鎌倉・逗子の境界にある死の聖域「まんだら堂やぐら群」と名越切通、猿畠の大切岸

追記:2015年5月20日:毎年のまんだら堂やぐら群限定公開時期を紹介するようにします。

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平成二十七(2015)年度(毎週土・日・月・祝日公開)

  • 夏:4月25日(土)~6月1日(月)
  • 秋:10月17日(土)~12月13日(日)
  • 春:平成二十八(2016)年2月27日(土)~3月21日(月)

猿畠山法性寺

猿畠山法性寺山門

鎌倉と三浦半島を繋ぐ旧道「名越切通」の道沿いにある非公開であった国指定史跡「まんだら堂やぐら群」が期間限定で公開されているとのことだったので、行ってきた。

猿畠山法性寺山門

横須賀線沿いにある寺院「猿畠山法性寺」が逗子側からの名越切通への入り口となっている。

法性寺本堂

法性寺本堂

法性寺は日蓮の弟子日朗とその弟子朗慶によって文応元年(一二六〇)に創建された寺院で、当時、日蓮が浄土宗の排斥などを訴えた著書「立正安国論」を執権北条時頼に送ったことに対し、激昂した浄土宗門徒らは日蓮の松葉ヶ谷の草庵を襲撃、その追手から逃れて隠れ潜んだのがこの付近の洞窟であったとされる。伝承では隠れ潜んでいたときに白猿三匹が現れて食糧を恵んでくれたという。そのような経験から日蓮は弟子の日朗に対し、この地に寺院の建立を命じたとされる。

奥の院への階段

本堂からほどなくして奥の院や墓地へと上る階段がある。

日朗廟所

日朗廟所

日朗は日蓮の六人の高弟「六老僧」の一人で日蓮の死後池上本門寺を受け継ぎ基礎を築いた人物として知られる僧で、元応二年(一三二〇)、鎌倉の安国論寺で荼毘に付された後、この法性寺に葬られた。

奥の院

奥の院

日蓮が隠れたとされる岩窟

日蓮が隠れたとされる岩窟

日朗廟所の向かいには奥の院、その奥の院横の岸壁には日蓮が隠れたとされる横穴が残されている。

山王大権現

山王大権現

その横穴のある岩場は山王大権現として祀られ、頂上には仏塔が設けられている。

大切岸

大切岸

その法性寺の裏山にあたる衣張山の断崖部分に高さ三~一〇メートル、全長八五〇メートルにわたり現存するのが大切岸(おおきりぎし)とよばれる鎌倉時代の遺構だ。従来、宝治合戦に備えて三浦氏からの攻撃を防ぐ目的で幕府が防衛ラインとして築いたものとされていたが、近年の調査で大規模な石切り場の跡であることが判明した。鎌倉前期、鎌倉の街の整備のために使用された切石の供給地であったと考えられているが、同時に鎌倉と三浦半島を繋ぐ名越切通に繋がる山道でもあるため、城壁的な防衛ラインとしての機能も果たしていた可能性も否定はできないという。

修復中の大切岸

修復中の大切岸

平成二十五年まで遺構保存のため修復・整備工事が行われており、見ることが出来ない箇所もあるが、かなり大規模な人工的絶壁を見ることが出来るので、とても見応えがあるとおもう。

衣張山ハイキングコース

衣張山ハイキングコース

その大切岸の間から山道が伸びており、これが衣張山ハイキングコースとして、名越切通経由の鎌倉方面と逗子市内の久木地区とをつなぐ山道になっている。

衣張山ハイキングコース

衣張山ハイキングコース
その途中にはこのような死者の埋葬地に建てられたと考えられる石塔なども残されており、中世の風情が非常によく残っている。

大切岸上からの眺望

大切岸上からの眺望

ハイキングコースを名越切通と逆方向に少し歩くと、大切岸上の展望所があり、逗子市街を一望できる。

名越切通

名越切通

鎌倉は三方を険しい丘陵に囲まれ南方は海に面した天然の要害で、鎌倉の発展は陸路の整備とセットであった。一三世紀、北条氏政権が確立した以降、鎌倉へと至る七つの陸路「鎌倉七口」が整備された。その鎌倉七口の一つ、三浦半島と鎌倉をつなぐ交通路が名越切通である。
史料上の初出は天福元年(一二三三)八月十八日条の吾妻鏡で、以後日蓮が鎌倉から法性寺付近へ逃走したことを踏まえても一三世紀のかなり早い時期に整備されたものと考えられている。以後中世・近世を経て明治一六年(一八八三)に名越隧道が開通するまで幾度も整備が繰り返され、主要道として機能していた。
周辺には大切岸、まんだら堂やぐら群など中世の遺構が多く残されていることから逗子市鎌倉市にまたがって国史跡として指定されている。

名越切通

名越切通

名越切通最も狭い箇所

名越切通最も狭い箇所

名越切通しの最も狭まった部分は第一切通と呼ばれており、最も狭い部分で幅約九〇センチメートルしかない。しかし、調査の結果、以前は二七〇センチメートル以上あったことが判明している。以前は広かったが大地震等自然災害を経て崖が崩落し、その都度修復しながら道幅を狭めつつ使われてきたものだとされている。

名越切通

まんだら堂やぐら群へ

まんだら堂やぐら群へ
名越切通の途中からまんだら堂やぐら群へと至る登り道が伸びている。まんだら堂やぐら群は通常保存と調査のため非公開だが毎年一時期だけ臨時公開されることになっている。今年(平成二十四年)は一〇月六日~一二月九日の土日祝日のみ。来年以降は未定で、現在平成二十六年度中の史跡公園化の整備計画が進められている。

まんだら堂やぐら群

まんだら堂やぐら群

まんだら堂やぐら群は一つ二メートル四方の横穴が一五〇以上集まったやぐら群で、その穴には多数の火葬した骨が納められた五輪塔が設置されており、中世の集団墓地であった。葬られているのは武士や僧侶、富裕な商人などが中心であったと考えられている。またやぐら付近の平場では遺体を火葬したと思われる跡や、斬首されたとみられる頭蓋骨なども出土しており、集団墓地であり火葬場であり、かつ処刑場であったと考えられている。
史料上の初出は文禄三年(一五九四)の検地帳「相州三浦郡小坪郷御縄打水帳」で、「まんだら堂」という名前が見られる。その名「まんだら堂」の由来としては法性寺が近くにあることから日蓮宗の本尊「曼荼羅」に由来するとされる。一三世紀に鎌倉で死体の遺棄葬が禁じられたことにともなって作られたと考えられているが、古くから境界や街道のチマタ(岐)は死体が遺棄されたり、処刑場として使われたりすることが多かったことから、大切岸や石塔群、まんだら堂やぐら群など含めて聖地として重視されていたと考えられる。
近世の始め、万治二年(一六五九)の史料にも名越の三昧場(さんまいば)という記載があり、三昧は涅槃、つまり葬祭場であったとされている。当時の人々にとって名越坂(名越切通)を通るのは死を強く意識させられる経験であったと見られ、そういう意味でも古くからこのまんだら堂付近は生と死の境界であり続けていた。

まんだら堂やぐら群

まんだら堂やぐら群

まんだら堂やぐら群

まんだら堂やぐら群

貴重な非公開史跡の臨時公開ということもあって、わくわく感が半端無かったが、実際に見てみると期待以上で、とても圧倒的だった。無数の五輪塔が岸壁に重なるように掘られたやぐらに設置されており、苔むした周囲の自然とマッチして立ち上がってくる幽玄さがゾクゾクさせられる。
ジブリアニメにでも出てきそうな童話的な風景、その中に潜む死の情景が混然一体となったこの史跡は中世史に興味がある人なら一見の価値ありだと思う。

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逗子駅からバス「久木五丁目」下車
参考書籍
・現地配布資料:逗子市教育委員会「国指定史跡 名越切通 平成24年度 臨時公開資料」
・逗子市教育委員会「国指定史跡名越切通整備基本計画策定報告書 平成17年(2005年)」
・赤坂 憲雄著「境界の発生 (講談社学術文庫)
・松尾 剛次著「葬式仏教の誕生-中世の仏教革命 (平凡社新書600)

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