ユーゴスラヴィア内戦勃発要因としての経済崩壊のプロセス

承前:「ユーゴスラヴィア戦争前史~緩やかな連邦制は如何にして瓦解したか

先日の上記記事では七四年憲法体制からクロアチア戦争の勃発までの簡単な流れを書いたが、もう少し内戦前の旧ユーゴの経済危機について主に佐原徹哉著「ボスニア内戦 [国際社会と現代史] (国際社会と現代史)」を参考にまとめておきたい。現代の日本の状況に対して色々示唆するところがあると思う。

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1)「自主管理社会主義」体制

一九四六年にチトーを首班として誕生したユーゴスラヴィア連邦人民共和国は一九四九年、コミンフォルムから突然追放されることとなり、東西両陣営どちらにも属さない非同盟主義を取らざるを得なくなる。その模索の中で作り上げられたのが新しい社会主義「自主管理社会主義」であった。

ソ連型社会主義は上からの社会主義であり、参加に基づく下からの社会主義こそ真の社会主義であるとして独自の制度を発達させる。一九五〇年に成立した「労働者評議会法」は、労働者が企業の意思決定に直接参加することを定め、社会主義体制において国家の役割であった各企業の年間計画から生産、人事に至る各権限が全て企業に移管、中央政府の経済に関する権限が縮小される。

ソ連など社会主義諸国にみられる国有化路線は否定されるとともに、西側の資本主義諸国にみられる私的所有もまた否定され、『市民による共有とその管理への平等な参加に基づく「社会的所有」という概念』(佐原P66)を根幹とした体制が整っていった。労働者による自主管理は企業だけでなく行政においても浸透し労働者の代表が官僚や経営者をチェックする体制が構築されていた。

市民生活は手厚い社会福祉によって支えられる。連邦政府が賃金水準、年金、医療保険、育児手当等のガイドラインを作成し、各共和国がその具体的施策を立案し予算措置を講じ、共和国間の格差や不足した予算は連邦政府が補填することで再分配機能を働かせる。ただし、この様々な福祉は各企業を通じて分配されることになっていたため、公務員や自主管理企業の職員で無いものはその恩恵を受けることが出来なかった。失業者、個人経営者などは社会福祉の恩恵に預かれず、企業の労働者からなる労働者評議会を通じて議会に代表を送る仕組みであったユーゴ社会では政治参加も一部制限されていた。

勤労大衆国家」という理念こそが、ユーゴスラヴィアの自主管理社会主義体制の中核である。企業で働かざる者食うべからず、ただし企業で働く者には手厚い福祉と権利を・・・日本の戦後体制でもユーゴとどことなく通じあうように見える体制が構築されていたが、ユーゴと日本という冷戦構造下で周縁に位置した国で相似の体制が発達したのは必然であったのかもしれない。

2)市場社会主義の浸透と縁故主義の蔓延

自主管理社会主義を推し進める要因となったのが市場経済の浸透であった。東側からの排除によって西側への接近の必要性が生じたユーゴは市場メカニズムの導入を行った。具体的には固定価格制度から自由価格制度に移行し、資源配分は市場原理が採用され、意思決定の迅速化のためにより下部へと権限を移譲させる。市場経済化とパラレルで進められたのが中央政府から共和国へ、共和国から自治体へ、企業へという分権化であり、ユーゴスラヴィアの連邦化が進められていった。

分権化は市場経済を浸透させたが、一方で縁故主義の蔓延ももたらすことになる。分権化された地方自治体の権限を巡って有力者が地域の政治と経済の権限を握ると、縁故主義のネットワークが各地で張り巡らされる。地方自治体の有力者が企業経営者の人事権を握り、あるいは企業経営者が地方自治体の首長として権限を掌握することで地方経済と自治体権力との融合が進み、地域住民の支配者として君臨することになる。住民は自治体=企業を通じて社会保障や賃金を得ていたから、社会生活全般に渡って生殺与奪の権限を握られることになる。汚職や腐敗の温床として社会全体の閉塞感を産む要因となっていくが、少なくとも経済発展が続く間はその矛盾は噴出することはなかった。

スターリンの死後、一九五五年のフルシチョフの訪問などもあってソ連との関係は徐々に改善されたが東側陣営に戻ることはなく非同盟主義を続けることになった。西側陣営との経済関係の拡大は資金流入とともに国際収支の赤字をもたらし、インフレと失業率の増加をもたらし続けていた。それでも冷戦下においてソ連牽制の目的からアメリカが積極的に融資を行い、一九六〇年代以降国際収支の改善を目指して貿易自由化や関税引き下げ、企業税の軽減など生産性を向上させる施策が打たれたが慢性的なインフレ基調が続いた。

3)「協議経済」の矛盾と経済危機の進展

一九七四年に誕生した「七四年憲法体制」に各共和国への大幅な権限移譲とともに特徴的だったのは「協議経済」と呼ばれる積み上げ式の経済計画立案システムであった。企業や行政機構など細分化された経済基礎単位がそれぞれ相互の協議を経て『社会の多様な利害を少しずつ統一し、最終的には全体計画に到達する』(佐原P90)というもので、資本主義でも社会主義でもない民主的な協議に基づく第三の経済システムとされたが、むしろ煩雑な事務手続きと、変化に対応できない硬直さ、さらに談合や汚職など腐敗の温床となるなど、以前の自主管理社会主義体制の矛盾をより増幅させることとなった。

労働者の協議によって運営される自主管理企業は利潤の最大化ではなく所得分配の最大化を志向する特徴を持つが、赤字でも企業内留保より所得分配を重視する傾向が強く、さらに六五年以降金融規制緩和によって自主管理企業による銀行設立が可能となると、業績悪化企業への安易な融資が横行し、不良債権が積み重なり、しかし共和国を始め地方自治体は雇用確保のため経営危機に瀕した企業への融資を継続するよう圧力をかける。業績悪化企業への融資は銀行の経営を圧迫し、その銀行を支えるため共和国は中央銀行に無制限の融資を求め、金融政策は実質中央政府ではなく共和国の意向に左右されたから、中央銀行もそれに応じる。

一九七〇年代まではアメリカをはじめとする西側諸国からの投資に支えられた工業・製造業の発展で年平均五%台という順調な経済成長を遂げていたが、一九七八年の第二次石油危機による金利上昇によって短期資本の流入が滞ると、外債を財源としていた銀行融資が止まることとなり、企業を痛撃、国内企業の業績悪化から、累積する隠れ債務の表面化へと繋がり、一気に経済危機に直面、一九八〇年には債務不履行宣言すら視野に入り、IMFに融資を依頼することになる。

IMFは融資条件としてインフレ抑制、貿易と価格の自由化、財政支出削減と企業倒産を可能とする制度改革などを求め、ユーゴ政府もそれに応えた諸施策を断行、各種補助金が廃止され、公共料金が値上げになると、一九八三年以降生活必需品の料金が三割上昇、平価切下げが繰り返されることでユーゴスラヴィア・ディナールの価値は一九七九年の十分の一以下に下落、それにあわせて所得水準は一九八八年時点で一九七八年の三分の一となり、貯蓄水準は八割減、経済状況は急転落していった。

結果、一九八〇年代になると異常なペースでインフレが進行する。一九六〇年代に一桁台で推移していたインフレ率は七〇年代に一〇%を超え、一九八〇年台後半には三桁、そして一九八九年には二六〇〇%という異常な事態へと推移した。経済成長率も一九七〇年代に平均五%だったが、一九八一~八七年平均〇・八%、一九八三年と八七~八八年にはマイナス成長となる。失業率も一九八六年には社会セクターのみで一六・六%、ただし自主管理企業はリストラを行っていないため隠れ失業率はさらに大きかった。そして失業者の六割が二五歳以下の若年層であった。

国内経済を破滅的状況に追い込んだIMF主導の経済改革だったが、外部投資家にとっては歓迎すべきもので一九八五年には対外債務の返済能力を回復し、さらなる改革のためにIMFは「協議経済」による分権化によって機能不全となっていた中央銀行の機能強化、国内市場の統一化、財政安定化などを柱とした経済改革を求めてきた。これを実行するには分権化されてきたことで生じた国内のロスを改善する抜本的な政治制度改革が必要となるが、経済危機下のユーゴ連邦内でクロアチアやスロヴェニアなど比較的経済が好調な共和国はこの中央集権化による共和国の権限縮小の方針には強く抵抗し、改革は遅々として進まなかった。

4)アンテ・マルコヴィチ首相の改革と経済崩壊

様々な改革が悉く頓挫した後、一九八九年三月に首相に就任した元経済官僚アンテ・マルコヴィチはアメリカの後ろ盾を得つつ、これまでの政治停滞が嘘のように強いリーダーシップを発揮、政治・経済改革を断行する。GDP比五%の財政削減を条件としたIMFの待機性借款と世界銀行の構造調整借款の確保、共和国と自治州への財政支援削減、価格自由化、平価切下げ、輸入規制撤廃、緊縮通貨政策実施などによる急ピッチの市場経済化改革によって二六〇〇%のハイパーインフレ鎮静化に成功、経済・財政再建への道筋をつけた。

しかし、残念ながら改革が始まるのが遅すぎた。抜本的な改革に耐えうるだけの体力が、最早ユーゴ社会には残されていなかった。

『マルコヴィチの経済改革は「ショック療法」によってユーゴ経済を西側世界経済に包摂するものであったため、当然のように、社会主義体制が長年にわたって築き上げてきたセイフティーネットに破滅的な作用を及ぼした。平価切り下げによる輸入品、特に、エネルギー資源の高騰と緊縮財政はあらゆる公共料金の値上げに跳ね返ったし、補助金削減は食料品を含む生活必需品の高騰を招いた。その一方で、賃金は一九八九年一一月の水準で凍結され、これにディナールとドイツ・マルクを連結する固定相場制とインフレの影響が重なって、実質賃金は一九九〇年上半期に四一%の減少となった。
こうして国民の消費水準は劇的に悪化したが、さらに深刻な現実が追い討ちをかけた。自主管理企業の資本主義的私企業への転換を目指す新たな企業法によって、雇用確保義務が廃止され、倒産が制度化されたからである。一九八九年だけで、二四八の企業が倒産し、八万九四〇〇人が解雇されたが、翌年上半期にはさらに八八九の企業倒産と五二万五〇〇〇人の解雇が続いた。つまり、全就業人口二七〇万人中の二三%が一年半あまりの間に職を失ったのである。加えて賃金未払い状態の労働者がさらに五〇万人以上おり、その数字を合わせると、四割以上の労働者が生活の糧を失ってしまったことになる。』(佐原P113)

働かざる者食うべからずの勤労大衆国家ユーゴスラヴィアの国民にとって失業はすなわち社会保障の喪失も意味したから、貯蓄水準の低さもあって、失業は生死にかかわる一大事であった。この結果、一気に社会的混乱が突き進むことになり、この混沌が後の内戦の最大の要因の一つとなっていく。内戦勃発一年前のことである。

この深刻極まる経済的要因とともに民族主義の台頭と民族・宗教対立、各共和国の分離独立の動き、ソ連・東欧崩壊にともなう武器の大量流入による地方自治体・住民の武装化など様々な要因が複雑に絡み合うことで、ユーゴスラヴィアは内戦へと真っ逆さまに転げ落ちていった。

参考書籍
・佐原徹哉著「ボスニア内戦 [国際社会と現代史] (国際社会と現代史)
・柴 宜弘 著「ユーゴスラヴィア現代史 (岩波新書)

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