鎌倉幕府は何故滅亡したのか?

鎌倉幕府は何故滅亡したのか、細川重男著「鎌倉幕府の滅亡」では原因とされている七つの要因を以下の通り整理している。(細川P6-7)

1) 畿内近国において荘園制を揺るがした悪党の跳梁
2) 恩賞問題をはじめとする対蒙古防衛策の重圧
3) 天皇家分裂の果てに惹起した後醍醐天皇の倒幕運動
4) 貨幣経済の進展による御家人の窮乏化
5) 惣領制の動揺による御家人の家内部の混乱
6) 得宗を頂点とする北条氏への権力集中とこれによる幕府の専制化
7) 暗愚の主北条高時の下での御内人の幕政壟断

1~3は西国を中心とした問題、4~5は武家社会の構造変化、6~7は鎌倉幕府の統治構造の問題であり、これらの要因が相互に連関しながらある瞬間、一気に滅亡へと転落していった。

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1)鎌倉時代の貨幣経済の進展

以前「いかにして中世日本で市場経済が浸透したか?」で簡単にまとめた通り、鎌倉時代は非常に貨幣経済・市場経済が浸透・発展した時代だった。十二世紀後半からの宋銭の流入は、宋の滅亡と元の成立によって拍車がかけられた。元が通貨を貨幣から紙幣へと変更し宋銭の使用を禁じたことで大量の余剰貨幣がアジア全土に広まる。日本においても平清盛の日宋貿易に始まり、平氏滅亡後も一三世紀初頭にかけて日本中に銅銭が流通し、一二七〇年前後に年貢の「代銭納制」が浸透することで、土地の作物を売却・換金する商品経済が一般化する。

また、源平合戦以降承久の乱に至るまでの度重なる戦乱を通じて、武士が恩賞として受ける領土は日本中に分散していくようになった。その結果全国的に分散した所領を繋ぐ流通網が整備され、西国を始めとする日本中の所領と東国の拠点鎌倉とをつなぐ大規模な海運・陸運ネットワークが日本列島に、そして大陸へと張り巡らされていく。

絶対的な価値を持っていた土地は貨幣経済の浸透によって交換可能な商品へと変質し、やがて地位や主従関係、借金の証文に至るまで貨幣化出来ないものは何もないほどに貨幣が浸透、市場経済だけでなく為替や信用経済、贈与経済に至るまで経済の一大発展期を迎えた。土地を中心とした地方土着の武士社会から、貨幣を中心とした日本列島をつなぐ市場経済社会へ、急激で巨大な変化のうねりがわずか一世紀の間に到来する。

2)鎌倉幕府の諸問題

急激な市場経済の発展は、武士間の経済格差の拡大をもたらす。日々の生活を送るために土地を売り払い、あるいは商業に手を出して失敗し貧困化した御家人たちは「無足」と呼ばれて社会問題化する一方で、政権中枢の御家人たちは経済活動を通じて所領と財をより拡大し特権的支配層となって権勢を振るう。鎌倉殿の前の平等という鎌倉幕府のお題目は形骸化していく。

このような中で武士の土地取引を禁止し、一定期間の間に失った土地は元の所有者に戻すことなどを定めた「徳政令」が繰り返し出されることになる。御家人のための政権である鎌倉幕府としては無足御家人保護に乗り出すのは妥当であったが、この徳政令を巡っては政権内部でもたびたび衝突があったらしく、徳政令が出されてはそれを取り消し、また徳政令が出され、また取り消しを繰り返すなど迷走していた。

同時に、承久の乱によってその統治能力を失った朝廷以下の西国政権に代わって西国の諸問題へと鎌倉幕府は介入せざるを得なくなったが、統治機構としては全国規模の展開をし得る力を充分に行使するには能力が及ばず、無理が生じていた。東国の武士たちにとって跳梁する悪党や蒙古襲来に備えた九州防衛など西国の諸問題は充分な見返りの期待できない、義務だけが強いられる面倒事であった。

当時、鎌倉幕府は全ての武士を御家人として従えていた訳ではない。旧西国政権に属していた者や新興の武士など公家・寺社領下の将軍と主従関係を持たない非御家人が多く存在しており、彼らは「本所一円地の輩(住人)」と呼ばれ独立勢力となっていたが、北条時宗は対蒙古戦争に際して彼らを動員した。その処遇もこのまま新御家人として鎌倉幕府に従えるのか、それとも鎌倉幕府には編入しないのかが問題として浮上していた。

3)安達泰盛の改革「弘安徳政」

弘安七年(一二八四)、危機下の支配者として強権を行使し、独裁体制を築いた北条時宗が亡くなると、鎌倉幕府は集団指導体制に移行する。時宗嫡子貞時が執権に就任するがまだ十四歳と若く、安達泰盛が実権を握って幕政改革を断行する。安達泰盛は頼朝の股肱の臣として知られた安達藤九郎盛長の曾孫で、北条時宗の側近中の側近であった。この泰盛の改革は後に「弘安徳政」と呼ばれ、頓挫しさえしなければ鎌倉幕府の滅亡はかなり先に延びていただろうと考えられている。

泰盛は新たな法令を次々と発令する。まず、弘安七年五月、御家人でなかった本所一円地住人を幕府の支配下に編入し、北条得宗家、将軍らに倹約を求め、臨時の支出を停止し財政の健全化を図り、税徴収の徹底化、厳罰化、御家人領の保護などを定めた「新御式目」を発令。続く八月の「新御式目」では訴訟プロセスのスリム化・厳格化・公正化などを定めた訴訟制度改革を定め、後に鎮西探題に発展する九州の神社との折衝機関を新設して実運用を開始、関東御領の調査を命じて幕府財政基盤を整備し、北条得宗家とその直属家臣団である御内人の綱紀粛正を図り、西国支配機構である六波羅探題の権限強化を行うなど、わずか一年半で統治構造の抜本的改革を行おうとした。

西国を従えてはいても実体として東国政権であった鎌倉幕府を全国統治機関に発展させつつ、中央政府に集中していた機能をスリム化して、権能を分散し、地方機関への分権、守護の権限強化など、これまでの将軍独裁・得宗独裁的な中央集権体制から一気に守護や地方機関が主体となる地方分権的な体制へと移行させようとするものであった。『南北朝内乱なしでの鎌倉幕府の室町幕府的体制への移行』(細川P116)とでもいえる、一大改革に発展する可能性があった。

4)「霜月騒動」

平頼綱は、三代執権北条泰時の代に北条得宗家に仕えるようになった平盛綱の子または孫で、時宗の代に執事として御内人の筆頭として頭角を現した人物である。安達泰盛とは時宗時代から対立をしていたが、弘安徳政の泰盛の一連の改革に対しては批判的であった。彼にとっては従来の御家人制の堅持、北条得宗家と将軍権力のさらなる強化こそが幕府の進むべき方向性である。北条得宗家のさらなる強化、西国への関与は最低限に、本所一円地住人は排除し、既存御家人の救済と権益の保護を重視する。

その意見の相違はやがて決定的な対立へと向かう。弘安八年(一二八五)十一月十七日、平頼綱によって秘密裏に進められた安達泰盛排除計画がついに実行に移された。同日昼、鎌倉の街が騒がしくなっていることに気付いた泰盛は執権北条貞時邸に向かう。そこに待ち伏せていたのが頼綱配下の者たちで、泰盛は速やかに殺害される。同時に一斉に安達派の者たちが襲撃を受け、安達一族ほか五百名余りが殺害され、続けて信濃・上野・播磨・三河など全国各地で平頼綱派と安達泰盛派の戦闘が勃発、いずれも頼綱派が勝利し、政権を掌握した。

霜月騒動による安達泰盛改革の頓挫は鎌倉幕府滅亡へのターニングポイントとなった。

5)平頼綱の政治と「平禅門の乱」

頼綱には頼綱の正義があった。彼にとって一連の泰盛の改革は御家人制の破壊であり、幕府を揺るがす「悪」でしかない。頼綱が政権を掌握して以降、本所一円地住人は御家人に編入される方針は撤廃され、一方で西国の武士統制機関である鎮西探題が弘安徳政を引き継ぐかたちで設置されて、彼らには義務だけが求められた。また、政権の綱紀粛正も徹底され、その厳しさは主である北条一門が怖れるほどだった。頼綱の治世には成果も多いが、結果として抜本的改革の棚上げという面が大きかった。

やがて、権力を集中させた頼綱は専制化していく。武家の名門として御家人の間に閨閥を張り巡らせ、強固な権力基盤を築いていた安達氏と違い、頼綱は北条得宗家の直属の家臣でしかなく、霜月騒動も単純に反安達で繋がっていたに過ぎなかったから、権力基盤は脆弱であった。その脆弱な権力基盤を強化するために、彼はやがて恐怖政治を敷くようになる。安達氏の改革に代わる自身が信じる改革を進めんとする情熱は権力の維持だけを目的とするようになり、そして、破綻した。

永仁元年(一二九三)四月二二日、その九日前の十三日に、未曾有の大地震が鎌倉を中心に発生し二三〇〇〇人が亡くなったが、その混乱に乗じて執権北条貞時は平頼綱の殺害を命じ、密かに追手が差し向けられる。余震が断続的に続き、鎌倉の街の至る所で火災が起こる中、平頼綱邸は包囲され、頼綱は自害、一族九三人が死亡した。「平禅門の乱」と呼ばれる。

6)特権的支配層と「嘉元の乱」

霜月騒動で安達泰盛が、平禅門の乱で平頼綱が去った後に残ったのは、王朝貴族さながらに財と権力を独占する特権的支配層であった。鎌倉幕府が直面していた諸問題はことごとく放置される。悪党は跳梁し、西国の非御家人は体制から排除され、貧困の無足御家人たちは収奪される一方で、経済格差が拡大し、幕府の統治能力は著しく低下し、そして北条時頼・時宗親子が確立した北条得宗家専制体制も空洞化していく。

嘉元三年(一三〇五)、執権を退き得宗として執権に代わり権力を振るっていた北条貞時の屋敷が火災に見舞われる。この犯人とされたのが北条一族の長老であった連署北条時村で、御内人が貞時の「おおせ」として彼を襲撃して殺害、しかし、これは間違いであったとして御内人の実行犯十一人が斬首、その黒幕として得宗家公文所執事北条宗方が浮上し、その噂に抗議するために貞時の元を訪れた宗方が誅殺される。この混乱は貞時の権威を失墜させ、以降彼は政治から興味を失い北条得宗家は形骸化していくことになる。半世紀以上ぶりとなった北条一門同士の殺し合い「嘉元の乱」は、得宗専制体制を崩壊させた。

あとに残ったのは完全に力を失い傀儡と化した北条得宗家と執権であり、幕府の実権を握ることになるのが特権的支配層であった。鎌倉幕府末期、幕政を壟断し、富を収奪した特権的支配層の代表者は二人いる。平頼綱の叔父長崎(平)光盛の孫長崎(平)円喜と、安達泰盛の弟顕盛の孫安達時顕であった。彼らは貧窮する御家人たちを横目に一族郎党で顕職を独占し、合法的に他の御家人から所領を収奪し、その富裕さを誇った。

7)鎌倉幕府の滅亡

御家人たちはある日気付く。貴族たちを倒して作り上げられた武家政権は、大きな社会のうねりの中で、徐々に変質し、平等であったはずの御家人の間には埋められない格差が生まれ、そして得体の知れない何者かが幕府を壟断してしまっているのではないかと。事実、武家政権として始まった鎌倉幕府は、王朝貴族瓜二つの特権的支配層を生み出し、貴族政治さながらの体制に変質していた。我ら武士の政権から”奴ら”を取り除くしかない。

『解決の道は、武家社会の現実に即した御家人制の根本的な改革しかありえなかったであろう。全国の武士に御家人となる道を開くことによって、武士階級のすべてを鎌倉幕府に取り込み、全国の武士のニーズに的確・迅速に対応するために守護・探題といった地方機関に支配権を分与する――つまりは、室町幕府的な体制への移行しかなかったのではないか。しかし、このような試みとして唯一のものであった弘安七年(一二八四)五月に始まった幕政改革「弘安徳政」は、翌弘安八年十一月に勃発した鎌倉幕府史上最大の内戦「霜月騒動」によって、改革推進者安達泰盛とともに葬られ、二度と試みられることはなかった。』(細川P155)

日本史上最大のトリックスター後醍醐天皇の怨念そのものとも言える倒幕の叫びが、日本中を沸騰させる。小豪族新田義貞の元に続々と鎌倉恩顧の御家人が参集し、鎌倉幕府の特権的支配層の一人であったはずの佐々木京極道誉が暗躍し、鎌倉幕府の重臣であった足利高氏が反旗を翻す。元弘三年(一三三三)五月、分倍河原の戦いで大敗し主力を失った幕府軍は天然の要害である鎌倉に籠り一大籠城戦を展開する。二十万の新田軍は攻めあぐねるが、ついに由比ヶ浜から鎌倉突入に成功し、北条高時を始めとする北条一族と長崎円喜ら長崎氏、安達時顕ら安達氏など幕府中枢は東勝寺に籠り、五月二二日、火を放って八七〇名が次々と自害を果たしていく。

業火の中で鎌倉幕府は壮絶に崩壊し、長い長い戦乱の時代が始まった。

参考書籍
・細川 重男 著「鎌倉幕府の滅亡 (歴史文化ライブラリー)
・福島 金治 著「安達泰盛と鎌倉幕府―霜月騒動とその周辺 (有隣新書)
・本郷 和人 著「武士から王へ―お上の物語 (ちくま新書)
・桜井 英治 著「贈与の歴史学 儀礼と経済のあいだ (中公新書)
・網野 善彦 著「異形の王権 (平凡社ライブラリー)

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