イタリアは本当に弱かったのか?

第二次世界大戦でいち早く降伏したことから味方にするには頼りにならない国としての汚名をさんざん被せられているイタリアだけど、実際のところどうなのかというと、じ・つ・は連戦連勝なので、軽いネタ程度にまとめておきます。

イタリアは一八六一年のサルディーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ二世による統一まで群雄割拠、イタリアという統一意識すらなかった。このイタリアという意識が形成されていく過程はナショナリズム研究の典型として良く取り上げられるので知っている人も多いだろう。では一八六一年のイタリア王国成立後の対外戦争の結果はどうか?

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一八六五年:普墺戦争→大局的には勝利

プロイセンのビスマルク首相主導で始まったプロイセンとオーストリアの戦争にイタリアもプロイセン側として参戦、イタリア戦線ではイタリア王国が統一し立てということで指揮系統が整備されていない中、オーストリア軍が優勢に進め、クストーザの戦い、リッサ海戦と陸海ともにオーストリアが局地戦で勝利するが、プロイセン側がケーニヒグレーツの戦いで大勝利を収めることでオーストリアの敗戦が決し、イタリア王国はオーストリア領だったヴェネト州(ヴェネチア)を併合する。

一八七〇年:普仏戦争→本戦とは関係ない所で勝利

いや、普仏戦争に勝ったわけではなく。ナポレオン三世が捕虜になるなどプロイセンがフランスに勝利したことで、ローマ教皇領に駐留していたフランス軍が撤退。それに乗じて、イタリア王国軍は全力でローマ教皇領を占領。ローマに遷都を行う。

一八八五-八八年:エリトリア戦争→激戦の末勝利

近代国家としての体裁を整えつつあったイタリア王国は海外領土を求めて紅海沿岸、エチオピア帝国の影響下にあったエリトリア地方へ進出を開始する。エチオピア帝国がこれに反発して軍を動員、これに対してイタリア軍も派遣され二年がかりでエチオピア軍を屈服させ、続いて勃発したエチオピア帝国の内戦に乗じて後皇帝になるメネリク二世側に武器供給を行い、イタリアとエチオピアの講和条約ウッチャリ条約でエリトリアの割譲を受け、初の海外植民地を獲得した。

一八九六年:第一次エチオピア戦争→戦略的撤退

エリトリア地方を獲得したイタリア王国だったが、ウッチャリ条約の文言を巡ってエチオピアが条約の破棄を通告、これに対してイタリア王国はエチオピアに軍を侵攻させる。エチオピアが非近代的な装備であるだろうという予測の元に数的劣勢は問題では無いとしての侵攻であったが、実はエチオピアはフランスの支援の下で最新鋭の武器を揃えており、それを知ったイタリア軍のバラティエリ将軍は、エチオピア軍が長期的に軍を維持できないことを見越して巧みに決戦を回避することで相手の疲弊を待つ戦術を展開する。これに業を煮やしたのが、何故かイタリア王国のクリスピ政権で、将軍に決戦を指示。イタリア+エリトリア軍一万vsエチオピア軍十万の正面衝突となったアドワの戦いは両軍とも大きな被害(イタリアの戦死者五〇〇〇、エチオピア戦死者二五〇〇〇)を出し、イタリア軍の撤退で終結した。両者ともこれ以上の戦争は求めず講和条約アディスアベバ条約で現状維持のエリトリアの領有が確約される。ちなみにクリスピ政権は崩壊した。

一九一一年:伊土戦争→海軍の活躍で勝利

当初チュニジアでの権益確保を狙っていたがフランスの保護領化がなされたことで、隣接するオスマン帝国領トリポリタニアへとその矛先を変え、装甲車など最新鋭の武器で武装したイタリア軍を派遣、沿岸部を制圧するが、これに対してオスマン軍は徹底した遅延戦術で対抗。ムスタファ・ケマルの活躍などもあって戦線は膠着し、イタリア軍は十万名規模にまで兵員を拡大させ一進一退の攻防の末、徐々にイタリアが優勢に立つが決め手を欠き、長期戦の様相を呈す。そこでイタリア海軍が派遣されベイルート海戦でオスマン海軍を壊滅させ、イタリアによる世界初の空軍による攻撃なども行われ、勝利を収めた。ローザンヌ講和条約でオスマン帝国はイタリアのトリポリタニア・フェザーン・キレナイカの宗主権を認めることとなり、結果イタリア王国はリビアを獲得した。この敗戦でオスマン帝国の失墜は誰の目にも明らかなものとなった。

一九一四-一八:第一次世界大戦→大国に真正面からガチンコ勝負で勝利

第一次世界大戦では当初中立を保っていたが、一九一五年、英仏露の三国協商とロンドン秘密条約を結びオーストリアに宣戦布告してアルプス山脈に籠るオーストリア軍に攻撃を仕掛け、その援軍であるドイツ軍の奇襲攻撃(浸透戦術)退けつつ、多大な犠牲を出しながらも両軍を撃破して連合国の勝利に大きく貢献した。戦後のパリ講和会議ではダルマチアや南アルバニアの領有は認められなかったものの「未回収のイタリア」トリエステ、南チロル、イストリアを併合、国際連盟の常任理事国にも加入し、フランス、イギリス、大日本帝国と並んで四大国の一角を占めた。

一九三五-三六年:第二次エチオピア戦争→手段を選ばず勝利

一九二二年にクーデターで政権を獲得したムッソリーニ率いるファシスト党は当初積極的な対外政策で領土をさらに広げ、経済も好調だったが一九二九年の世界恐慌の影響で失業率と財政支出とが急増、国内の不安を外部に向けるべく民族主義的傾向を強め、以前撤退に終わったエチオピアの併合を企図して軍事行動を起こす。一九三五年十月、イタリア軍十万とエリトリア軍二万五千の兵が突然エチオピアに侵攻、毒ガスなど手段を選ばぬ戦術でエチオピア軍を撃破、イタリア空軍による戦略爆撃でエチオピア全土を蹂躙。皇帝ハイレ・セラシエの亡命と首都アディスアベバの占領によって第二次エチオピア戦争は終結、イタリア領東アフリカが誕生した。

一九三九年:アルバニア侵攻→電撃作戦で勝利

ナチス・ドイツのチェコスロヴァキア併合を目の当たりにして、当時イタリアが強い影響力を行使しつつあった独裁者ゾグーが統治するアルバニアの占領を決断。一九三九年四月七日、精鋭二万二千名を送り込んでアルバニア軍を一蹴し、わずか四日でアルバニア全土を掌握、支配下に置いた。以後アルバニアはイタリアに編入され、第二次世界大戦にもイタリア軍として従軍することとなる。

だが、第一次世界大戦以降のイタリアの対外戦争の勝利は勝てば勝つほど諸外国からの批難を集め外交的孤立を深めていくものだった。そして第二次世界大戦がはじまる。

一九世紀半ばの統一から第二次大戦までのイタリア王国はこのように、直接的な戦闘であればそれほど強いという訳ではないが、巧みに戦略的優位を確保しつつ外交関係を駆使して、あるいは外交の空白を利用して勝利を拾っていき、一時は大国の一角にまで上り詰めた一方で、その成功体験への固執と慢心、国内の不安定さのはけ口を軍事的冒険に求める政策などが対外的孤立へと繋がって、第二次世界大戦での敗戦へと転げ落ちていく、大日本帝国と似た経緯を辿っているので、むしろ日本とは強弱を競う関係というよりは失敗を共有している感じではないかと思います。同時代に限って言えば、戦術的劣勢を上手く誤魔化して、無理やりでも戦略的勝利へと次々つなげていく辺り、当時の日本より遥かに幸運というか外交巧者な気がしますね。

あ、もちろん近代国家の戦争なので勝利の裏には敗戦国の悲劇や苦難がセットになっており、ゲーム的に勝った負けただけで戦争を語るのは適切ではない、という点は一応書いておきます。

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