではないだろうか。とはいえ、頼朝らは石橋山の戦いの後安房(千葉)に逃れ、武蔵(東京・埼玉)から鎌倉に侵攻するので、ここにこの時期立ち寄ったとは考えにくい。おそらく実際の創建はもう少し後のことだろう。ちなみに九月五日には頼朝は既に相模から逃れて海を渡り千葉の洲崎神社に参詣したという記録が吾妻鏡(注2)にある。

史実はさておきフィクションとして想像してみてほしい。強大な平家に対し叛乱の火の手をあげた頼朝一党だったが武運拙く敗戦し、頼朝以下二百名弱の武者たちは再起を図るべくこの戦略的要衝の地に集まる。十倍の大軍に蹴散らされたことで誰もが満身創痍。その中にはここを支配地とする三浦氏もいただろうが、頼朝の父源義朝の代から従っていた猛将として知られた八九歳の当主三浦義明の姿はない。わずか二週間前の衣笠城合戦の際「私は源家累代の家人として、幸いにもその貴種再興の時にめぐりあうことができた。こんなに喜ばしいことがあるだろうか。生きながらえてすでに八十有余年。これから先を数えても幾ばくもない。汝らはすぐに退却し、(頼朝の)安否をおたずね申し上げるように。」(注3)と言い残して一族郎党を逃すため老体に鞭打ち一人、攻め寄せる大軍を防いで城を枕に討死を果たしていた。亡き当主の遺命を胸に子の三浦義澄ら三浦一党は一層悲壮な決意を見せている。多くの武将を失い、最早後がない中、鎌倉を望む海沿いのこの岬に、幽閉の地伊豆ですがった神「三嶋明神」の勧請の儀式を、諸将が見守る中恐らく頼朝手ずから簡易的に行う。それは鬼気迫るものであっただろう。儀式が済み、頼朝は鎌倉攻略を高らかに宣言すると、諸将はそれに応えて咆哮を上げ、まだ見ぬ勝利を誓う・・・そんな空想上の歴史。

と、前置きはこの辺で境内や周辺を紹介しよう。

森戸神社拝殿

森戸神社拝殿
拝殿は味の素創設者鈴木三郎助らの寄付(注4)によって昭和初期に建てかえられたもの。

総霊社

総霊社

畜霊社

畜霊社

水天宮

水天宮

おせき稲荷社

おせき稲荷社

庚申塔

森戸神社境内の庚申塔
境内には様々な末社・摂社が祀られている。総霊社は英霊・祖霊・水子霊など様々な霊を祀るもの、蓄霊社は動物霊、水天宮は安産祈願、おせき稲荷社は咳が止まらない人や喉を使う職業の人の信仰を集める。庚申塔は江戸時代にブームになった庚申信仰の塔の一つ。享保十一年(一七二六)と石碑の側面にあった。

千貫松

千貫松
源頼朝が褒めたという神社裏手の浜に浮かぶ岩山上の松。長年の風雨で実にいい感じの容貌になっていて味わい深い。

日吉社

日吉社
神社本殿裏手の階段を、千貫松を左手に望みながら登っていくと、日吉社の小さな祠が祀られている。前述の通り、頼朝がここに三嶋明神(大山祗命)を勧請した際に山王日吉社が祀られていたとのことで、その名残であるとされるが、これはさすがにその時代のものではないだろう。ただ、いつからあるのかは不明で、史料(注5)によると、明治十二年(一八七九)の神社明細帳に正面三尺・奥行三尺の山王日吉社の石祠の存在が記されている。

飛柏槇

飛柏槇
元暦元年(一一八四)、頼朝がここに参詣した際、わざわざ伊豆から飛来してきたと伝わるビャクシンの木。これが珍しいのは、大きく海側に張り出して伸びていることで、とても見応えがある。樹高約十五メートル、胸高周囲約四メートル、樹齢推定八〇〇年。葉山町天然記念物。「かながわの名木百選」選出。

源頼朝別墅址石碑

源頼朝別墅址石碑
源頼朝の別荘が境内にあったという。その場所については明らかではないが、沖に浮かぶ名島はかつては陸続きでこの一帯は「御殿原」と呼ばれており(注6)、その御殿原を望む場所に建てられていたという。

石碑群

森戸神社境内の石碑群
神社に関るものだけでなく、葉山ゆかりの人物にかかわる石碑が神社裏手の相模湾を望む高台に多数建てられている。明治天皇、大正天皇、昭和天皇歴代天皇の碑の他、葉山逗子を保養地にすることを提唱したイタリア公使レナート・デ・マルチーノとドイツ人医師エルウィン・フォン・ベルツの碑、葉山に別荘を持っていた高橋是清、葉山在住だった詩人堀口大學、デビュー作「太陽の季節」など葉山に縁の深い俳優石原裕次郎の歌詞の碑など。

森戸川

森戸川
森戸川は逗子市の二子山付近を源流とする河川で、長柄から葉山を縦断してこの森戸神社横へと流れ込んでいる。

みそぎ橋

みそぎ橋
鎌倉幕府において、征夷大将軍位が源氏から京都から下向した貴族に替わったことで宮中行事が積極的に行われることになったという。その一つ「七瀬の祓(ななせのはらえ)」は『天皇の災禍を負わせた人形の撫物を7か所の瀬に7人の勅使が持って行って流したのが起こり』(注7)の行事で、関東では貞応三年(一二二四)、由比浜(由比ヶ浜)・金洗沢池(鎌倉市七里ヶ浜付近)・固瀬川(境川下流部(片瀬川))・六連(神奈川県金沢区六浦)・鼬河(神奈川県横浜市を流れるいたち川)・江嶋龍穴(江の島)・杜戸(森戸海岸)の七か所で行われた。生贄の供犠の発展形としての穢罪を祓う儀式だろう。森戸ではこの森戸川河口付近で行われたとされている。その故事にちなみ森戸海岸と森戸神社とをつなぐ森戸川にかかる橋は「みそぎ橋」と名付けられている。

森戸の夕照

森戸の夕照
森戸神社の裏手、相模湾を望むこの場所は「森戸の夕照」と名付けられ、日没の景色の美しさが名高い、神奈川県屈指の景勝地として知られている。昼間もよほど天気が悪くない限りは相模湾の水平線を超えて箱根山脈とその向こうの富士山の稜線がはっきりと見えて、ほれぼれする風景だ。石原裕次郎のレリーフが存在感を示している。

裕次郎灯台(葉山灯台)と名島の赤鳥居

裕次郎灯台(葉山灯台)と名島の赤鳥居
平成元年、石原裕次郎三回忌を記念して兄・石原慎太郎が一億円の基金を集めて建設した灯台。その向こうに立つのが名島の赤鳥居で、かつては名島までは陸続きであったという。ところで、地元の人に聞いた話ではこの赤鳥居付近では海流の関係かサーファー、海水浴客などの海難事故が少なくないらしい。赤鳥居には周辺に近づかせないように注意を喚起する働きもあるのかもしれない。

森戸海岸

森戸海岸
森戸神社がある森戸崎の北側は森戸海岸と呼ばれ、夏は海の家が並び海水浴客が多く訪れる海水浴場として知られている。この写真でみてもらえば、森戸崎を先端として海岸線が湾曲し、岬状になっているのが分かるのではないかと思う。

森戸海岸
海水浴場としてだけではなく、富士山や江の島、鎌倉市街地を望む風光明媚な地としても抜群で、海岸線は散策する人やカメラを構える人が多数訪れている。

また、鎌倉歴代将軍もたびたびこの森戸海岸(当時は杜戸浦と呼ばれていた)を訪れていたと伝わる。建保二年(一二一四)二月、鎌倉幕府三代将軍源実朝は杜戸浦の早春の景色を楽しむために供を引き連れて来訪、武士たちの小笠懸(馬上から矢で的を射る流鏑馬に近い騎射の技術)を楽しみ、近くの長柄の武士長江四郎明義が用意した弁当を食べたという。また安貞二年(一二二八)、四代将軍藤原頼経も執権北条泰時や三浦義村ら重臣とともに杜戸浦を来訪、笠懸・相撲などを楽しみ、やはり長江四郎明義が弁当を用意したという。(注9)若くてハンサムな将軍実朝のために甲斐甲斐しくお弁当を用意する無骨な武士、を想像しながら散策するとそっち方面の皆様には違った楽しみ方が・・・あ、いや。

森戸海岸
そんなわけで葉山町を代表する名所の一つで、葉山町内でというだけでなく東京・神奈川などを含む首都圏有数の隠れ良観光スポットだと思います。

(注1)「郷土誌葉山第8号」P45-46
(注2)五味文彦・本郷和人編著「現代語訳吾妻鏡〈1〉頼朝の挙兵」P30-31
(注3)五味・本郷同P26
(注4)「郷土誌葉山第3号」P49
(注5)「郷土誌葉山第8号」P50
(注6)同8号P84
(注7)同3号P51
(注8)裕次郎灯台 | マップ | 塔マップ

参考書籍・サイト
・葉山郷土史研究会編著「郷土誌葉山第3号」
・葉山郷土史研究会編著「郷土誌葉山第8号」
・五味文彦・本郷和人編著「現代語訳吾妻鏡〈1〉頼朝の挙兵
・山本 幸司著「穢と大祓
葉山 森戸神社(森戸大明神)|開運厄除|結婚式|子宝|安産|お宮参り|七五三|家内安全|病気平癒|恋愛成就|神奈川県三浦郡葉山町
吾妻鏡入門目次
石橋山の戦い – Wikipedia
裕次郎灯台 | マップ | 塔マップ

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横須賀線逗子駅からバスで「森戸神社」下車

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