「アーミッシュの赦し―なぜ彼らはすぐに犯人とその家族を赦したのか」

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承前
アーミッシュの文化・社会・信仰について以下のエントリを前もって読んでいただくと、理解しやすいと思います。
愛と赦しの全体主義的宗教共同体アーミッシュについて

序章

チャールズ・カール・ロバーツ四世は三二歳。ニッケル・マインズ地域のアーミッシュとイングリッシュの農場をトラックで回り牛乳瓶を回収する仕事をしており、妻と八歳、六歳、一歳半の三人の子供の五人暮らし。若干短気でよく悪態をついていたが引っ込み思案で口数が少ない内気な男性だった、という。

二〇〇六年一〇月二日。その日の朝もいつもどおりロバーツは家族で朝食を取ると八歳と六歳の子供をスクールバスの停留所に送り、八時四十五分、二人にキスをして別れを告げる。そのまま車に乗り込み、仕事に・・・向かわなかった。かねてからの計画通り、九ミリ拳銃、十二ゲージ散弾銃、三〇―〇六ライフル、スタンガン、弾丸六〇〇発、そしてこまごまとした備品が車に積まれている。彼が目指したのは、ランカスター郡アーミッシュ居住区西ニッケル・マインズ校――神に復讐するために。

第一章

ロバーツが学校に到着した時、学校は丁度午前中の休み時間であった。ロバーツの車が乗りつけると、物音を聞きつけた教師エンマが玄関口まで出て来る。車から降りたロバーツはエンマに探し物をしている旨伝え、一旦車に戻ったが、すぐに拳銃を握りしめて出て来ると、校舎に突入して拳銃を振り回しながら生徒や教師らに対し床に伏せろと命令、学校は瞬く間に恐慌状態となる。

エンマは他に大人が残っているのを確認すると隙を見て脱出し近所の農家に駆け込む。一〇時三五分、その農家近くの電話ボックスから通報がなされ、わずか九分後の一〇時四四分には学校にまず三名の警官が到着、やや遅れて増援の警官隊が合流し、ロバーツが立て籠もる学校は警官隊により完全に包囲され、交渉人が投降を呼びかける。

アーミッシュの学校では頻繁に近隣の父兄が非公式に招かれることが多く、この日も数人の父兄が招かれていた。ロバーツにとっては教師以外にも大人が複数いたのは想定外で、困惑している様子だったという。窓のブラインドを下し、大人と男子生徒たちを外に追い出して人質を女子生徒だけにするとドアを釘付けにする。最初から彼の目的は女子生徒たちであった。

人質となった少女たちは事件後、ロバーツがこう語っていたと証言する。

俺は神に腹を立てている。だから、クリスチャンの女の子に罰を与え、仕返しするんだ

・・・事件から遡ること九年前、ロバーツ夫妻の間に生まれた待望の長女エリーズは生後わずか二〇分で亡くなってしまう。その悲しみ、後悔と自責の念を彼はずっと抱き続けていた。時は彼を癒さなかった。彼は妻にこう書き残している。「俺は君にふさわしくない。完ぺきな妻である君にふさわしいのは、もっと……俺の心は自分への憎しみ、神への憎しみ、途方もない空しさで一杯だ。皆で楽しく過ごしていても、なぜエリーズだけがいないんだと怒りが湧いてくるんだ」(P49)

癒されるべき心の傷を、赦されるべき罪の意識を抱えながら、アーミッシュという濃密な相互扶助の共同体を目前に、決してその共同体に入ることは出来ない外部者として、彼は生活を送っていた。その疎外が、彼の心に暗く澱んだ憎悪を育んでいたのかもしれない。助けあい、支えあい、赦しあうアーミッシュの人々を、来る日も来る日もただ見つめ続け・・・そして、静かに芽生える憎悪は彼の心を侵食し、狂気へと変わる。彼は現場から電話で妻に対し、自分の娘に性的虐待をしたことがありその罪の意識に苛まれている、と告白しているが、実はそのような事実は全くなかった。あきらかに現実と妄想とが交錯した状態にあった。

警察に包囲された状態で、ロバーツは一度思いとどまる素振りを見せたという。人質の少女たちに対し「こんなことをして・・・」と言い、立て籠もる教室から出て行こうとした。だが投降することはなかった。午前一〇時五五分、彼は警察に対し携帯電話で「少女一〇人を人質にとった。全員ここから出ろ・・・さもないと、二秒で皆殺しにする。二秒だぞ。わかったか!」と伝え、電話を切ると、人質の少女たちに向かってこう宣言する。

娘の償いをさせてやる

アーミッシュは信仰において聖書とともに、その過酷な迫害の歴史によって死んだ殉教者たちの言行録「血塗られた劇場、あるいは無抵抗なキリスト教徒の鏡となった殉教者たち(通称「殉教者の鏡」)」という文献を重視し、そこに描かれた殉教者の物語は学校や教会での牧師の説教など様々な場面で語られる。日々親しんだ殉教者の過酷な自己犠牲の物語を少女たちもまた思い起こしたのだろうか。最年長十三歳の少女マリアンは、ロバーツの宣言を聞くと、年下の子供たちを守ろうと立ち上がり、彼に向ってこう言った。

私を最初に撃って

午前一一時五分。教室から銃声が鳴り響き、それを聞いた警官隊が一斉に突入を開始する。窓ガラスを割り警官隊が教室へと乗り込んだその瞬間、ロバーツは自らを撃ち死んだ。十人の少女のうち三人、最年長のマリアンと十二歳のアンナ・メイ、七歳のナオミ・ローズが即死、八歳のメアリー・リズと七歳のレーナの姉妹が搬送先の病院で亡くなり、残る五人の少女も重軽傷を負った。現場は血と混乱が支配していた。(以上、ドナルド・B・クレイビル著「アーミッシュの赦し―なぜ彼らはすぐに犯人とその家族を赦したのか (亜紀書房翻訳ノンフィクションシリーズ)」P37-54より再構成。以下引用部分は同書より)

第二章

事件が報じられると米国中の民間と公共機関、アーミッシュと非アーミッシュを問わずさまざまな支援がなされ、現地の消防署がその対応センターとして機能する。危機管理センターからカウンセラーが多数派遣されて心のケアがなされ、地元警察は総出でメディアからアーミッシュの人々をガードし、ボランティアが集まって全米から送られる手紙や義捐金、さまざまな支援品の仕分けが行われる。事件の事後対応はアーミッシュとイングリッシュの垣根を越えて実施された。

そのような中で米国中の人々を驚嘆させる出来事が起きる。「赦し」である。

『アーミッシュが、ロバーツの未亡人とその遺児たちも事件の犠牲者なのだ、と気がついたのは早かった。夫や父を失った上に、プライバシーも暴かれている。しかも、アーミッシュの犠牲者と違い、ロバーツの家族は、最愛の人が無垢な子供と家族に凶行を働いた恥を忍ばねばならない。』(P76)

事件がおきた日の夜、ロバーツ家を三人のアーミッシュが訪ね、未亡人と彼女の両親に「あなたには何も悪い感情をもっていませんから」と伝える。同じころ、ロバーツの父の家にも隣人のアーミッシュが訪問し、彼を抱擁するとこう伝える。「私たちはあなたを赦しますよ」。次の日からロバーツ家に次々とアーミッシュの人々が訪れては家族を見舞い、赦しと慰めの言葉をかける。それは被害者遺族も同様で幾人かは死んだ娘の葬儀にロバーツ家の遺族を招待している。さらに内々に行われたロバーツの葬儀の参列者の半数がアーミッシュであり、後に被害者遺族もみな彼の墓に参り、未亡人にお悔やみと赦していることを伝えた。

事件の二日後に発足した「ニッケル・マインズ・アカウンタビリティ委員会」ではアーミッシュの委員たちからこういう意見が続出した。『今度の事件は、アーミッシュだけでなく、地域全体にふりかかった悲劇です。ロバーツ家の人たちも同様に支援しなくては』『収入のなくなった彼らの面倒を誰がみるんです?我々が千ドル受け取るのに、彼らが五ドルしかもらえないとしたら、それは間違っている』(P82)

第三章

昔ながらの生活を送るアーミッシュの集落でおきた凶悪な事件と少女の自己犠牲、そして感動的な赦しの実践というニュース的に”ウケがいい”経緯であるがゆえにメディアはこぞってこの事件に飛びついた。米国人はアーミッシュの行為を見て恥じ入るべきだ、これぞ真のキリスト教である、アーミッシュの人々の方が現代人より遥かに進んでいる、など手放しの賞賛が各誌の論説に踊る。

そしてメディアやブロガーたちはアーミッシュの行為を理想化することで、次は社会批判や政治批判へと発展させる。ワシントンの政治家よりアーミッシュの方が危機管理に優れている、ブッシュがアーミッシュに習ってビン・ラーディンを赦していたら泥沼の戦争にはならなかった、宗教右派はアーミッシュから寛容の精神を学べ、リベラル派宗教者たちはアーミッシュの少女のような自己犠牲の精神をもっているとは思えない・・・などなどなど。また、そもそも犯人がこれだけの銃器をそろえる事ができること自体おかしいという批判に対して、「銃を所持・携帯する権利のための市民委員会」委員長アラン・M・ゴッドリープはこう言い放った。

「この乱射事件・・・・・・そして、過去一〇年間に起きた学校乱射事件すべてに共通する点が一つある」「これらはいずれも、いわゆる『銃砲所持禁止学校区域』で起きており、生徒も成人職員も基本的に無防備」「銃で自衛することができなかったケースである」(P105-106)

非暴力主義のアーミッシュに武装しろと?世界中で見られるいつものメディアの混乱はさておき、本質的な議論はむしろアーミッシュの行為に対する数少ない批判派から出た。コラムニストのジェフ・ジャコビーはボストン・グローブ誌に「不相応な赦し」という論説を掲載した。

『ジャコビーは、アーミッシュが悪に善で報いよというイエスの教えに従おうと奮闘する姿は「実に感動的」だと認めた上で、憎しみが常に悪いわけではないし、赦しが常に適切とも限らない」と彼の考えを述べた。そして読者にこう問いかけている。「我々のなかに、子供が虐殺されたのに誰も怒らないような社会に住みたいと本気で思っている者が、どれだけいるだろう?」
問題は赦しそれ自体にあるのではない。「自分を傷つけた人間を進んで赦すことは、美しいし、賞賛に値する」と彼は言う。しかし、今度のケースはこれとは異なる。なぜなら彼らは、<他者>を傷つけた人物に赦しを与えているのだから、とジャコビーは指摘する。「誰かが他者に不当な仕打ちをしても、容易に赦されてしまうのだとしたら、世界をよくすることなどできない」』(P97-98)

ジャコビーを含めアーミッシュの対応に対する批判は数少なかったが、『その場に相応しい感情の欠落、悪への運命論者的な態度、悔悛しない罪人も進んで赦してしまうこと、他者に代わって赦しを与えてしまうこと、しかもその迅速さ』(P100)に対する批判が主であったという。

第四章

そもそも<赦し(forgiveness)>とは何か、著者は英国の哲学者ジョアンナ・ライトの定義を引いている。

『他者から不当な害を受けたとき、憤る権利を否定するのではなく、加害者に憐憫、慈悲、愛を与えようと努めることを通じて加害者への憤りを克服することを赦しという』(P198)

この定義から赦しの三要素
1.被害を真摯に受け止めること(被害を与えることは不当であり、将来も不当であり続ける)
2.被害者には「道義的にも怒る権利がある」こと
3.被害者は、赦すためには怒り憤る権利を「放棄」せねばならないこと

が導かれる。『赦しとは、与えるに値するとは限らない「加害者への贈り物」』(P198)である。

『悪行がなされなかったかのように振る舞うことは赦しとは違う。出来事を忘れることは赦しとは違う。容認や弁護も赦しとは違う。逆に赦しとは、「そのような不当な行為は間違っていると認め、再び繰り返すべきでないとすること」である。』(P199)

<赦し(forgiveness)>と似て非なるものに<赦免(pardon)>と<和解(reconciliation)>がある。<赦免(pardon)>は加害者が一切の罰から解放されることを言うが、赦しが与えられたからといって法的な処罰などを含む懲罰から免れることにはならない。また<和解(reconciliation)>は被害者と加害者の関係を修復、ないし、関係を新たに創造することを言うが、赦しがすなわち関係の修復にはならない。「和解には信頼関係を再生させることが必要」だが不可能な場合もある。赦しても和解はなされないことも往々にしてありうる。

アーミッシュの人びとが事件に際して見せたのは<赦し>であって<赦免>ではなかった。罪に応じた罰を与えるのも<赦免>するのも司法の役割であってアーミッシュの権限ではなく、また彼らもそれを意図していない。またロバーツは死んでしまった以上<赦し>が<和解>へと発展する機会は永遠に失われている。

アーミッシュの人々が行ったのは、文字通り「加害者に憐憫、慈悲、愛を与えようと努めることを通じて加害者への憤りを克服」しようとする試みとしての、<赦し>であった。

第五章

アーミッシュにとって赦しの実践は特別なことではなく、慣習として根付いているものだ。この事件に限らず、様々な事件において彼らは常に加害者を赦してきた。その過程は決して感情の欠落と呼ばれるようなものではなく、人として芽生える相応の悲しみや怒り、憤り、憎しみを抱く。その上でその感情と向き合い、克服しようとする第一歩として相手に対して赦しを表明するというものだ。まず、相手を赦すことで、自身の中に芽生える憤りや悲しみと向き合い、それを乗り越える努力を始める。

<赦し>はアーミッシュの信仰の中心に据えられる概念である。その根本にあるのは新約聖書「マタイによる福音書」の第六章九節から十三節、主の祈りの部分である。

『「天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を、赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」』(新共同訳「新約聖書」P9)

この解釈がプロテスタントとアーミッシュでは正反対のものになる。

『大方のプロテスタントは、神は罪を犯した者もお赦し下さるのだから、不当な仕打ちを受けた者も相手を赦すべきなのだ、という理解の仕方をしている。ところがアーミッシュは、神は他者を赦した者<しか>お赦し下さらない、と考えている。』(P156)

まず神の恵みとして赦しがあり、それゆえに人は寛容になり他者に赦しを与えられる、と考えるのが非アーミッシュのプロテスタントの解釈であるのに対して、アーミッシュはそもそも赦しを実践することではじめて神が赦しを与えてくれると解釈する。神の赦しは遥か昔に与えられたもので、その赦しが現在も続くかどうかは、自分たちが相手を赦し続けられるかどうかにかかっているというものだ。

アーミッシュの文化は個人主義の否定を大前提としている。「ゲラーセンハイト(服従)」と呼ばれるその習慣はキリストの生涯を理想とする「弟子の道」の実践者として、共同体が定める「オルドヌング(規律)」に従い、神と教義とに服従することを誓って、自己否定と個の制約のもとで慎ましやかな信仰に捧げる生活を送るものだ。共同体主義が個の尊重を前提とするならば、個の否定を前提とする彼らは、集団主義あるいは全体主義的とさえ言える。神への服従をその信仰の柱としているがゆえに、神への畏れが赦しの実践の背後に非常に強いものとして存在している。

赦しには「決意された赦し」と「心からの赦し」とがあるとされる。「決意された赦し」とは、『否定的感情が残っていても、否定的行動はコントロールするという誓約』(P210)で、「心からの赦し」とは、『否定的感情―憤り、恨み、あるいは憎悪―が、肯定的感情に置き換え』(P211)られた状態のことを指す。アーミッシュはまず「決意された赦し」を実践することで、「心からの赦し」へと繋げることを目指す。

繰り返し湧き上がる否定的感情と何度も何度も向き合い、赦しのプロセスを繰り返す。それは感情の欠落や悪の容認などとは対極に位置するものであり、迅速過ぎるように見えるのは外部の世界では長い期間を経ての心からの赦しがあって初めて赦しの決意の表明がなされるのに対して、アーミッシュの人々はまず、赦しの決意を行うことで、心からの赦しへと繋げようとするズレから発している誤解である。アーミッシュの一人はこう語っている。

「いくら赦してもそれで終わりということはなく、何度でも赦さなくてはいけないのよ」(P212)

第六章

悲しみや怒り、憤り、恨み、憎しみなどの感情を抱くのは人として自然な現象である。むしろそれらの感情が無いければ、人は理不尽に襲い掛かる大小さまざまな悲劇を受け止めることは出来ないだろう。しかし、それを抱き続けることもまた、悲劇である。赦せないことは自分を痛めつけ、時に取り返しのつかない事態へと繋がっていく。赦しのプロセスを辿ることで初めて、癒しが実現され、その感情を昇華させることができる。

『赦しとは、赦して忘れることではなく、むしろ赦したことがいかに癒しをもたらしたかを記憶にとどめておく(remember)ことなのだ。記憶するとは、悲劇と不正に寸断された(dismembered)生のかけらを広い集め、何かしら完全なものに再び組み入れる(re-member)ことである。残忍な犯罪を忘れることは個人としても集団としても困難だが、忘れ得ぬことをどう記憶にとどめておくかは自分の意志で決められるし、我々は実際、そうしている。』(P281)

「癒し」は世間一般で言われているような、その場しのぎの心地よさなどではなく、悲劇と向かい合い、もう一度生きることを考え、「忘れ得ぬことをどう記憶にとどめ」ていくかに向かい合うプロセスの中でゆっくりと現れてくる現象であることを示唆してもいる。
九七年のカナダ映画に「スウィート ヒアアフター 」という作品がある。ラッセル・バンクスの「この世を離れて (Hayakawa novels)」という小説の映画化作品で、監督は名匠アトム・エゴヤン。子供たちのスクールバス転落事故を契機にして、その事件の謎から徐々に浮き彫りになっていく人々の苦悩と再生の過程を静かに描いた傑作だが、同作で描かれていくのも、悲劇と不正に寸断された生のかけらを拾い集め、忘れ得ぬことを記憶にとどめようと事実と向かいあう・・・赦しと癒しのプロセスだ。その過程に必要なのが”スウィート・ヒアアフター(穏やかなその後)”なのだ。

ニッケル・マインズ銃乱射事件から半年後の二〇〇七年四月二日、西ニッケル・マインズ校に代わって新校舎での授業が始まった。新校舎は「ニュー・ホープ(新しい希望)」と名付けられ、アーミッシュの被害者の子供たちや家族、地方関係者や警察、そしてロバーツの遺族も招かれた。事件のとき人質となっていた大人の一人で妊婦だった女性には女の子が生まれ、被害者となって死んだ少女の名が名付けられたという。そして、それまで分断されていたアーミッシュとイングリッシュとの距離は事件を通して大きく近づき、ともにイベントを開催したり、新たな友人関係が築かれていった。

だが、まだ終わっていない。アーミッシュの人々はその後も何度も湧きあがる怒りや悲しみの感情を抱き、そのたびに赦すことに向かい合っている。神の恵みに対する信仰と、穏やかなその後だけが、その試みを支えている。

『「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも許しなさい。」』(新共同訳「新約聖書」P35 マタイによる福音書十八章二一節~二二節)

アーミッシュの人々にとって「赦し」の実践はその集団主義的な信仰と規範とに根付いた文化であり、例えば古き良き米国の伝統でもなければ、真のキリスト教とでも言うようなものでもない。むしろ個人を基礎とする近代社会の対抗文化として存在している。だが、それをもって反個人主義を訴えたり、アーミッシュの文化をユートピア的なものに模するのもまた、健全ではない。「赦し」は非常に普遍的なプロセスであり、現代社会に生きる人々が切実に必要としているにも関わらず、我々が実践するには非常に困難な、ときに偽善として責められるものとさえなっている。

怒りや憎しみから自由になれない、敵を求め、敵を作り上げることによってしか安心を得ることが出来ないほどに追い詰められた人々がいる。巨大な災害や重大な犯罪の被災者・被害者として理不尽な悲劇に直面し、その悲しみや喪失感をいかに昇華させていくか苦しむ人々がいる。今、「赦し」を整理して、その向き合い方を考えることの重要性は著しく増していると思う。それゆえにこの本は、アーミッシュという特殊な集団で起きた事件でありながら、非常に普遍性を持つ内容として、学ばされることが数えきれないほど多い。

忘れ得ぬことを心にとどめるために、悲劇と不正に寸断された生のかけらを拾い集めねばならない、全ての人に薦めたい。

参考書籍
・ドナルド・B・クレイビル著「アーミッシュの赦し―なぜ彼らはすぐに犯人とその家族を赦したのか (亜紀書房翻訳ノンフィクションシリーズ)
・ドナルド・B・クレイビル著「アーミッシュの昨日・今日・明日
・ドナルド・B・クレイビル著「アーミッシュの謎―宗教・社会・生活
・堤純子著「アーミッシュ
・日本聖書協会「小型聖書 – 新共同訳

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