葉山御用邸の周辺とその歴史

葉山御用邸
葉山御用邸は葉山町にある天皇・皇族専用別荘の一つである。主に明治期に各地に建設されたが現在は葉山御用邸と那須御用邸、須崎御用邸の三つだけになっている。

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葉山御用邸の歴史

神奈川県三浦郡葉山町に御用邸が建設されるきっかけになったのは、皇室侍医であったドイツ人医師エルウィン・フォン・ベルツ(一八四九~一九一三)が葉山の気候などを踏まえて保養地として明治天皇に進言したことによる。あわせて葉山に邸宅を構えていた駐日イタリア公使レナート・デ・マルチーノも同様に葉山を薦めたこと、また明治政府の重臣らが葉山周辺に別荘を構え始めていたことなどあり、病気療養中だった英照皇太后(孝明天皇皇后)の療養地として建設が決まった。

明治二十六年(一八九三)五月、内閣総理大臣伊藤博文、黒田清隆、山縣有朋ら署名の経済会議録に葉山御用邸建設費として予算外臨時費金参萬五千参百拾壱円四拾弐銭六厘が計上されている。これを踏まえて同五月三一日、明治天皇の勅裁が降り、造営が開始された。

葉山御用邸の建設予定地はもともと集落であった。葉山郷一色村字打鯖(うつさば)、通称打鯖の里と呼ばれていた。打鯖の由来は海岸線に鯖を始め様々な魚が打ち寄せられるほど豊富な漁場であったことによる。里の人々は漁業、農業、大工などに従事する人が多かったという。葉山御用邸の建設は民有地であったこの地からの里の人々の立ち退きから始まる。

打鯖の里の人々の立ち退きはかなり円満に進められたらしい。地主十四人からの「お買い上げ」が行われ、立ち退きになる人々にも少なくない額の立ち退き料が支払われ、また明治政府創業当初は各地で見られた反天皇の動きもこのころには納まって、むしろ天皇対する畏敬の念を持つ人々が多く見られ始めていた背景も影響していただろう。立ち退いた人々の子孫に対する聞き取りではあるが、立ち退いた親族の様子について、例えば祖母の娘が赤痢にかかったが「お買い上げ金」のお蔭で病院にかかることができた、寂れた一漁村だったがお買い上げの結果葉山が栄えることになって良かったと義父が語っていた、不平不満は聞かれなかった。など概ね好意的だったとされている。人々の立ち退きとともに墓地や施設なども全て移転が行われ、明治二十六年(一八九三)中に打鯖の里は消滅した。

打鯖の里があった地区はそのまま葉山御用邸の敷地になっているため、その痕跡はなかなか見つけることは出来ないが、それでもまだ残されてはいる。

一色海岸

一色海岸

一色海岸は眞名瀬漁港がある笹崎から長者ヶ崎までの海岸線のことで、森戸海岸と並んで葉山の人気海水浴場として夏になると多くの人が訪れる。オフシーズンでも地域の人が散歩したり遊んだりしている。皇族の方々も葉山御用邸を訪れた際は舟遊びをしたり海岸線を散策したりしているという。丁度葉山御用邸の裏手付近は打鯖の人々の生活の糧としての漁業が盛んであった。

下山川

下山川

葉山御用邸の間を抜ける一色海岸へと流れ込む河川。

一色海岸打鯖岬

一色海岸打鯖岬
葉山御用邸の真裏には大きく海にせり出した岬があり、打鯖岬と呼ばれている。

打鯖岬の「竜宮様」

打鯖岬の「竜宮様」
打鯖岬の岩礁の上に設けられている赤鳥居と石の祠は通称「竜宮様」と呼ばれる航海の安全と大漁を祈る神様で毎年一月十一日には神事がおこなわれる。

『朝、山で切り出してきた3本の真竹に松と榊をそれぞれ2本、石碑の周りに立て、「竜宮様」と書かれた和紙の旗を飾り、お神酒とお赤飯で祝う。浜に漁師が大勢いた頃は、各家が毎年回りもちで朝から晩まで家族総出で盛大に祝った』(「郷土誌葉山第2号」P53)

三十番神堂

三十番神堂
現在、葉山御用邸の裏手にある一色公園(旧金子堅太郎伯爵別荘)の一角にある小さなお堂は、御用邸建設前は今の御用邸敷地内にあたる打鯖の里の一角にあった。一説には森山神社の三十三年ごとの行会祭の神輿で怪我人や死者が出たためその供養として神輿を埋め、その上に立てられた神社「辻番神社」だったという。

三十番神は神仏習合思想に基づいた毎日交替で国土を守護する三十柱の神々のことで、特に日蓮宗で重視されたという。葉山は歴史的に日蓮宗と縁が深いことから、この地でも三十番神信仰が広がっていたと考えられる。本当に神輿が埋められていたとすると神輿はそのままにお堂だけが移転されたのだろう。現在はひっそりと佇んでいる。

三十番神堂の海中出現地蔵

三十番神堂の海中出現地蔵

三十番神堂の横に建てられているのが海中出現地蔵碑である。大正十二年(一九二三)、関東大震災によって海岸線が約二・五メートル退いた後の『岩と岩の間にお地蔵様が倒れて』(「郷土誌葉山第9号」P54)おり、それを祀ったものだという。

葉山御用邸の建設は勅裁後急ピッチで進められ、打鯖地区の立ち退きから井戸や田畑、宅地の調査、里人墓地の共同墓地への移転、道路の変更や新設などが同時進行で進み、決定からわずか七か月後の明治二七年(一八九四)一月二二日には完成という超ハイペースでの造営であった。

葉山御用邸と別荘

葉山御用邸が完成すると、御用邸の町として葉山は日本中の注目を集め、華族・政治家や実業家もこぞって葉山に別荘を建設し始め、葉山御用邸を中心として大きく発展していった。

別荘を構えた著名人としては斎藤実(第三〇代内閣総理大臣、二・二六事件で暗殺)、三井八郎右衛門(三井財閥総領)、栗野慎一郎(外交官、日露戦争時のロシア大使)、桂太郎、鷹司信輔(公爵)、金子堅太郎(伊藤博文の腹心。日露戦争時の対米外交を担当)、井上毅(大日本帝国憲法起草、政治家、法律家)、岩倉具定(岩倉具視の次男)、有栖川宮、秩父宮、伊達宗影(旧宇和島藩伊達家当主)、松平慶民(元福井藩主松平慶永の三男)、團琢磨(三井財閥総帥)、高橋是清、伊東祐亨(初代連合艦隊司令長官)など。

高橋是清別荘跡

高橋是清別荘跡
眞名瀬漁港の目の前に、明治から昭和初期にかけて日本銀行総裁、蔵相、首相などを歴任し二・二六事件で暗殺された政治家高橋是清の別邸跡がある。明治三十二年竣工。第二次大戦後に失火で全焼し、現在は老人ホームが建つ。葉山交流館という共有スペースに高橋是清別邸跡との記載があるのでわかりやすい。

一色公園(金子堅太郎別邸跡)

一色公園(金子堅太郎別邸跡)
葉山御用邸の裏手一色海岸を望む高台にある広場はかつての伊藤博文の腹心金子堅太郎の別邸があった一帯になる。交流が深かった井上毅が先に葉山に別荘を構えており、明治二十三年、井上邸を訪れた際に葉山に別荘を作るよう誘われ明治二十四年に造られた。葉山御用邸建設の際に三ヶ岡山の麓付近に移転。葉山の海岸沿いに土地を多く所有し、三井財閥別荘など当時の葉山の別荘の多くは金子堅太郎の所有する土地を転用したものだったという。

神奈川県立近代美術館葉山館(旧有栖川宮威仁別邸、旧徳川慶光邸)

神奈川県立近代美術館葉山館(旧有栖川宮威仁別邸、旧徳川慶光邸)
有栖川宮邸は明治二十三年、宮家としては初めて葉山に建設された別荘。京風の雅な邸宅であったが災害に弱かったという。その死後高松宮に引き継がれ平成十五年、旧徳川慶光邸とあわせて神奈川県立近代美術館葉山館となった。徳川慶光は徳川慶喜の孫。昭和三年竣工だが実際住んでいたのは慶喜の九男徳川誠であったという。

桂太郎別邸「長雲閣」跡

桂太郎別邸「長雲閣」跡
近代美術館を過ぎて葉山しおさい公園の向い、現在は写真のようなレストランや住宅が建つ一帯はニコポン総理こと桂太郎の別邸「長雲閣」があった一帯である。「長雲閣」の命名は伊藤博文で、ここを訪れた伊藤博文が邸宅から見える海岸線にたなびく雲を見て名付けたとされる。明治三十二年竣工。

ここが歴史の表舞台に立つことになったのは明治三十四年(一九〇一)十二月七日から八日にかけてのことだ。対露協調派の伊藤博文が外遊中、長雲閣に桂太郎、山縣有朋、井上馨、西郷従道、松方正義、小村寿太郎(また一説には山本権兵衛も)ら伊藤を除く元老・内閣首脳が集まり、対露協商を退け日英同盟の締結が合意された。翌一二月九日、急ぎ東京に戻った桂は明治天皇に日英同盟を上奏。翌明治三十五年(一九〇二)一月三〇日、締結される。日露戦争へと突き進む第一歩がこの地で標された。

葉山しおさい公園(旧井上毅別邸、岩倉具定別邸→三笠宮邸(葉山御用邸附属邸))

葉山しおさい公園(旧井上毅別邸、岩倉具定別邸→三笠宮邸(葉山御用邸附属邸))
井上毅邸、岩倉具定邸があった。井上は休日をほぼここで過ごし、最晩年もこの別荘で過ごし、この地で亡くなった。大正六年(一九一七)、葉山御用邸附属邸として買い取られ、大正八年(一九一九)、三笠宮邸として竣工、附属邸と呼ばれることになった。

明治天皇の後を継いだ大正天皇は生来病気がちだったが、附属邸が完成した大正八年頃には政務を執ることが困難になり、大正十年から皇太子裕仁が摂政に就き、各地の御用邸で静養、大正十五年(一九二六)十二月二十五日、この葉山御用邸附属邸で崩御した。この死を受けて、臨終に侍っていた皇太子裕仁はこの葉山御用邸附属邸で践祚の儀式を執り行い、天皇に即位して東京へと戻る。この地で昭和が始まった。

現在は葉山しおさい公園として整備されて一般に公開されている。

葉山しおさい博物館

葉山しおさい博物館
第二次大戦後、昭和天皇の海洋研究の中心であったことから、三浦半島の海洋生物に関する資料や模型などが展示されている。玄関は附属邸時代の「御車寄せ」をそのまま再利用している。

葉山しおさい博物館の日本庭園

葉山しおさい博物館の日本庭園

葉山しおさい博物館の噴井の滝

葉山しおさい博物館の噴井の滝
かつての附属邸の名残を残す日本庭園や黒松林なども整備されており、ゆっくりと散策するのに良い雰囲気の公園になっている。

非公式の帝都「葉山」

葉山御用邸の建設以降、葉山周辺には政財界の要人が別荘を構え、歴史を変える大きな決定がなされることもあり、葉山は実質的にアンオフィシャルな帝都としての顔を持っていた。

静かな漁村だったこの一帯も葉山御用邸を中心に道路や施設が整備され、第二次大戦後は住宅地、行楽地として知名度を上げて発展していった。葉山御用邸の目の前のバス停は「葉山」であり、文字通り葉山御用邸が中心にある町である。

「葉山御用邸放火事件」

昭和四六年(一九七一)一月二七日夜、葉山御用邸に男が侵入、御用邸の建物に放火し本邸が全焼する事件「葉山御用邸放火事件」が発生する。二月五日、逮捕された男は統合失調症の病歴を有し、精神鑑定の結果、心神耗弱の状態にあったとして不起訴処分となり、措置入院となった。

この炎上事件について「郷土誌葉山第9号」に地元の打鯖出身の方によるこのような記述がある。

『公式の発表では、犯人は近くの旧屋敷の親戚の人であった。太宰治の「斜陽」の人の井戸事件のあった家だが、その跡は継ぐ人も全て亡くなってしまったのは、何か不思議な感じがする。』(「郷土誌葉山第9号」P53)

太宰治の「斜陽」は小田原の実在の一族をモデルとした作品だが、それに累する人であるということだろうか。妙にドラマティックであり、血の因縁といおうか、因果応報的な雰囲気を漂わせたどこかおとぎ話か民間説話のような雰囲気もあって信じがたいところもある。

昭和五十六年(一九八一)、葉山御用邸は再建され、以降、皇族の方々がたびたび訪れて地域の人々とふれあっている。歴史の表舞台に立つことは無くなったが静かに葉山の町を象徴し続けている。

参考書籍・サイト
・「郷土誌葉山第2号」
・「郷土誌葉山第9号」
葉山御用邸放火事件 – Wikipedia

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京浜急行バス「葉山」下車

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