パレスチナ問題の背景としての第一次~第三次中東戦争まとめ

先日更新した記事「イスラエルとパレスチナの対立を巡る戦乱の歴史まとめ」から長くなったので割愛したPLO誕生前の第一次~第三次中東戦争の経緯についての部分をまとめておく。一部重複する部分もあるが、「憎しみの連鎖としてのユダヤ・パレスティナ対立前史」と「イスラエルとパレスチナの対立を巡る戦乱の歴史まとめ」の間にあたる部分になる。

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1) 第一次次中東戦争

一九四七年、パレスチナ地区をユダヤ国家、アラブ国家、エルサレム特別国債管理地区の三分割を定めた国連決議が賛成多数で決議されたが、パレスチナ地域のうち五二%をユダヤ人が獲得することになり、アラブ側の意図を無視した、アラブ側にとって著しく不利な内容となっていた。

一九四八年、これを不満としたイラク、シリア、エジプト、トランス・ヨルダン、レバノンなどアラブ諸国とパレスチナ人勢力の連合軍がエルサレムに侵攻を開始すると、イスラエル臨時政府はそれを受けて立ち、アラブ連合軍を完膚なきまでに撃退。一九四九年、アラブ国家予定地域の大半とエルサレムなどを含むパレスチナ地域の七五%をその支配下に治めた。イスラエルは秘密裏にアラブ軍主力のトランス・ヨルダンと秘密協定を結んでおり、戦後の停戦条約ではガザ地区がエジプトに移った以外は、東エルサレムとヨルダン川西岸がヨルダンへ、残りをイスラエルの領土とすることになり、国連決議は有形無実化、パレスチナ人の土地は消滅し、パレスチナ難民が生み出された。

第一次中東戦争中からイスラエルが支配した地域ではパレスチナ住民の土地の没収、追放が進められ、そのためにイスラエル軍によるパレスチナ住民の虐殺が繰り返された。戦後、一九五〇年にはパレスチナ難民は九五万人に上った。

イスラエル軍が銃で脅し、住民たちを数十キロも歩かせ、イスラエル支配地域から追放する。その抵抗を排除するため効果的だったのが、虐殺であった。一九四八年五月、エルサレムのデイル・ヤーシーン村では無抵抗の住民約一〇〇人が銃殺され、アイン・アッゼイトネ村では三七人の少年がイスラエル軍に連れられたまま行方不明となり、ドワイマ村では女性や子供も含む八〇~一〇〇人が棍棒で撲殺された。この一連の虐殺が殊更喧伝されるとパレスチナ人は自主的に脱出を図るようになる。また、武力による追放はエスカレートしてその後も幾度となく虐殺が繰り返された。

2)第二次中東戦争

第一次中東戦争の敗戦でエジプトでは王政の権威が失墜、一九五二年、軍部がクーデターで国王ファルーク一世を追放し、クーデターの首謀者であったナギーブが臨時首班に就任、権力闘争の末、腹心だったナーセルが権力を掌握して大統領に就任する。ナーセルはイスラエルの権益を守ることに固執するアメリカから離れてソ連に接近し、社会主義政策を取りつつ軍事力を増強、イスラエルに対抗しようと試みていた。

このエジプトの一連の動きに警戒心を抱いたイスラエルは早いうちに力の差を見せつけることでその意図をくじく必要性を覚える。一九五五年、イスラエル軍はエジプト領ガザ地区を奇襲攻撃し、エジプト兵四〇名を殺害。ナーセルはこの挑発に堪えつつ、国力を向上させるためアスワン・ハイダムの建設に着手したが、米英が建設資金の融資を停止する措置に出たことで追い詰められ、一九五六年七月、エジプトは英仏が利益を独占していたスエズ運河の国有化を宣言する。このエジプトの対応に英仏両国は怒り心頭で、イスラエルと対エジプト秘密同盟を締結、第二次中東戦争の準備が整った。

一九五六年一〇月二九日、イスラエル軍がシナイ半島に侵攻、その二日後、英仏両軍がエジプト領の爆撃を開始し、一一月五日、英仏軍もシナイ半島に侵攻し英軍落下傘部隊がスエズ運河西岸ポートサイドのエジプト軍に対し奇襲攻撃を加え、英仏イスラエル同盟軍によってエジプト軍は追い詰められた。

一九五六年一〇月二九日、第二次中東戦争が勃発したとき、イスラエル中央部カセム村でパレスチナ人村民四七名がイスラエル軍によって殺害される虐殺事件が発生。報道管制が敷かれていたが、欧州にそのニュースが報じられるとイスラエル批判が巻き起こることになり、英仏イ三国の侵攻に対して国際社会が批判的な姿勢となる。一九五六年一一月二日、英仏の拒否権行使で空転した安保理に代わり、米ソ両国主導で「平和のための結集決議」において即時停戦を求める決議がなされ、同八日までに停戦がなされることとなった。

第二次中東戦争で最も痛手を蒙ったのは英仏両国だった。英国はスエズ運河の権益を全て失い、イートン内閣は総辞職、五億ポンドの戦費は無駄となり経済的に停滞して国際的地位を大幅に後退させた。フランスもこの失敗に続くアルジェリア戦争の行き詰まりで第四共和政が崩壊。シャルル・ド・ゴールが大統領に迎えられ第五共和制へと移行する。

イスラエルは軍事的には勝利していながら欧米の意思に左右されざるを得ない状況に危機感を覚え、急速に軍事力の増強に乗り出した。諜報機関(モサド)を整え、核兵器開発に着手するとともに、パレスチナ側の抵抗勢力に対する抑圧と攻撃をさらに強める。世界中に広がったユダヤ人ネットワークからの支援とドイツからの巨額の賠償金などの潤沢な資金によって、ほどなくしてイスラエルは中東地域に圧倒的な軍事大国として成長する。第二次中東戦争の経験はイスラエルをより危険な存在としてしまった。

3)第三次中東戦争

一九六七年、イスラエル国内ではドイツからの賠償金支払いが終了し、経済的停滞によって景気後退、失業者の増大などの影響で国内の不満が高まりつつあった。また、かねてから聞かれていたエルサレムの旧市街はヨルダンの支配地域であったことで、イスラエルのユダヤ教徒は聖地「嘆きの壁」を訪れることが出来ないことに対する不満の声が、社会不安とともに高まりつつあった。また、のちのPLO中核組織ファタハがこの頃からゲリラ戦を展開し始めており、イスラエルとしても少なくない損害を受け始めていた。

イスラエルはこのような国内情勢の問題を対外戦争に出ることで解消することを企図しはじめる。一九六七年五月五日、国連が反対するエルサレムでの軍事パレードを強行、アラブ諸国を挑発する。エルサレムへの兵力投入に対し、同日中にエジプトがシナイ半島へ戦車部隊を集結させ、一色触発の状態になる。五月一八日、第二次中東戦争後、エジプトの要請で英仏イ軍撤退監視目的で派遣されていた国連軍に対し、エジプトが撤兵を要請し、国連軍が撤退する。その撤退直後の五月二二日、エジプトのナーセル大統領はアカバ湾を封鎖し、イスラエルの紅海の石油補給ルートを断ち、イスラエルを締め上げる。

このころアラブ側で暗躍していたのがソ連KGBであった。アラブ諸国へのより強い影響力確保のため兵器輸出や軍事支援を進めたいソ連としてはイスラエルの脅威は大きければ大きいほど良い。一九六七年六月、イスラエルはついに対アラブ諸国軍事行動を決断し、KGBもそれを察知していたが、敢えてその情報をアラブ諸国には伏せていた。

一九六七年六月五日、イスラエル空軍がエジプト・シリア・ヨルダン・イラクに対し一世奇襲攻撃を敢行、瞬く間に航空機四〇〇機以上を破壊すると、完全に制空権を確保し、間髪入れず二六万余りの地上軍を投入、アラブ諸国軍を一蹴し、わずか六日でヨルダン川西岸地区、ガザ地区、シナイ半島、ゴラン高原などを占領して完全勝利を収めた。

停戦後も三年に渡り、アラブ諸国による散発的な攻撃が繰り返されたものの、領土回復に至ることは無く、第三次中東戦争は終わった。

完全にイスラエルの支配下に治められたパレスチナ地域では、パレスチナ人に対する迫害と追放、虐殺が一掃強く繰り広げられることになり、やがて形骸化していたPLOにファタハやPFLPなどが加盟、アラブ諸国の強い支援を受け、テロ攻撃を中心とした対イスラエル抵抗戦争を開始する。

以後、一九七三年の第四次中東戦争、一九八二年に始まるレバノン戦争、一九八七年の第一次インティファーダ、そして二〇〇一年のアフガン戦争・イラク戦争と連動してのパレスチナ自治政府占領、二〇〇八年から現在まで繰り返されるガザ紛争などの一連の戦乱へと繋がっていく。そして第一次中東戦争以降、これらのほぼ全ての戦争でイスラエル軍によるパレスチナ人虐殺が繰り返されている。

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