日本史上形骸化を繰り返す監察制度と将軍の隠密「御庭番」の活躍

興味深いことに、律令制から徳川政権に至る日本の歴代中央政権に共通する特徴の一つに、“監察制度の運用が上手くできない”という点がある。官吏や地方政権の不正を監視する制度を整えようとしても、ことごとく形骸化してしまうのだ。(ちなみに「藩」が使われるのは明治期以降のことだが、便宜上登場する大名の領地は藩と記載している→「大名の領地とその支配機構を藩と呼ぶようになったのはいつ?」)

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1)中国・朝鮮における監察制度の発展

監察制度は古代中国で発展した。広大な領土を専制的な皇帝権力が統治する上で官吏や地方官の不正を防ぐために皇帝直属の監察官である御史が設置されて全国に秘密裏に巡見・調査(私行と呼ばれる)を行い、状況を報告し、また権限を与えられて処罰を行った。必要に応じて軍を率いることもあった。歴代王朝ともその機能を有して按察史・採訪史・提刑史などの名称で監察制度が発達していた。余談だが漢王朝では皇帝直属のスパイとして巫女が活躍していた(前漢の武帝や後漢の和帝が巫女を遣わした記録が残っているとのこと)という。

朝鮮半島でも李氏朝鮮が明に倣った中央集権国家化の過程で監察制度を導入、当初は地方に常駐してその地方を監察する「巡按御史」を導入するが定着せず、十六世紀ごろ中央政権から派遣される「暗行御史」が制度化された。地方に秘密裏に潜入して不正を調査し役所の差し押さえを行い、役人を処断するという役割で、当初は暗行御史の独断で一定の地位以下のものについては罷免まで可能だったが、後に国王に報告の上で罷免という形に変更になった。中国の制度は不定期・臨時的な監察制度だったが、「暗行御史」は恒常的な制度であるという違いがある。

中国の場合、歴代政権とも当初から強い皇帝権力を志向しつつ生まれる一方で、実体としては地方が割拠的であるという点でその統制のため監察制度が発達し、朝鮮の場合、相対的に各地方政権より王権の方が弱いにも関わらず、中国の影響を強く受けてしまうことで、本来なら緩やかな連合体的な体制の方が自然であるのだが、中央集権化を志向せざるを得ないため恒常的な強い監察制度が発達したということらしい。

2)日本での監察制度の導入と挫折

日本では七世紀に唐の制度に倣って律令制が導入された際に巡察使が設置され、日本書紀にも天武天皇が使者を派遣して国司、郡司、百姓の消息を巡察させたというのが最初の例であるというが、奈良時代以降廃れ、続いて中央から派遣されるのではなく地方在住の制度である按察使が設けられたが、ほどなく形骸化して奈良時代後半以降は陸奥出羽以外任命されなくなったという。次に巡察使・按察使が登場するのは明治になるが、これは戊辰戦争後の東北地方慰撫を目的とした役職であった。

『中国直輸入の監察制度は、日本では定着せず、名目だけに終わったのである。それは中国の制度の導入がうわべだけのものであり、社会の実質に合っていなかったためであろう。』(金文京「水戸黄門「漫遊」考」P115)

鎌倉時代になると『執権の側近が、臨時に特定の目的で、定められた諸国を巡視する巡検使の制度があった』(金P116)が、秘密裏の調査という事実は無く、監察というよりは単純に視察であったらしい。

暗行、私行などと呼ばれるような秘密裏の潜入調査と強権発動を伴う監察制度で日本初のものは室町末期のことだ。越前朝倉氏の「朝倉俊景十七ヵ条」第十四条には、年に三回、有能な部下に国中を巡回させ民衆の訴えを聞いてそれを裁かせる、また領主自身が身なりを変えて巡検するのも良いという趣旨の条文があり、実際に監察が行われていたらしい。戦国大名が分国法を定めて自国を中央集権化しようとする際に監察制度が導入され、実効性のあるものとして登場したと考えられる。

3)江戸時代の監察制度導入史

江戸時代、徳川政権は構造的に封建制と中央集権制との二重性を矛盾として孕みつつも、中央集権的志向を徐々に強めて体制を整備していった。古代の律令国家が中国式中央集権体制の体裁でありながら、その実、封建的・分権的であったというのと反対に、江戸幕府は表面的には封建的でありつつ実態は中央集権的であったとも言える。ゆえに中央集権化にともなう諸々の監察制度が整備されていった。

常置職として大目付・目付が設置され諸役人の監察を担ったが『大目付は中期以降大名や諸役人の監察官という性格が次第に薄れ、各藩への法令伝達や、江戸城内における大名の席次や典礼などをつかさどる、式部官的な色彩が濃くなる』(深井雅海「江戸城御庭番 徳川将軍の耳と目」P2)。また、各大名領に派遣され監察を行う諸国巡見使や国目付が設置されていたが、こちらも形骸化していった。

国目付」は『大藩で幼少の藩主が襲封した際に派遣されるもので、将軍からの下知状があたえられ、通常、数ヵ月滞在して領内の巡見などをおこな』(金P120)う役職であったが費用を派遣先の大名が負う点で公平性を保てず、六代将軍家宣以降派遣頻度は減少し形骸化した。

諸国巡見使」は当初は三年に一度、五代将軍綱吉以降は将軍の代替わりの際に派遣された全国を視察する役職で、全国を六または八地域にわけ、一地域に大名・使番・両番の三人一組が百人以上の供をつれて視察にまわった。当然秘密行動がとれるわけではないので、視察のみに役割は限定され、視察される大名側も準備万端整えてそれを待つということで著しく形骸化していった。

辛うじて監察の実態を保ったのが「国々御料所村々巡見使」で、これは幕府の天領(直轄領)を十地域に分け三人一組で巡回するもので、天領の実態に沿った対応が行われて実効性を保つことが出来たという。

4)江戸幕府の隠密たち

集権的と封建的という二重構造の駆け引きが中央集権的体制を前提とする監察制度を空洞化させていったことになるが、このような監察制度に代わって発展したのが御庭番などに代表される将軍直属の隠密制度であった。

江戸幕府成立時に隠密として活躍していたのが「伊賀者」「甲賀者」と呼ばれるいわゆる忍者である。彼らは戦国時代に間諜や斥候などとして活躍し、その一部が江戸幕府に召し抱えられてからも大坂の役などで間諜として活動したり、諸大名の調査などに遣わされたりしている。寛永三年(一六二六)の四国・九州諸大名の調査報告書が現存しており、甲賀者がその任を務めたという。しかし、政権安定化にともなって伊賀者・甲賀者は江戸城警備へと組織が再編成され、隠密機能は消滅していった。伊賀者は大奥の広敷(玄関)警備、甲賀者は普請場(建設現場)の職工の勤怠管理がその任務になった。

彼らに代わって隠密集団となったのが目付とその配下の徒目付・小人目付で、旗本・御家人の監察がその役目であり、老中や目付の指揮下で各地に潜入調査を行い、調査結果を老中に報告していたという。

しかし、幕府の政治行政機構が確立し、実務を老中が取り仕切ることになり、将軍自身は江戸城に籠って外部の情報からも隔絶されてしまったことで、特に将軍が幼少であったり、一門からの養子で手足となる部下がいない場合、老中の言いなりになりやすく、結果として将軍権力の低下を余儀なくされる。

5)将軍のスタッフ機能としての御庭番の登場

そこで八代将軍吉宗のころに新設されたのが「御庭番」である。吉宗は将軍権力が制度的に形骸化しやすい点をふまえて、享保元年(一七一六)の将軍就任時に出身家である紀州の部下たち二〇〇名余りを一気に幕臣に編入、そのうち一七名を隠密活動に従事させた。当初前述の伊賀者が従事した大奥警備の広敷役人に任じ、享保十一年(一七二七)、完全に独立させて伊賀御庭番と名付けた。のち、御庭番の地位向上に伴い、両番格御庭番を筆頭に小十人格御庭番までが直参旗本以上の地位の者、以下、添番御庭番、添番並御庭番、伊賀御庭番という格付けで体制が整えられ、以降代々御庭番は老中など政治行政機構から完全に独立した将軍直属の調査機関として機能する。

御庭番は一般的なイメージだと影で暗躍する忍者だが、実際は違う。将軍のスタッフ機能であり、御庭番として実績を残した後は旗本に取り立てられたり、財務の責任者である勘定奉行や、地方の直轄領を管理する遠国奉行など幕府の要職に就くことになる超エリートコースである。

御庭番の役割は、表向きは御庭番所に詰めての宿直や火災時の案内、将軍家若君の御用などであったが、裏の職務として隠密調査が行われた。御庭番への指示は将軍自らによるか、御側御用取次役によって行われる。その内容には「江戸向き地廻り御用」と「遠国御用」の二種類があった。

6)田沼意次を失脚させた御庭番レポート

江戸向き地廻り御用」は江戸近辺に関する調査で役人の風聞・不正・勤怠の調査や、一揆や打ちこわしなどが起きた後の民情調査、またそれらに対する奉行所などの対応についての調査などが行われた。その調査例として深井前掲書にある天明七年(一七八七)五月の飢饉を背景とした江戸での打ちこわしについての調査報告が興味深い。

御庭番の梶野平九郎矩満による報告書によると、今回の打ちこわしは、事前に米価暴騰によって町の代表者たちから救済措置願いが出ていたにも関わらず町奉行曲淵甲斐守がそれを黙殺、打ちこわしの前兆があり与力が報告したにも関わらずそれを放置し、暴徒鎮圧の対応の悪さなどもあって拡大するという町奉行の対応の悪さを指摘、その更迭を上申している。

さらに梶野は暴動の要因の一つであった米商人の買い占めの背後に元老中田沼意次一派の関与があることを突き止め、田沼意次と治安維持組織である火付け盗賊改のトップであった堀帯刀秀隆、さらに町奉行所の与力らが商人と結託して米買い占めに便宜を図っている旨の報告書を作成して上申している。この調査報告書は政界を揺るがす大疑獄事件に発展する。

田沼意次(歴史的な評価も功罪相半ばする人物だが)は、前年の天明六年(一七八六)、十代将軍家治の死去にともない老中職を退いていたが政界に隠然たる影響力を確保しており、松平定信派と熾烈な政争の真最中であった。御庭番を束ねる御側御用取次役は四人(横田準松・本郷泰行・田沼意致(意次の甥)・小笠原信喜)置かれていたが、そのうち小笠原以外の三人が田沼派で、田沼派に不利な報告はほぼ握りつぶされていたという。この頃には御側御用取次にも政治家たちが影響力を行使しようとするようになり御庭番も形骸化しつつあった。しかし、この報告書はその間隙を縫って梶野から小笠原へと渡り幼少の将軍家斉に代わり松平定信主導で一気に田沼派の処断が実施されることになる。

御用取次役の横田・本郷・田沼が暴動事件直後の五月中に続けて解任、町奉行曲淵甲斐守も同様に町奉行職を解かれ西丸留守居役に左遷、堀は翌八年九月で解任され、堀に代わって火付け盗賊改方のトップに任命されるのが後に物語で親しまれる鬼平こと長谷川平蔵であった。これによって田沼派の政界への影響力は一層され、松平定信が新たに老中に就任、寛政の改革が始まる。

この調査を行った梶野平九郎矩満は抜群に有能かつ骨のある人物だったらしく、様々な不正調査から密貿易の実情やその対策、江戸に出稼ぎ人が集中して地方都市の過疎化が進む少子化・都市問題の調査・対策など次々と報告書を作成して政策提言を行い、その提案が少なからず幕府の諸政策に反映されており、寛政の改革を支える優秀な政策ブレーンであったらしい。後に勘定吟味役という勘定奉行の補佐役、いわば幕府財政のナンバー2に昇進。その子梶野土佐守平助は父の後を継いで御庭番で功績を残し勘定奉行にまで昇進している。

7)「遠国御用」と「道中筋風聞書」

遠国御用」は江戸近辺以外の地方に関する調査で、御庭番が二人または三人一組で必要に応じて地方に派遣されて政情調査を行うものだ。形骸化していた諸国巡見使と別に、将軍就任時に密かに派遣されたりしている。基本的に半年~一年がかりで行う大規模な調査になるので重要度もかなり高くないと実施されにくく、それほど頻度が多いわけではないようだ。

深井前掲書では水野忠邦による天保の改革の際の武蔵川越・出羽庄内・越後長岡の三藩の領地替えを実施するかどうかの事前調査として派遣された例と、幕末の大老井伊直弼殺害後に薩摩の動静を調査するために派遣された例、寛政期の調査などが掲載されているが、後者については薩摩の警戒が強く結局薩摩には入れず長崎で周辺調査を行い江戸にもどっている。

御庭番には各地に協力者がいたらしく、その協力者を通じ、時に供を数名従え身分を隠して移動したらしい。また移動経路上にあった各地域の動静調査も兼ねており、調査対象と別に「道中筋風聞書」という報告書も作成される。

例えば寛政期の遠国調査にともなう道中筋風聞書には家康の謀臣として名高い本多正信の弟正重の九代目の子孫・駿河田中藩主本多正温が家来も連れず、自分一人で領内を歩き回って風聞調査をし、賭博を取り締まり領内をちゃんと治めている、という記載があったり、徳川四天王の一人酒井忠次の子孫・近江膳所藩主本多康完について、藩財政が逼迫して領民が苦しんでいること、その理由が家老らの専権によるものなどという記載がある。本多正温は領内に紀州みかんを流通させるなど経済活性化に努め、後に名君として知られることになる。近江膳所藩はこの四年後幕府の介入で家老らが一掃され、新たに就任した家老の下で藩政改革が断行、財政立て直しが図られたという。

経費についても支度金百両とともに、報告書作成後の成功報酬を与えられるなど一大調査プロジェクトであったようだ。

日本の近世までの各政権では中央集権化を前提とした強権を伴う監察制度は発展せず、造られたとしても形骸化して機能しなかったが、一方で御庭番のようなリサーチ機能が著しく発展したというのが非常に面白い。それを生かせるトップ次第では大規模な組織改革や不正の摘発も可能であった。

しかし、その機能もまた、空洞化させようという政治的介入との駆け引きの舞台にもなっていたようで、鶏と卵ではないが、将軍権力を強化するための情報収集組織である御庭番も、将軍権力が弱体化すると調査結果を生かすことが出来ず機能不全を起こしてしまう。このあたりの制度史は組織というものの難しさ・脆弱さが見えてきてとても面白いと思う。

この記事の参考書籍である以下の二冊は抜群に面白いのでおすすめ。

水戸黄門「漫遊」考 (講談社学術文庫)
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この本については以前書いた「水戸黄門諸国漫遊物語はどのように生まれたのか?」もあわせてご参考に。

江戸城御庭番―徳川将軍の耳と目 (中公新書)
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