源頼朝死後の権力闘争粛清バトルロワイアルまとめ

建久一〇年(一一九九)、源頼朝が死んだ。死因には落馬説、病死説、暗殺説、果ては怨霊説まで諸説あり確かなことはわかっていない。しかし誕生まもない東国武家政権にとって偉大な指導者の死はすなわち政権を揺るがす大事件であり、以後権力を巡って御家人たちの間で、血で血を洗う戦いが始まった。

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1) 正治元年(一一九九)四月:「十三人の合議制」成立

十八歳にして第二代将軍となった頼朝の嫡子源頼家だったが、若い後継者の常か事あるごとに強権を発動しようとしたため、頼家の親裁を止めて、十三人の有力者からなる合議制で政権運営を行うことが定められた。そのメンバーは以下の通りである。

外戚:北条時政北条義時比企能員
武士:和田義盛(侍所別当)、梶原景時(侍所所司)、安達盛長足立遠元三浦義澄八田知家
文官:大江広元(政所別当)、三善康信(問注所執事)、二階堂行政中原親能

北条時政・義時親子は頼朝の妻政子の父と弟、比企能員は源頼朝の乳母比企尼の甥で頼家の側室若狭局の父、頼家の嫡男一幡の祖父。和田義盛は軍事を司る侍所の長(別当)、梶原景時は和田義盛に次ぐ侍所の次官(所司)、安達盛長は頼朝の流人時代からの股肱の臣、足立遠元は義朝時代から従い、頼朝挙兵時には最大規模の兵動員数を誇った有力豪族の一人、三浦義澄は三浦半島一帯を支配する豪族で父義明の代から義朝に仕え頼朝挙兵時にもいち早く兵を挙げるなど軍功著しい。八田知家は奥州攻めで活躍した常陸の豪族。大江広元は鎌倉政権の政務を掌握する文官の長、三善康信は問注所の長として鎌倉政権の司法を司る文官、二階堂行政は大江広元に次ぐ地位の実務官僚、中原親能は京都守護、公事奉行など朝廷との折衝を担当した文官。

だが、この十三人の合議制はすぐに破綻する。

2) 正治元年(一一九九)一〇月~正治二年二月:梶原景時の変

正治元年一〇月、有力御家人の一人結城朝光が侍所で「忠臣二君に仕えずというが、頼朝公が亡くなった時出家すれば良かった。今の世はなにやら薄氷を踏むような思いがする」と語った。頼朝時代から頼朝に対しても直言を辞さない人物で知られていたが、この一言を梶原景時が将軍頼家に対し「忠臣二君に仕えず、と言うのは頼家を謗るのと同じだ。結城朝光を処断すべき」と讒言したという話が北条政子の妹阿波局から朝光に伝わる。景時はかねてより御家人の目付役として鎌倉殿にその評価を報告する立場であったから、御家人たちから恨みを買いやすい立場だった。

これに驚いた朝光は三浦義村(義澄の子)に相談し、以前から景時の行動を良く思っていなかった御家人六六人が梶原景時に対する糾弾状を作成して大江広元を通じて頼家に提出する。広元は景時の功績を高く評価していたので難色を示したが、和田義盛に詰め寄られやむなく頼家に渡したという。頼家にこの糾弾状を見せられた景時は弁明せず、所領に退き失脚した。

翌正治二年、京都に向かっていた梶原景時親子が駿河国を通っている時、かねてから景時に恨みを持っていた在地の豪族らに見つかり、襲撃されて死亡する。鎌倉政権の成立に際して非情に徹し任務に忠実過ぎたために恨みを買った忠臣の最期だった。
梶原景時に続いて同年、景時の死の三日後に三浦義澄が、四月に安達盛長が病没し、十三人の合議制から一気に三人が抜け一年に満たず合議体制が破綻する。

3) 建仁元年(一二〇一)一月~五月:建仁の乱

城氏は越後の豪族で長く平氏に仕えていた。現当主城長茂の兄で前当主城資永は平家政権の北方の要として重きを置かれ、木曽義仲の挙兵時には即座に一万の兵を集め義仲勢の鎮圧に乗り出すが、出陣直前に急死する。この城資永の急死が文字通り源平争乱のターニングポイントで、城氏が体制を立て直す間に義仲が勢力を急拡大させ、平氏の都落ちへと怒涛の展開を遂げていく。平氏滅亡後は梶原景時を通じて鎌倉政権に臣従、奥州攻めで軍功を挙げて許され御家人に列せられていた。その梶原景時の滅亡は城氏の立場を危うくした。

建仁元年一月、城長茂は軍勢とともに京都に上洛、突如京都大番役であった小山朝政邸を襲撃、さらに土御門天皇の御所を包囲し鎌倉幕府追討の宣旨を要求する。さらに長茂の蜂起に呼応して一月下旬、長茂の甥資盛が越後で挙兵、鎌倉方の御家人を次々撃破し、この城氏の反乱に幕府は騒然となる。

二月、後鳥羽上皇による城氏追討の宣旨が下り、同月中に城長茂は京都で捕縛されて斬首となったが、越後の資盛は鳥坂城に籠って幕府軍を寄せ付けず、結局五月に落城するまで三か月以上戦い抜いた。この戦乱で越後の名族城氏は滅亡した。

4) 建仁三年(一二〇三)五月~六月:阿野全成暗殺

阿野全成は源義朝と常盤御前の間に生まれた源氏の一族である。源義経の同母兄、頼朝の異母弟にあたる。義朝死後、幼かったため出家していたが頼朝挙兵に際していち早く駆けつけて活躍。頼朝の信厚く、北条政子の妹阿波局を妻に迎えていた。頼家の代になってからは北条氏と結んで、北条氏を遠ざけ側近政治を取ろうとする将軍頼家一派と対立関係にあった。

頼家一派と北条氏の対立が深まっていた建仁三年五月、全成は突如謀反の疑いを掛けられて逮捕され、常陸国に配流となり、さらに頼家の命を受けた十三人の合議制の一人、常陸の八田知家によって殺害されてしまう。この結果、北条氏と頼家一派との対立は不可避となった。

5) 建仁三年(一二〇三)九月:比企能員の変

比企能員は頼朝の乳母を務めた比企尼の甥で頼家の乳父を務め、娘の若狭局も頼家に嫁いで嫡男一幡を産み、十三人の合議制の一員に名を連ねるなど、頼朝死後、特に梶原景時が誅されて以降、将軍権力を支える者として景時に代わり影響力を拡大、さらに北条氏に代わる外戚として君臨しつつあった。一方、一御家人に転落した北条氏は、その権力を回復させるべく、比企氏との対立を深めていた。

建仁三年七月、急に体調を崩した将軍頼家は翌八月には一時危篤状態となるなど危険な状態になる。ここで先手を打ったのが北条時政である。八月二七日、北条時政は独断で頼家危篤のため頼家の嫡男一幡と弟の源実朝に頼家の遺領を分与する家督相続の手続きを行う旨発表した。関東二八ヶ国地頭職と日本国総守護職を一幡に、関西三八ヶ国地頭職を実朝に相続するという内容で、実質実朝擁立の謀略であった。

これに不満を覚えたのが比企能員で、能員は快復しつつあった療養中の頼家に時政が謀反を起こして実朝を擁立しようと画策していることを伝え、頼家も時政討伐を決断、能員に命じた。

しかし、この密議が北条政子に漏れてしまい、政子からその知らせを受けた時政はさらに裏をかいて、秘密裏に大江広元の支持を取り付けると、比企能員に相談があると持ちかけて館に誘い出す。密議が漏れていると思っていない能員が油断して時政邸を訪れたところを捕縛、殺害した。能員謀殺の報を受けた比企一族は館に籠ったが北条軍に攻められ、頼家嫡男一幡とともに全滅する。

病気から快復した頼家は比企氏の滅亡に激怒して時政征討を和田義盛らに命じるが応じる者無く、そのまま将軍職を解かれ伊豆国修禅寺に幽閉される。九月七日、弟の実朝が三代将軍に就任。実朝擁立にともない北条時政は大江広元とともに政所別当に就任。特に自身の署名によって効力を発揮する「下知状」の発行によって御家人を従えることとなり、実質政務を掌握した。後に初代執権とされるが、「執権」と呼ばれるようになったのは、軍務もその統制下において真に鎌倉政権に君臨する子の義時のころ、さらに執権政治が制度として整うのは、その次、泰時の代になる。

6) 元久元年(一二〇四)七月:源頼家暗殺

出家の上で伊豆国修禅寺に幽閉されていた頼家だったが、元久元年七月一八日、時政の手の者によって暗殺された。首を絞められた上で局部を切り取られるという残酷な殺し方であったという。享年二三歳であった。

7) 元久二年(一二〇五)六月:畠山合戦

畠山重忠は鎌倉政権創業に際して最大級の軍功があった功臣である。石橋山で敗れた頼朝が再起の際に臣従し、以後常に先鋒として平氏、奥州藤原氏討伐に獅子奮迅の働きを見せた。義経配下で参加した一ノ谷の戦いでは断崖絶壁を駆け下りる奇襲攻撃「逆落とし」に際し他の武将が騎馬で下りるのに対して、自ら馬をかついで駆け下り剛勇を見せつけたエピソードが有名である。忠義の人として頼朝もいたく気に入っており、御家人の間でもその人柄から人望が篤い。北条時政の娘を妻としており、鎌倉政権成立後は北条氏に近い立場であった。比企の乱でも北条時政に従って比企館を攻撃している。

遡って元久元年(一二〇四)一一月のこと、畠山重忠の嫡男重保と時政の後妻牧の方の娘婿である平賀朝雅が酒宴で口論となった事件があった。このときは大騒ぎにならず収まったが、元久二年六月、平賀朝雅が牧の方に対し、重忠・重保親子に悪口を受けたと讒言、牧の方が畠山親子謀反と時政に訴え、時政は牧の方に押されて息子の義時に畠山氏討伐を相談する。義時は「畠山重忠に限って謀反などありえない」と、それを止めようとするが結局「牧の方が継母だから仇をなそうというのか」と押し切られる形で討伐に同意させられてしまう。

畠山重忠は秩父郡など武蔵国北西部一帯を拠点とする有力豪族であった。畠山領と隣り合う東部は前年滅亡した比企氏の所領比企郡で、北条時政の支配下に入ったばかりである。そして武蔵国南東部に勢力を有していたのが武蔵守を務めていた平賀朝雅であった。畠山氏を滅ぼせば、武蔵国は牧の方とその娘婿平賀氏を通じてまるまる北条時政の支配下に治めることが可能になる。

かくして、忠臣を謀反人に仕立て上げる画策が開始される。畠山重忠謀反、の知らせを受けた御家人たちが軍を整えて時政の下に集まり、鎌倉におびき寄せられている畠山重忠に対し総大将北条義時以下名だたる御家人の大軍が進軍を開始する。六月二二日、二俣川で百数十騎の畠山重忠一行に数千騎の鎌倉軍主力が襲いかかる。剛勇で鳴らした畠山一党だったが多勢に無勢で敢え無く討死にした。

帰陣後、義時は父時政に涙ながらに畠山重忠は無実であったと訴え、他の御家人たちも畠山重忠謀反が偽りの知らせであったことを知り悲しんだという。この畠山合戦は北条時政の命運が尽きるきっかけになった。

8) 元久二年(一二〇五)閏七月:牧氏の変

畠山氏を滅ぼすなど、専横極める北条時政はついに牧の方と図って実朝を廃し、平賀朝雅を新将軍に擁立しようと画策しはじめる。畠山重忠に謀反人の汚名を着せて謀殺した事件に続くこの動きに対して、北条政子・義時姉弟は時政・牧の方の追放を決定。政子は父時政邸にあった実朝の身柄を確保すると、義時邸に迎え、それにともなって御家人たちは実朝を擁した政子方にことごとく臣従する。

まさか自身の子供たちに裏切られるとは時政は想像すらしていなかっただろう。閏七月二〇日、北条時政を官職から解き、領地没収の上、時政と牧の方を強制的に出家させ伊豆国に追放、平賀朝雅は義時の命を受けた暗殺者によって殺害された。

これによって北条義時が政所別当に就任、時政は二度と政界に復帰することなく伊豆で幽閉されたままその生涯を終える。一地方豪族だった北条氏を一代で政権を代表する武家の名門に押し上げた梟雄は、自身の策に溺れ、晩節を汚して失脚した。

9) 建暦三年(一二一三)二月:泉親衛の乱

北条時政の失脚と北条政子・義時の権力掌握以降鎌倉政権は一時的な安定期を迎えていた。北条政子や将軍実朝の権威を後ろ盾としつつ、義時は御家人の権益保全など武士のための政治を重視して、東国武士の間に広く支持を拡大していった。事態が動いたのは時政失脚の八年後、建暦三年のことである。

二月一五日、千葉氏の居館を訪れた僧侶安念が捕縛される。安念の供述から発覚したことは、信濃の豪族泉親衛が前将軍頼家の子千寿を擁立して実朝を廃しようとしており、その仲間を集める使者として安念を遣わしているというものだった。即座に関係者が全国で捕えられ、親衛の元にも追手が向けられたがすでに逃亡した後で、以後行方が知れないままとなった。

陰謀露見から関係者一斉逮捕までの迅速さもさることながら、事後処理も不自然であった。関係者は流罪のみで死者無しであったのである。これまでの苛烈な権力闘争とは天と地の寛容さであった。そして、この陰謀発覚事件の意図は別のところにあったというのが通説である。すなわちすべては義時の自作自演で侍所別当和田義盛を罠にかけたとするものだ。

和田義盛は創業の功臣である。三浦義明の長男の子で、義朝以来源氏に仕え、三浦一族とともに頼朝挙兵から支えてきた。源範頼の平家討伐軍に軍監として従軍し芦屋浦の戦いで平家軍を撃破、平家の後背を断って西国の平家本軍を孤立させ、屋島の戦いから壇ノ浦の戦いに至るまでの勝利の立役者となった。幕府においては軍務を司る侍所別当に任じられ、以後政務の大江広元と並ぶ幕府の柱石として重きをなしていた。

陰謀事件に連座して逮捕された関係者の中に和田義盛の子義直・義重兄弟と甥の胤長がいた。驚いた義盛は将軍実朝に恩赦を願い出る。重臣中の重臣の願いに将軍実朝によって義直・義重兄弟について即座に恩赦がなされた。だが胤長については認められない。義盛は重ねて和田一族九八人を引き連れ胤長の恩赦を願い出た。和田義盛ほどの重臣がここまで頭を下げたのであれば、当然認められる、はずが許されない。わざわざ和田一族九八人の目前で胤長は縄を打たれて引き回された上で流罪となる。和田一族にとっては屈辱であった。

当時の武家社会の慣例として罪過によって幕府に召し上げられた所領は同族に返還するのが通例であった。胤長の所領も和田一族に返還されるもので、当然胤長の邸宅は和田義盛に返還される。ところが返還から七日後に突如、館を北条義時に与える旨決定され、義時の家臣が胤長邸に乗り込んできて和田氏の家臣を無理矢理追い出してしまうという事件が起きた。慣例を覆してまで与えられる異例の処置に和田氏はさらに屈辱を味あわされることになった。

そして、和田義盛に堪えられないほどの屈辱を与えることこそが、この陰謀を画策した北条義時の真の狙いであった。

10) 建暦三年(一二一三)五月:和田合戦

建暦三年五月二日、屈辱に堪えかねた和田義盛が挙兵する。驚いた将軍実朝の使いに義盛はこう答えたという。

「上(実朝)においては、全く恨みを存ぜず。相州(義時)が所為傍若無人の間、子細を尋ね承らんがために発向せんとするのみ」

謀反ではなく義時に対する私闘であり、義時に詳細を尋ねたいだけだということだった。私闘とはいえ和田義盛の元には続々と合力をすべく御家人たちが参集する。和田一族に土屋義清、渋谷高重、中山重政、大庭景兼、梶原朝景、横山党・波多野党や相模・武蔵の武士たちだ。ところが、同族であるはずの三浦一族の姿が無い。いとこの三浦義村とはこの挙兵に際して北条氏打倒で結んでいたはずだった。実は三浦義村は義時に内通していて、義盛が決起するや裏切り、義時に義盛決起を知らせに走っていたのだった。

午後四時、和田軍が北条義時邸を襲撃したとき、すでに義時は逃亡した後だった。和田軍と北条軍が対峙する。しかし武勇に秀でた和田軍に北条軍はあっという間に蹂躙された。その北条軍の中に裏切り者の三浦義村がいたこともあって、和田軍の戦意は著しく高まり、勢いに乗って一気に退却する北条軍に総攻撃をかけた。しかし義時の姿が一向に見当たらない。攻めて攻めて攻めまくり、気が付くと和田軍の一隊和田義秀隊は将軍御所に突入してしまっていた・・・

巧みな罠だった。和田軍が将軍御所に突入したことで、和田軍は北条氏との私闘を戦っているはずが、賊軍にさせられていた。翌朝、鎌倉で市街戦を行う賊軍・和田軍に対し三方から官軍・鎌倉軍が包囲殲滅に乗り出す。和田軍は猛烈な勢いで奮戦するが数の差は埋められず、二日後、和田義盛を始め和田一族および和田氏側についた武士たちはことごとく戦死。鎌倉政権創業最大の功臣和田氏は滅亡した。

和田合戦の後、北条義時は和田氏の所領であった相模山内荘(鎌倉市西北部から横浜市西南部にかけての一帯)をその支配下に治め、鎌倉に対し軍事力を直接行使することが可能となった。さらに、義時は和田義盛が就いていた軍務の長侍所別当に就任、政所別当とあわせて政務・軍務を一人で掌握する。以後侍所別当は北条氏が代々専有するところとなった。鎌倉政権に君臨する「執権」職の登場である。

11) 建保七年(一二一九)正月:源実朝暗殺

二代将軍頼家死後、戦死した一幡以外の頼家の子らはそれぞれ寺院か有力御家人に預けられていた。頼家の次男にあたる善哉は園城寺に預けられて僧侶としての修業を積み、建暦元年(一二一一)、十二歳のとき、出家して公暁と名乗り、その後鶴岡八幡宮別当に任じられていたという。

建保七年正月二七日夕方、将軍実朝は一千騎を引き連れて鶴岡八幡宮を参詣、境内は三日三晩降り続いた雪が深く積もっていた。出立前、二つの出来事があった。随行して実朝の剣を預かり、傘を差す役目であった北条義時が急病のため、文章博士源仲章に交替していた。もう一つは重臣大江広元が、わざわざ頼朝の例を引いて鎧の着用を薦め、これに対し仲章が鶴岡八幡宮参詣での鎧の着用の先例は無いことで反対したため、実朝は鎧を着なかったという。

午後六時ごろ、鶴岡八幡宮での儀式が終わり、実朝と仲章が境内の石段を降り、中腹あたりまで来たとき、突如物陰に潜んでいた公暁が実朝に斬りつけ、続けて仲章を殺害、実朝の首を抱えて逃走した。公暁一人の犯行であったとも、数人がかりであったとも言う。護衛にあたっていた武田信光らがすぐに追跡にかかったが取り逃がし、雪の中に二つの死体が転がっていた。

逃走した公暁は自身が将軍職に就くなどとした使者を三浦義村に送りつけ、実朝の首級を手に三浦義村邸を目指している途中で義村の配下の者に待ち伏せされて殺された。あるいは義村の追手を逃れて山中で餓死したとする説もある。

雪の中の将軍暗殺というセンセーショナルな事件の真犯人については諸説あり定まっていない。公暁単独犯行説、直前で難を逃れた北条義時黒幕説、また、実朝と義時の二人を殺すことで鎌倉政権の実権を握ろうとした三浦義村黒幕説などだ。義時黒幕説が有力ではあるが余りに出来過ぎており、すでに実権を握っていることや実朝を殺害する動機が低いため、むしろ実朝と義時が消えて最も得をし、かつ公暁と連絡を取り合い結果的に口封じを行った格好の三浦義村黒幕説も根強いようだ。

いずれにしろ、これで頼朝以来の源氏将軍は三代で絶えることになった。実朝の死から半年後、九条道家の子三寅丸が二歳で将軍として迎えられた。四代将軍藤原頼経である。幼い藤原将軍の後見として将軍の代行を行ったのが北条政子であった。このときから彼女は「尼将軍」と呼ばれるようになった。頼経の下向に際しては後鳥羽上皇の妨害があったという。そして、この鎌倉政権の度重なる内紛の果ての源氏将軍断絶が西国政権である後鳥羽院政に鎌倉倒幕の機運を巻き起こすことになる。

12) 承久三年(一二二一)五月:承久の乱

平家は都落ちに際して安徳天皇も連れ去ったが、安徳帝不在の中で後白河院によって安徳帝の四歳の異母弟尊成親王が即位することになった。後鳥羽天皇である。後鳥羽帝の間当初は九条(藤原)兼実が、続いて土御門通親が朝廷の実権を握ったが、建仁二年(一二〇二)、土御門通親の死によってすでに上皇になっていた後鳥羽院は治天の君として君臨することになる。以後、鎌倉の東国政権に対して治天の君を頂点とする西国政権の確立のため朝廷の立て直しに尽力、制度改革を積極的に行い、鎌倉が源実朝の代になってからはその取り込みを図り、内紛で疲弊する鎌倉政権と並び立つほどの権力を回復していた。

かねてから、北条政子と上皇の乳母卿二位との間で跡継ぎの無い実朝の後継として皇子下向の密約があったという。朝廷と鎌倉との権力の融合が模索されていた。ところが、実朝暗殺が事態を一変させる。もはや鎌倉政権は瓦解寸前なのではないか?謀略と内紛を繰り返す北条氏から人心は離れているのではないか?自信を回復していた朝廷では鎌倉政権の取り込みではなく、武力による鎌倉打倒の風潮が強まっていく。

承久三年五月一五日、後鳥羽院は北条義時追討の宣旨を下す。かねてから後鳥羽院は武に親しみ鎌倉有力御家人を多く従者として従えており、また藤原秀康らを通じて西国の軍事力の編成を行っている。北面の武士に続いて西面の武士も新設していた。そして北条義時打倒の密使を、和田合戦以降鎌倉政権において北条氏に次ぐ勢威を誇り、反義時勢力の筆頭として北条氏と対立を深めつつあった三浦義村に送る。後鳥羽院の下に反北条勢力が結集される・・・はずだった。

しかし機を見るに敏な三浦義村はここで北条義時に付く。上皇の密書を義時に見せ、むしろ西国勢力打倒を訴えて東国武士の糾合に乗り出した。さらに西国の諸武士たちも守護ら高位の豪族たちは院の元に集まったが、実際に戦う兵がほとんど集められなかった。実際に彼らが恩顧を受けていたのは鎌倉政権であったからだ。内紛続きの東国御家人たちは一致団結して西国政権に立ち向かう。

このときの北条政子の演説は史上名高い。

「皆心を一にして奉るべし。これ最期の詞なり。故右大將軍朝敵を征罰し、關東を草創してより以降、官位と云ひ俸祿と云ひ、其の恩既に山嶽よりも高く、溟渤よりも深し。報謝の志これ淺からんや。而るに今逆臣の讒に依り非義の綸旨を下さる。名を惜しむの族は、早く秀康・胤義等を討取り三代將軍の遺蹟を全うすべし。但し院中に參らんと慾する者は、只今申し切るべし。」

北条義時の嫡男泰時に率いられた東国軍一九万騎が各地の西国勢力を次々撃破し、六月十五日、ついに京都を制圧する。後鳥羽院は出家の上で隠岐へ、順徳上皇は佐渡、土御門上皇は土佐へそれぞれ流され、仲恭天皇は廃帝となり、九歳の茂仁親王が後堀河天皇として即位した。また後鳥羽院近臣の葉室光親ら五人が斬首、京方の武士たちもことごとく処断された。

この結果、朝廷は武力を完全に喪失し、京都や西国の治安は新たに新設された「六波羅探題」が担うこととなり、鎌倉政権に従属することでしか朝廷は存続しえない状態にまで追い込まれることとなった。一方北条氏を頂点とする鎌倉政権は西国から没収した所領も含めてより強大化し、その管理のためさらなる体制の整備が必要となっていく。

13) 貞応三年(一二二四)六月:伊賀氏の変

貞応三年六月一三日、執権北条義時死す。血で血を洗う権力闘争を勝ち抜き、父時政すら追放して鎌倉政権内の政治軍事を掌握して執権職を確立した彼は源頼朝の実質的後継者であった。

だが、その死はさらなる後継者争いを招来する。義時が死んだとき嫡男泰時は京都にあったが、かれは直接鎌倉に向かわず、途中で伊豆に立ち寄り兵を集め、さらに叔父の北条時房、娘婿の足利義氏と合流して鎌倉に入る。それは泰時を殺害しようという陰謀を予見していたからだった。

陰謀の首謀者は義時の五番目の妻伊賀の方である。伊賀の方は義時との間に政村、実泰と貴族一条実雅の妻となった娘がいる。彼女は実家の兄弟である伊賀光宗、朝行、光重ら兄弟とともに娘婿の一条実雅を藤原頼経に代わって新将軍に、子の北条政村を執権にしようと画策、この陰謀の後ろ盾として政村の烏帽子親であった三浦義村を招き入れていた。実は三浦義村が首謀者であったとも言われる。

泰時と伊賀の方との間に一触即発の空気が漂う中、北条政子が登場する。政子は大江広元とともに泰時に執権就任を命じ、続いて密かに三浦義村を訪れて義村を説得し伊賀氏からの離反に成功する。おそらく義村自身の助命と義村が後ろ盾となっていた政村の助命を約束していたかもしれない。結局、政子の権威でもって事態は収拾され、伊賀の方は伊豆に配流、伊賀兄弟は所領没収の上信濃、九州に流され、一条実雅は京都に追放となった。伊賀の方は配流後四か月で謎の死を遂げている。北条政村は一切咎無しであった。

14) 執権政治の確立

泰時の執権就任当初は北条政子の後ろ盾と大江広元の補佐を受けつつ不安定なものであったが、嘉禄元年(一二二五)、北条政子と大江広元が続けてこの世を去ると、個人の裁量によるところが大きかった鎌倉政権の体制を組織化する施策を次々と打ち出していく。

貞応三年(一二二四)、北条氏の「家令」職を新設、尾藤景綱を任命。
嘉禄元年(一二二五)七月、北条時房を新設の「連署」職に任命。
嘉禄元年(一二二五)一二月、「評定衆」創設
貞永元年(一二三二)七月、「御成敗式目」制定

家令」は後に複数制に移行して「執事」と呼ばれるようになり、その筆頭者を「内管領」と呼ぶようになる。「内管領」は北条氏に直接仕える武士「御内人」の筆頭者で北条氏直属の家臣団を統率する役割を担い、やがて登場する得宗専制体制を支えることになる。

連署」は事実上の副執権で幕府の公文書に執権とともに連名で署名する立場である。以後、北条氏の有力者が順次就任していき複数執権制がとられていくことになる。

評定衆」は武士・文官十一名から構成される有力御家人の会議で執権と連署をあわせて幕府の行政・司法・立法機能を担った。この評定衆の創設によって幕府は集団指導体制に移行、さらに「御成敗式目」の制定によって合議制と法治主義に基づく執権政治が確立された。

また、泰時は父義時の法名を取って北条氏の惣領となった者の称号を「得宗」と呼んだ。ここに支配者としての「北条得宗家」が誕生する。独特の称号を付けることで北条氏の権威が強調されるとともに、一門の団結性を高める効果を持ち、以後北条氏一門の内部では内紛はほとんど見られなくなっていく。
日本史上稀と言える苛烈さを発揮した血で血を洗う権力闘争はこうして終結した。

参考書籍
・奥富 敬之著「鎌倉 北条一族
・細川 重男著「「鎌倉幕府の滅亡 (歴史文化ライブラリー)
・本郷 和人著「天皇はなぜ生き残ったか (新潮新書)
・本郷 和人著「武士から王へ―お上の物語 (ちくま新書)

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