イスラエルとパレスチナの対立を巡る戦乱の歴史まとめ

承前:憎しみの連鎖としてのユダヤ・パレスティナ対立前史

スポンサーリンク
スポンサーリンク

1)「パレスチナ解放機構(PLO)」の誕生

一九四七年の国連パレスチナ分割決議によるイスラエルの建国から二度の中東戦争のアラブ側勢力の敗北、パレスチナ人勢力に対する国際社会からの無慈悲さ、繰り返されるイスラエルのパレスチナ・ゲリラに対する苛烈な攻撃、パレスチナ人問題を主導するアラブ連盟とその主導で一九六四年に創設された「パレスチナ解放機構(PLO)」の無策など、一九六〇年代のパレスチナ人を取り巻くありとあらゆる状況は袋小路に入っていた。

最早、国家や国際連合の枠組みには頼るのではなく、自らの手でイスラエルを倒しパレスチナ人の土地を取り戻すしかない、という悲壮感漂う空気が広がっていく中で、反イスラエル活動を行う組織が次々と誕生する。

その中の一つ、「パレスチナ解放運動(ファタハ)」は一九五七年にシリアの支援の下でヤーセル・アラファトを指導者として創設され、一九六五年に武装闘争を開始したパレスチナ人ゲリラ組織である。一九六七年にPLOに加盟、一九六八年、ヨルダン川東岸でイスラエル軍の撃退に成功して反イスラエルゲリラ勢力の中核に成長、翌六九年、アラファトがPLO執行委員会議長に就任し、「民主主義的・非宗教的パレスチナの建設」をスローガンに、形骸化していたPLOをパレスチナ人独立運動の指導的組織に発展させた。

ファタハとともにPLOの中核組織となったのが、一九六七年に複数の組織が合流して創設された「パレスチナ解放人民戦線(PFLP)」で、当時、ハイジャックや爆破テロなど過激な手法で国際社会の注目を集めることで、パレスチナ人問題を訴える戦略を重視する組織であった。ファタハ同様に世俗的なパレスチナ人国家の建設を目的としている。

2)テロリズムについての簡単な整理

以前も書いた通りテロリズムは非常に政治的な用語で、論者の数だけ定義が存在し、また本質的に定義不可能性が存在しているが、アラン・B・クルーガーの「前もって計画された政治的動機に基づく暴力」「直接の犠牲者だけでなく広く大衆に影響を及ぼそうとする意図を持った、準国家組織や個人によって実行されるという形のものである」(クルーガーP23)という定義に従うならば、この当時のPLOの活動は文字通りテロリズムであった。

何が人をテロリズムに走らせるのか。テロリズムの要因と貧困や教育水準の低さとは現在の研究では概ね否定されている。テロリズムの発生と強い相関関係にあるのが市民的自由と政治的権利の抑圧であり、その両方の問題が平和的に解決する方法が閉ざされてしまっている時、その問題の解決のため人はテロリズムと言う暴力の行使を選択肢の中に入れることになる。

一九六〇年代のパレスチナ勢力にとって、政治的解決の道は閉ざされていたも同然だった。頼みの綱だったアラブ諸国は三度に渡る中東戦争でイスラエルに軍事的に完敗し、国際社会はイスラエルに配慮して見て見ぬふりをするか、根本的な解決を先送りにしようとし、そしてイスラエルは圧倒的な軍事力で来る日も来る日もパレスチナ人の迫害と殺戮を繰り返す。同胞のこの苦しみを、嘆きを、悲劇を覆すには暴力を持って訴えるしかないと、追い詰められていた。

暴力的解決は正当化されるべきではないことは現代社会で自明のことであり、同時期、政治的問題を暴力的手段によらず、平和的手法をもって解決しようと試みる市民的不服従運動がインドを始め諸外国で盛り上がっていた。しかし、当時、パレスチナの人々は確かに極限まで追い詰められていたということもまた厳然たる事実であり、それゆえに彼らは平和的な手法ではなくテロリズム的手法を選択した。

一九六〇年代後半からPLOによる対イスラエルテロが活発化する。一九六八年一一月、エルサレムの市場で爆破テロにより一二人が死亡。一二月アテネでイスラエル航空の旅客機が攻撃され、この報復にイスラエルがPLOの拠点となっていたレバノンの旅客機を撃墜、レバノンで、ガザ地区で次々とテロが起こり、イスラエルが報復に乗り出し、テロと報復の無限の連鎖が始まる。

3)「黒い九月」と「ヨルダン内戦」

一九七〇年九月六日、PFLP関連組織が旅客機四機を同時ハイジャックしてヨルダン首都アンマン近郊のPFLPの拠点であった空港に降り立ち、乗員乗客を人質に、当時、中東においてパレスチナ問題を棚上げしてイスラエルとの和平を模索していたヨルダン王国政府の姿勢を批判し、パレスチナ問題の解決や逮捕されていたPFLP同胞の解放などを要求した。その後の国際社会を巻き込んだ交渉で人質は解放されたが、見せしめとして無人の旅客機三機が爆破されるという事件が起きた。

しかし、これで収まらないのはヨルダン国王フセイン一世である。九月一四日、国王は国内からのPLO勢力一掃を決断し、戒厳令を敷くと国内のパレスチナ・ゲリラに対する総攻撃を開始する。このヨルダン国王によるパレスチナ人粛清「黒い九月」事件から始まる「ヨルダン内戦」は翌一九七一年六月に終結し、パレスチナ人二万人が死亡、パレスチナ人はヨルダン王国から追放されることとなったが、ヨルダン王国もまた、アラブ諸国からの激しい非難にさらされ孤立、苦境に立たされることになる。

4)「第四次中東戦争」とPLOの路線対立

一九七一年九月、エジプトではヨルダン内戦の仲裁の心労で急死したナーセル大統領に代わって、サーダートが大統領に就任すると、度重なる対イスラエル戦争の雪辱を果たすべく軍事力を増強し、一九七三年一〇月六日、シリアや孤立を解消したいヨルダンとともにイスラエルに奇襲攻撃を仕掛けた。ユダヤ教の贖罪日で虚を突かれたイスラエル軍は総崩れとなり戦車部隊が壊滅するなど大損害を受ける。しかし、その後イスラエルが盛り返し、一進一退の中で米ソの仲介によって、一〇月二二日、停戦を迎えた。「第四次中東戦争」である。

第四次中東戦争はどちらが勝利したと明確に言えないものであったが、エジプトを中心とするアラブ連合軍がイスラエルに痛撃を与えたという点でアラブ諸国にとっては画期的な戦果であり、これを受けてエジプトはイスラエルと和平の道を模索するようになる。

七一年にヨルダンを追い出されてからPLOはレバノンにその拠点を移していた。PLOにとってもこの第四次中東戦争の結果はターニングポイントとなる。アラブ諸国とイスラエルの和平の道筋にPLOも乗って進展させるべきという議論が起きた。

アラファト議長率いる「ファタハ」は「ミニ・パレスチナ国家案」を取る。そもそもの一九四七年の国連決議案ではパレスチナの五二%をユダヤ国家にあてるとしたが第一次中東戦争の結果、イスラエルがパレスチナ地域の七七%を占領する。「ミニ・パレスチナ国家案」はまずはヨルダン川西岸やガザ地区などの残り二三%の地区にパレスチナ国家を樹立すべきとした案である。

これに対してPPLPは「ミニ・パレスチナ国家案」では『離散したパレスチナ難民を収容することができない』(広河P64)として拒否し、全パレスチナの解放に固執する。そもそも解放すべきはヨルダン川西岸やガザ地区だけではなくイスラエルに支配されたパレスチナ全域であるはずであると考える。またPFLPから分裂した「パレスチナ解放民主戦線(DFLP)」は「二段階革命論」として『まず西岸とガザを解放して、そのあと全パレスチナの解放』(広河P65)を行うべきとする。

最終的にこの議論は一九七四年、『「少しの土地でもシオニストの手から解放したら、その土地に民族的権威(ナショナル・エンティティ)を樹立していく」という内容の宣言が採択』(広河P65)されることで一応のコンセンサスが取れ方向性が定められることになった。

このような流れの中で一九七四年には国際連合でアラファト議長が演説するなど、PLOは一気に政治的地位を向上させ、PLOがパレスチナを代表する公的機関として認められ、国連にオブザーバー資格が認められるとともに、パレスチナ人の自決権が承認されることになった。
この頃、PLOが拠点を置いていたのがレバノンのベイルートである。レバノンは一九七〇年代後半以降、イスラエルとパレスチナ人勢力との闘争の主戦場となった。

5)「レバノン内戦」

レバノンは複雑な問題を抱えた国家である。もともとレバノンはオスマン帝国領のイスラーム教ドゥルーズ派領主の支配地域(「小レバノン」)を指したが、一九世紀にここに植民地を建設したフランスはその支配地域よりもさらに広いシリアなどを含む範囲(「大レバノン))をレバノンとして人工的な国境線を引き、小レバノンにはおらず大レバノン地域に多く生活していたキリスト教マロン派を優遇する形でキリスト教マロン派とそれ以外との対立を煽る分断統治の手法を取って支配を行った。

一九四一年に独立したとき、キリスト教マロン派を支配階級としてイスラーム教ドゥルーズ派、イスラーム教シーア派、イスラーム教スンニ派、ギリシア正教など諸宗派とアルメニア人、パレスチナ人、ユダヤ人、アラブ系諸族などの諸民族とが複雑に入り乱れ、いずれの集団も多数派を形成しないという植民地支配の矛盾をそのまま抱え、小規模の内乱や衝突も起こるなど不安定極まる状態であった。

一九七〇年代、ヨルダンを追放されたパレスチナ難民やPLOの中核組織がレバノンに流入してくる。その数三五万人に上る。弱体なレバノン政府は強力なPLOに反抗することも出来ず、PLOが拠点を作ることを認めざるを得なかったが、これはイスラエルにとっては敵対行動と見える。七〇年代以降イスラエルはレバノンに対し空爆を行うなど直接攻撃を盛んにおこなうようになった。この攻撃はパレスチナ人だけでなく、レバノンの農村や貧困層にも多くの被害を与え、彼らはベイルートなど都市に逃げ込み、スラムを形成するようになる。貧困層の多くはイスラーム教シーア派の人々が多く、パレスチナ人を憎む人々が増えることになった。彼ら直接の被害を蒙る貧困層や支配階級であるマロン派にとってパレスチナ人は侵略者とうつる。

一方で国内の矛盾も最高潮に達していた。支配階級であるキリスト教マロン派最大の民兵組織「ファランヘ党」は第二次大戦中ナチスをまねて作られたナチズム組織で、被支配者階級であるイスラーム勢力に対して抑圧的だった。一九七五年二月、元大統領の不正を糾弾するデモの最中にベイルート市長が射殺される事件が起き、反マロン派であるレバノン民族運動とファランヘ党が衝突、さらに四月にはPLOとファランヘ党が銃撃戦となり、米ソが支援する支配階級マロン派とシリア・アラブ諸国・PLOが支援する被支配階級イスラーム諸派のレバノン民族運動、さらに当初政治的解決を図ろうとしていたが断念したPLOを含む三つ巴の戦闘「レバノン内戦」が勃発する。

イスラエル相手に戦い続けてきたPLOとその支援を受けたイスラーム勢力の同盟の前には、いくら米ソの支援を受けているからといってもマロン派は敵ではなかった。一九七六年にはPLOとレバノン民族運動がレバノンの八〇%を実効支配し大勢が決しつつあったが、この状況に危機感を覚えたのが隣国シリアであった。

シリアのアサド大統領の危惧はイスラエルの動静である。このままだとキリスト教マロン派政権は斃れ、PLOとイスラーム教ドゥルーズ派を中心とした急進的イスラーム政権がレバノンに誕生することになる。それはイスラエルにとって最も好ましくない事態であり、レバノン新政権とシリアに対してイスラエルが軍事行動を起こす可能性が高まることになるだろう。当初、マロン派とドゥルーズ派やPLOを含めた新体制で停戦を斡旋していたシリアだったが、交渉が難航すると、直接行動に乗り出した。

一九七六年五月、シリア軍がレバノン政府の要請という体裁でレバノンに侵攻、ドゥルーズ派に対して攻撃、これを制圧すると、続けてマロン派やPLOとも戦闘を繰り広げたあげく、レバノン全域をその支配下に治めた。アサド大統領は卓越した外交手腕を発揮してシリア軍をアラブ平和維持軍として合法的に駐留しつつ、イスラエルとも秘密外交でレバノンに長距離ミサイル等イスラエルを攻撃可能な兵器を配備しないなどの協定を結び、危機回避を行った。PLOにはレバノン南部に拠点が与えられることとなった。

6)「キャンプ・デービッド合意」

第四次中東戦争後、エジプトのサーダート政権は親ソから親米路線に完全にシフトし、財政立て直しのため、さらなる米国の支援を必要としていた。そのためにはイスラエルとの和平が最重要課題となっており、最大の課題であるパレスチナ問題は棚上げする方針が固まりつつあった。一九七七年一一月、サーダートはイスラエルを電撃訪問してイスラエル議会で演説を行い、翌一九七八年九月にはカーター大統領の仲介でサーダート大統領とイスラエルのベギン首相との間で「キャンプ・デービッド合意」が取り決められる。

「キャンプ・デービッド合意」エジプトとイスラエルは平和条約を締結し、シナイ半島はイスラエルからエジプトに返還、パレスチナ問題については協議を開始する、という三点が決められたもので、実質「パレスチナ問題」を先送りして、エジプトの権益を守るものであった。

そして、これはイスラエルにとっても大いに益のある内容である。まず過去四度に渡り直接対決してきた最大の強敵エジプトの脅威が取り去られる。次にイスラエル国内の経済が悪化の一途を辿っており、その改善のため一息つきたいところだった。また、政権を取ったばかりのリクード党政権にとって、外交的成功は何よりの成果である。そして、イスラエルは後顧の憂いなくPLOの壊滅に全兵力を注ぐことが可能になる。

7)「レバノン戦争」と虐殺

一九八二年六月六日、イスラエル軍の大機甲部隊がレバノンへと侵攻した。その数予備役まで含め五〇万人弱とも言われる空前の大戦力で、その侵攻に呼応する形でマロン派の「ファランヘ党」を中心とした反シリア組織レバノンフォースも武装蜂起、シリア軍駐留部隊に対して総攻撃を仕掛けこれを瞬く間に壊滅させると、首都ベイルートを包囲、PLOのパレスチナ・キャンプに対しても集中的に爆撃を加えた。

ガリラヤの平和作戦」と名付けられたこの大侵攻作戦は、ほんの三日前の六月三日に起きたイスラエルの駐英大使が何者かに襲撃された事件がPLOによるものであるとした報復で、イスラエル北部ガリラヤ地方のユダヤ人居住区をパレスチナ人のテロから守るという名目だった。しかし、誰もそれを信じる者などいないだろう。六月四日には侵攻の前哨戦となる爆撃が南レバノンに加えられており、実質一日で予備役を含めた軍の招集から侵攻までを準備するなど不可能だ。また、ガリラヤ地方について言えば、PLOによるテロの犠牲者は過去十五年間でほとんど無い。PLOのテロはヨルダン川西岸とガザ地区に集中していた。あきらかにかなり以前から用意周到に準備された侵略であった。

流石に国際法完全無視のこの行為に国連でもイスラエルに対する非難が相次ぎ、六月八日には停戦決議がなされ、PLOとレバノンはこれを即座に受諾したがイスラエルは拒否し、続く国連安保理のイスラエル非難決議は米国が拒否権を発動して紛糾した。

国連無視で攻撃を続けるイスラエルの大軍に徹底抗戦で応じたPLOだったが、六月一三日からのベイルート爆撃で市民に多数の犠牲が出たことで、PLOは市民を巻き添えにすることは出来ないと判断して、条件付き撤退案を発表する。しかし、この撤退案をイスラエルは無視。七月五日~一二日の爆撃、続く七月二二日~八月一二日の爆撃でベイルートはほぼ壊滅状態となり、八月二一日、遅きに逸した多国籍軍の到着とともにPLOの撤退が開始された。国連軍の役割はイスラエル軍の撃退ではなくPLOの撤退の監視であった。

九月一日、ベイルートからPLO軍とシリア軍が撤退を完了し、国連軍の監視下でパレスチナ住民の安全な脱出が図られるはずが、九月一〇日から一二日までに米伊仏軍がパレスチナ住民を残したままベイルートから撤退、それに呼応するかのように九月一六日、イスラエル軍がベイルートのパレスチナ・キャンプを突如包囲する。「サブラ・シャティーラ事件」と呼ばれる虐殺の始まりだった。

イスラエルの言い分によると『テロリスト掃討の目的で、パレスチナ難民キャンプに入ったキリスト教右派民兵組織ファランジスト(引用者注:ファランヘ党)が、残酷にも無差別に、老人、子ども、男、女を殺した。無実の者を殺害する罪は、もっとも重い。』(広河P88)と、イスラエル軍エイタン参謀総長が語っている。『「キャンプを清める」仕事』(広河P86)がファランヘ党に与えられたのだとイスラエルのラジオは報じていたという。犠牲者の正確な数字は不明だが、一八〇〇名以上の犠牲者が出たとされる。イスラエルの指揮下でナチズム系の極右民兵組織が虐殺を行うという、歴史の皮肉と言うには余りにも残酷な事件は、明るみに出たとき、イスラエルに対する国際社会の批難を最高に沸騰させることになった。

イスラエル撤退後、レバノンで台頭したのがシーア派組織「神の党(ヒズブッラー(ヒズボラ))」である。一九八二年、イスラエルの侵攻と殺戮に対抗して創設され、非イスラーム勢力のレバノンからの排除とイラン革命に倣ったイスラーム共和政の樹立を目的として、イスラエル・アメリカに対する徹底した武装闘争路線を取る。一九八三年のアメリカ大使館爆破事件など、苛烈な自爆テロを繰り返し、現在までシリアやイランの後ろ盾を得てレバノン・イスラエルを中心に活動している組織である。レバノン戦争の落とし子として、このヒズブッラーを巡る駆け引きがイスラエルを巡る中東情勢を大きく左右することになり、現在のシリア内戦まで大きな影響を与え続けている。

イスラエル撤退後もレバノンではシリアの再介入、ドゥルーズ派、シーア派民兵「アマル」、同シーア派組織「ヒズブッラー」、マロン派民兵、反シリアレバノン国軍(アウン派)、イスラエルの傀儡である南レバノン軍(SLA)などが入り乱れ、二〇〇六年にはシリア撤退後入れ替わるようにイスラエルが再侵攻するなど血で血を洗う内戦が続いている。

8)第一次インティファーダ(民衆蜂起)

二万名以上の死者を出してレバノンからチュニジアに撤退したPLOではアラファト議長ら指導部の責任を問う声が高まり、内部抗争と求心力の低下が起きていた。またこのPLOの敗北は占領地に住む人々にとっても、もうPLOに頼ることは出来ないという諦めを生む。その諦めが、自分たちの手で解決するしかないという決意へ、そして行動へと繋がるまでおよそ五年だった。

一九八七年一二月八日、イスラエル占領下のガザ地区でイスラエル軍の大型トレーラーとパレスチナ人の乗用車が衝突してパレスチナ人四人が死亡する交通事故が起きると、その葬儀の際にパレスチナ難民キャンプで反イスラエルデモが発生、瞬く間に全占領地に拡大し、成人男性だけでなく女性も子供も老人も手に手に石を持ってイスラエル軍に投石を開始する。

これに対して、完全武装のイスラエル軍が鎮圧に乗り出すが、どれだけの犠牲者が出ても、次から次へと他のパレスチナ人が投石を続ける。一日や二日ではない。来る日も来る日も投石が続けられ、イスラエル軍がどれほど鎮圧しようとしても止まることはなく、一九九三年のオスロ合意まで、足掛け六年に渡って投石による抵抗運動が続いた。この間のパレスチナ人死者一二三三人(うち一六歳以下三二四人)、負傷者一二万九四四六人。「石の革命」「石の闘争」と呼ばれる。

女性や子供が石を投げ、それにイスラエル軍が銃撃を加える、という衝撃は世界中を動かすことになった。アラブ諸国でも住民が蜂起してパレスチナ人支援を訴え、国際社会でもイスラエル批難の声が高まる。

一九八八年六月、臨時アラブ首脳会議が開かれインティファーダに対する支援と、パレスチナ国家樹立の信任が確認され、翌一九八九年七月、ヨルダンはヨルダン川西岸地区の主権放棄を宣言、実際の放棄実行は一九九四年のことになる。

一九八八年一一月一五日、PLOはパレスチナ国家の独立を宣言するとともに、大幅な路線変更を行った。PLOはまずイスラエルを国家として承認し、安保理決議二四二と三三八の受け入れ、テロの放棄を発表する。安保理決議二四二は一九六七年の第三次中東戦争に際して国連がイスラエルの占領地からの撤退、戦争状態の終結と領土の尊重、難民問題の解決などを決議したもので、和平の枠組みとされていた。三三八は第四次中東戦争時に出されたその再確認の決議である。

PLOの譲歩で米国も和平に乗り出したが、一九九〇年、再び中東全土を巻き込む戦争が、さらなる混迷を招くことになった。

9)「湾岸戦争」

一九九〇年八月二日、イラク軍が隣国クウェートの主権を主張して侵攻を開始する。クウェートはイラン・イラク戦争時、イラクを支援していた。イラクはそのクウェートへの多額の負債を返済するために、石油価格のコントロールをOPECに依頼していたが、それにOPECは応じず、恫喝的にクウェート国境に軍を終結させていた。エジプトのムバーラク大統領とPLOのアラファト議長が仲裁にあたり、侵攻は無いと思われていたが、その予想を覆しての突然の奇襲であった。

この軍事行動に世界中から批難の声が集まり、イラクは国際的に孤立。撤退を求める声に対してイラクはパレスチナ問題を持ち出して答える。つまり、イスラエルは国連決議を無視しても何も罰せられないのに、何故イラクが軍事的解決を図ろうとすると国連決議の順守を求められなければならないのか。パレスチナ問題の解決、つまりイスラエルの占領地からの撤退が行われるなら、イラクもクウェートからの撤退を考える(「パレスチナ問題とのリンケージ」)というものだ。

フランスなどを中心にクウェート撤退後のイスラエル撤退討議など段階的解決案が出され交渉が進められていたが、そのプロセスを無視して米国が多国籍軍の派遣を決め、一九九一年一月一七日、湾岸戦争が勃発する。

PLOとしては非常に難しい立場に立たされた。アラファト議長の仲裁が上手くいかず、イラクの侵攻を許したこと、クウェートにはパレスチナ人が多く出稼ぎに出ており、またPLOの支援国であること、一方でパレスチナ問題の解決を前面に押し出すイラクの主張を支持しないわけにもいかない。結局イラク支持を打ち出さざるを得なかったが、これは国際社会からの批難を招くことになり、サウジを始めとする反イラク諸国からの経済援助が打ち切られ、資金難に苦しむことになる。

10)イスラーム主義の台頭と「ハマース」の誕生

第一次インティファーダと湾岸戦争による多国籍軍の中東進駐は、アラブ世界の民衆レベルでイスラーム復興運動を巻き起こすことになった。パレスチナの人々が石を持ってイスラエルの占領に抵抗している、という事実は、それぞれの国において独裁的な世俗政権に立ち向かおうという意志を鼓舞する。さらにキリスト教世界の諸国の軍で構成される多国籍軍の攻撃は、聖戦をイメージさせた。この二つの潮流の受け皿として、原理主義的なイスラームの教えに帰ることを訴えるイスラーム主義勢力が様々な国で台頭する。
イスラーム抵抗運動(ハマース)」は第一次インティファーダ中の八七年末にムスリム同胞団パレスチナ支部を母体として結成されたイスラーム主義の対イスラエル抵抗組織だった。強硬的な姿勢を明確にし、イスラエルの承認とテロの放棄など政治的解決を図ろうとするPLOが迷走するのに失望した人々の受け皿となった。

実は、PLOに対抗する勢力として期待したイスラエルが秘密裏に支援をしていたとされるが、そのイスラエルの予想を超える勢いで組織力を強化し、貧困対策や福祉などの政策を重視して、急速に支持を広げ、九〇年代には対イスラエルテロ攻撃の主力として武装闘争を繰り広げた。湾岸戦争に際してPLO離れをおこしたサウジ他中東諸国もハマースの支援を行うようになったことも急成長に大きく影響している。

PLOのファタハが非宗教的なパレスチナ国家の建設を目指すのに対して、ハマースはイスラエルの撃滅とパレスチナのイスラーム国家建設を目指す(後に妥協して安保理決議二四二を受け入れている)。

国際政治の舞台で翻弄されながらもなお現実的和平路線を歩もうとするPLOへの失望が、対イスラエル強硬派の誕生を強く促した結果ハマースを成長させたという経緯である。のちに、合法活動部門を設立し、二〇〇七年にはパレスチナ自治政府議会選挙で過半数を獲得、穏健派ファタハの対抗勢力、対イスラエル最強硬派として勢力を二分することになる。

11)「オスロ合意」と「パレスチナ自治政府」樹立

一九九一年一〇月、中東の主導権を確保した米国ブッシュ・シニア政権はパレスチナ問題の解決に乗り出す。「マドリード会議」が開催されるが米国大統領選前ということもあってイスラエルへの配慮をせざるを得ない米国と、強硬姿勢を崩さないイスラエル、これ以上の妥協は出来ないパレスチナとの間で交渉が難航、暗礁に乗り上げたまま会議は中断する。

事態を動かしたのは米国ではなくノルウェーだった。九二年にイスラエルは右派リクード政権から左派労働党政権に移っており、ノルウェーが労働党とのパイプを生かして秘密交渉を行い、PLOとも接触して基本的な方向を摺り合わせる。

特にイスラエルにとっては、国際的批判だけでなく、海外からの投資が著しく減少しており、軍事偏重の経済であったこともあってパレスチナとの和平を進めないことには諸外国からの支援も望めず、経済的に破綻してしまう危機感もあった。

一九九三年八月二〇日、PLO・イスラエルの相互承認、ガザ地区・ジェリコ先行返還、五年間の暫定自治などが取り決められた「オスロ合意」が結ばれる。ノルウェーはこの合意が米国の反対で水泡に帰す恐れを回避するために、就任したばかりのクリントン政権の功績として譲り、クリントン大統領の前でアラファト議長とラビン首相が握手をするというデモンストレーションが行われた。
一九九四年五月、ガザ地区とヨルダン川西岸地区が返還されPLOを母体とした「パレスチナ自治政府」が樹立、アラファト議長が初代大統領に就任した。二〇一二年現在、パレスチナ自治政府を国家承認している国は一二六ヵ国、日本はイスラエルや欧米諸国と足並みを揃え国家承認していない。

しかし、ガザ地区は形だけの返還でユダヤ人入植地域が残され、かつイスラエル軍もそれを守る形で残留、ヨルダン川西岸地区もパレスチナ自治政府が実効支配しているのは三分の一程度で残りはイスラエル軍が展開しており、自治には程遠い状況であった。また、ハマースやPFLPなどの強硬派はこの合意は諸問題を棚上げしているだけだとして、妥協を批判した。

イスラエル国内でもこの合意は妥協であるとして批判を集め、一九九五年にはラビン首相がユダヤ教過激派の青年に暗殺される事件が起きている。イスラエルでも長く続く戦乱で和平を望む人々が大多数だったが、一部の過激派・強硬派の声の大きさに政権も答えざるを得なくなる。ラビン後継のペレス首相はアラファトと和平を進めつつも、九六年、ハマースの軍事部門指導者の暗殺を実行、強い首相であることをアピールする意図だったが、ハマースがこれに報復テロを行い、首都テルアビブで次々と自爆テロが実行される。

九六年、イスラエル国内のテロで政情不安定化を招いたペレスは和平派の支持すら失って右派のネタニヤフに敗れ、和平プロセスが停滞、九九年、労働党バラク首相に代わるが、この頃、レバノンでヒズブッラーの勢力が急拡大してイスラエル軍がレバノンから完全撤退する。その外交的失点を対パレスチナ交渉で強気に出ることで回復させようとし、パレスチナ自治政府に対して西岸地区の九〇%の支配権をパレスチナに認める代わりに、西岸地区の一割をイスラエルが五~二一年の間支配するという提案を行い、和平会議が決裂した。

オスロ合意の枠組みは最終的に二〇〇六年のイスラエルによるレバノン再侵攻で完全崩壊する。

12)二〇〇〇年以降~現在

二〇〇〇年九月二八日、野党右派リクード党シャロン党首がエルサレムを訪問しイスラーム教とユダヤ教共通の聖地の丘に登り、イスラーム教徒を挑発する。これに怒ったイスラーム教徒が蜂起して投石を開始、第二次インティファーダが始まった。第一次インティファーダと違い、イスラーム教徒、パレスチナ人、さらにヒズブッラーやハマースも巻き込んでの武装闘争に発展して、パレスチナ人がイスラエル人をリンチし、イスラエル軍がガザ地区にミサイル攻撃を加え・・・と復讐が復讐を呼んで暴力が連鎖する。

そのような中、二〇〇一年にはイスラエルにシャロン政権が誕生、ヨルダン川西岸地区に積極的にユダヤ人入植を進め、パレスチナ人の追放に乗り出す。さらに、二〇〇一年九月一一日のニューヨーク同時多発テロから始まるアフガン戦争に際して、イスラエルは米国の対テロ戦争に同調し、「テロリスト」の撲滅のため、一〇月二日、ガザ地区に侵攻する。一二月三日、イスラエル軍は議長府建物を包囲し、アラファト大統領を軟禁。翌四日、イスラエル政府はパレスチナ自治政府を「テロ支援体制」に指定し、アラファトにハマース撲滅を求めた。最終的に二〇〇二年三月一五日に米国の圧力で撤退するまで、イスラエル軍は対テロ戦争の名目でパレスチナ自治政府を蹂躙し続けた。

イスラエルに屈服したアラファト大統領の権威は完全に失墜し、軟禁生活の疲れもあって体調を崩して二〇〇五年に死去。大統領選挙の末、ファタハのアッバース議長が大統領に就任し、アッバース体制に移行するが、二〇〇七年、合法活動に転じたハマースが穏健派のファタハ体制批判票を集めて議会の過半数を確保、ハマースのイスマイル・ハニーヤがパレスチナ自治政府首相に選出された。

ハマースはファタハと連立政権を組んだが二〇〇七年にガザ地区を武力占領しイスラエルとの戦闘に突入するとともに、ハマースとファタハの武装闘争が勃発して連立は解消、二〇〇八年にはイスラエルがガザ地区に侵攻を開始しガザ紛争が勃発する。二〇一一年にファタハとハマースとの停戦が合意しパレスチナ自治政府は挙国一致体制に移行、以降、イスラエルとパレスチナ自治政府との和平が模索される、という状況でファタハとハマースとの間の対立も深刻な状態であることは変わらず、混迷を深める中、二〇一二年一一月のハマースとイスラエルとのミサイル攻撃の応酬へと繋がる。

大まかなアウトラインとしてはこのような流れの中で、どのような解決策が取られるべきなのか、出口は全く見えない。

参考書籍・サイト
・広河 隆一 著「パレスチナ新版 (岩波新書)
・アラン・B・クルーガー 著「テロの経済学
・J.F. ゲイロー、D. セナ 著「テロリズム―歴史・類型・対策法 (文庫クセジュ)
・宮田 律 著「中東 迷走の百年史 (新潮新書)
・ヤコヴ・M.ラブキン 著「イスラエルとは何か (平凡社新書)
・塩川 伸明 著「民族とネイション―ナショナリズムという難問 (岩波新書)
・山内 昌之 著「帝国とナショナリズム (岩波現代文庫)
・山内 昌之 著「民族と国家―イスラム史の視角から (岩波新書)
パレスチナ – Wikipedia
パレスチナ問題 – Wikipedia
パレスチナ自治政府 – Wikipedia
オスロ合意 – Wikipedia
ハマース – Wikipedia
ガザ地区 – Wikipedia
レバノン内戦 – Wikipedia

スポンサーリンク
スポンサーリンク

フォローする

関連コンテンツ

スポンサーリンク
スポンサーリンク